第19話 帰るんだよ

「おら、暴れるな」

 H川のおっさんはやけに手慣れていた。

 あんまり口を押さえたら息ができないぞ、と心配したときにはもう手を離していた。

「お、お前ら」

 タダシは苦しそうに喘いだ。

「何者だ」

「分かってるだろう、私たちが誰なのか」

 森井さんが感情のこもらない声で淡々と言った。

「タダシ君。君はやってはならないことをやったんだよ」

「はあ?」

 タダシが血走った目を剥く。

「やってはならないこと? 何のことだよ」

 そう叫ぶ唇の端に唾の泡ができていた。

「僕は僕の役割を果たしてただけだぞ、それに何の問題があるって言うんだ」

 タダシの必死の叫びに、森井さんは耳を貸さなかった。

「I野君、いいよ」

「はい」

 I野が包みから試薬を取り出していた。

 小さな紙片のようなもの。

 その剥離紙からシールを剥がす。

 白地にやはり白抜きのひらがなで「やみ」と書かれた、間抜けなシール。

 それが、闇堕ち試薬だ。

 I野は屈みこむと素早く腕を伸ばして、タダシのおでこにシールをぺたりと貼った。

「な、何をするんだ」

 タダシは首を振ってもがいた。

「剥がせ」

「I野君、時間計ってるね」

 シールを剝がされないようにその腕をしっかりと押さえつけながら、森井さんが冷静な声で言う。

「はい」

「きっちり5分だからね」

 自分の腕時計に目を落とすI野にそう念押ししてから、森井さんはタダシのおでこに目を向けた。

 足を押さえている俺の目も、自然とそのシールに吸い寄せられていた。

 闇堕ち試薬のシール。

 それは、闇堕ちの深度を確かめる試薬だ。

 外形観察上の深度は、あくまで見た目の判断だ。最終的な深度は、この試薬によって決定される。

 それによって闇堕ちモブの処分も決定するのだ。

 だけど、何度見ても気持ちのいいものじゃない。

 梨夏ちゃんとあんなことがあった後じゃ、なおさらだ。

「何だ、このシール。剥がせよ、くそっ」

 タダシが身体に力を込める。だけど俺たち三人の男にがっしりと押さえられていてびくともしない。それをはねのける力は、モブなんかにはない。

「ふざけるなよ、僕がいなきゃあの物語は誰が盛り上げるっていうんだよ」

「少なくとも、君じゃないね」

 森井さんが答えた。

「君はモブなんだから」

「僕には名前があるんだ」

 タダシは叫んだ。

「こいつらとは違う」

 こいつら。つまり、俺たちのことだ。

 俺たちはこういう場面でもやはりモブだった。森井さんの指示をきっちりと守って、無駄なく動く。それは染みついたモブの習性でもあった。

 H川のおっさんはもう、タダシの喋るがままにしていた。

 口を押さえつける必要があるのは、現実着を巻きつけてしまうまでの間だけだ。

 それが完了してしまえば、もうあとは泣こうが喚こうが、そのモブの声が物語の登場人物たちに聞こえることはない。

 その間にも、おでこに貼られたシールの「やみ」という文字の色がじわりと変わり始めていた。

 薄い灰色から、徐々に黒く。

「ああ、結構早いな」

 森井さんが呟く。

「危なかったな。やっぱりここで押さえておいてよかった。ぎりぎりのタイミングだった」

「な、何がだよ。どういうことだよ」

 タダシが喚く。

 タダシはまだ若いから、闇堕ちモブのハントに参加したことがなかったのだろう。

 だからこのシールの存在も知らない。

 一番若いモブのあんちゃんは、ちょうどタダシと同じくらいの年齢だろうか。

 目を見開いてタダシのおでこを注視している。

 多分、彼もこれを見るのは初めてなのだろう。

「黒いな」

 H川のおっさんが呟く。

「黒いね」

 森井さんも頷いた。

 タダシはもう喋るのをやめていた。何を言っても誰も答えてくれないからだろう。

 荒い息を吐きながら、目だけをぎょろぎょろと動かして俺たちの顔を見ている。

「落ち着け」

 俺はタダシにそう声を掛けてやった。

「別に、取って食うわけじゃねえから」

 だがその慰めもあまり効果を持たなかったようだ。

 タダシはとうとう肩を大きく動かして、体全体で息をし始めた。

「ゆっくり息をしな」

 俺は言った。

「できるだろ」

「I野君」

 森井さんは腕時計を見ているI野を振り返る。

「あと何分」

「あと一分です」

 腕時計から顔を上げず、I野が答える。

「よし。H川さん、ちょっと場所変わってくれ」

「あいよ」

 流れるようにスムーズに、森井さんとH川のおっさんが身体の位置を入れ替える。

 H川のおっさんがタダシの腕を押さえ、森井さんはタダシの顔の方に回る。

「うーん、どうかなあ」

 タダシのおでこのシールを見て、森井さんが目を細める。

「微妙なところだけどな」

 そう言いながら、懐から小さなデジカメを取り出すとタダシのおでこに向けた。角度や範囲を変えて素早く何枚か写真を撮る。実に手慣れていた。

「あと十秒」

 I野が言った。

「……3、2、1、時間です」

 I野のその声と同時に、森井さんがシールを剥がした。

「I野君、台紙」

「はい」

 I野が差し出す試薬と一緒に入っていた台紙に、森井さんはそのシールを貼った。

 台紙には、見本の基準色が印刷されている。

 森井さんはシールの「やみ」という文字の色と見本の色とを見比べた。

「うーん……ぎりぎりで2、かな」

 そう言いながら俺たちに台紙を向ける。

「ほら」

「ああ、そうですね」

 真っ先にそう答えたのはH川のおっさんだった。

「3ほど黒くはないな」

「だよね」

 頷いた森井さんが俺たちにも目を向けるが、俺ももう一人のあんちゃんも何と言っていいのか分からない。

 確かに見本の2の色よりは濃いけれど、3の色ほど黒くない気もする。でもそれは光の加減の気もする。

 I野も森井さんの手元を覗き込んで首を捻った。

「意見はないね?」

 確かめるように森井さんが俺たちの顔を見る。

 無言で、俺たちは頷いた。

「じゃあ、深度は2で」

 森井さんが言い、台紙を懐にしまい込む。

「さあ、連れて行こう」

「はい」

 俺たちはタダシを担ぎ上げた。

「どこへ行くんだよ!」

 タダシが血相を変えて叫んだ。

「ここは僕の世界なんだぞ!」

「帰るんだよ」

 森井さんの声はどこまでも冷たかった。

「現実に」




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