第18話 放課後の訪問者

 がらり、と教室のドアが開いた。

 さっき帰っていった由美ゆみが忘れ物でもして戻ってきたんだと思って、私は顔を上げた。

「何忘れたの、由美」

 そう言いかけて、慌てて口を閉じる。

 由美じゃなかった。

 入ってきたのは幸登ゆきとだった。

「あれ、英美里えみりまだいたのか」

 幸登が私を見てちょっと嬉しそうに笑う。

 その笑顔に胸がきゅんとなった。

 だってそれは、一年前にはほかの人に向けられていた笑顔だったから。

 私には欲しくても絶対に手の届かない笑顔だったから。

 それが今、はっきりと私に向けられている。

 こんな幸せなことってあるんだろうか。

 私、勘違いしちゃっていいのかな。

「うん、もう帰ろうかなって思ってたところ」

 私はそう答えて、近付いてくる幸登を見上げる。

 部活のあとでシャワーを浴びたみたいだけど、もう額に汗をかいている。

 やっぱり外はすごく暑いんだ。

「汗、かいてるよ」

「そうなんだよ」

 幸登はなぜか少し悔しそうに額の汗を手で拭う。

「せっかくシャワー浴びてさっぱりしたのにさ。外に出たらまたくそ暑いの」

「ふふ」

 子供みたいな言い方をする幸登に、思わず笑みがこぼれてしまった。

「なに?」

 幸登は私を軽く睨む。

 知らない人が見たら、どきっとするような酷薄な表情。

 俺、目付きが悪いせいで、勝手に怖がられてたんだ。

 幸登が以前そう言っていた、その鋭い切れ長の目。

 昔の私だったらこんなふうに睨まれてしまったら、その眼光に気圧されて何も言えなくなっていたと思う。

 でも、これまでにいろんなことがあったから、そのおかげで、幸登のことをたくさん知ることができた。

 だから今は、彼が本気で怒っているときとそうじゃないときの違いがすぐに分かるようになった。

 今、私を睨んでいる幸登は、目の奥が笑っている。だから、怒っていない。

 これは、百パーセントの自信がある。

「ごめん」

 私は謝ったけど、幸登の顔を見てすぐにまた笑ってしまう。

「ふふふ」

「なんだよ、もう」

 幸登が呆れたように天井を仰ぐ。

「俺が面白いこと言ったんだったら笑ってもいいよ。だけどただ単に人の顔見て笑うんじゃねえよ、それは失礼だろうが」

 それは確かに、幸登の言う通りだと思う。

「ほんとにごめん。そういうのじゃないの」

「じゃあどういうのだよ」

 そう言って私を睨む幸登は、やっぱり昔とは変わった。鋭さが取れて、すごく柔らかくなった。脆さがなくなって、しなやかになった。

「今の幸登っていいよねって、そう思ったの」

 思い切って、そう言ってみる。

「なっ」

 幸登は指で前髪をいじるいつもの姿勢のまま、顔を赤くして固まった。

「ど、どういう意味だよ」

「私、今は幸登の顔を見ると自然と笑顔になれる」

「お前なあ」

 幸登は赤い顔のまま、大げさにため息をついた。

「なんだよ、それ。俺はお前のエナドリじゃねえっつうの」

 その言い方がおかしくて、やっぱり私はくすくすと笑ってしまう。

「エナドリって。もう少しほかに言い方なかったの」

 ぐっと詰まった後で、幸登は照れ隠しなのか、声を張り上げた。

「仕方ねえだろ。笑顔ってことは元気になるってことだろ。元気が出るものならエナドリが一番ぴったりじゃんかよ」

 顔を赤くしてそんなことを言う幸登は、やっぱりあの頃とは違う。

 悲しいこともつらいこともあったけど、私たちは強くなった。

 それは確信を持って言える。

 幸登の変化の原因が自分にあるだなんて、うぬぼれるわけにはいかないけれど。

「じゃあ何がいいんだよ、ぴったりくるもの」

 幸登はまだ言ってる。

「英美里ならエナドリじゃなくて何だよ。元気が出るもの」

「私?」

 私は思わず立ち上がっていた。

 幸登の顔が、すぐ上にある。

「私の元気の出るものはやっぱり」

 あなただよ。あなたの近くで、あなたをずっと見ていること。それが一番だよ。

 そう言おうとした時、また教室のドアががらりと開いた。私たちは思わず身体を離す。

 その拍子に椅子がガタン、と後ろに倒れた。

「元気の出るエナドリか」

 ちょっと高い声でそう言いながら入ってきたのは、クラスメイトのタダシだった。

 まだ残ってたんだ。

 私たちの会話も聞こえてたみたい。恥ずかしい。

「ただし、それについては」

 出た、いつもの補足説明。

 最近、タダシはそればっかり言うために、妙に私たちにばかり絡んでくる。

 でもタダシがまたいつもの補足説明をしようとした時だった。

 タダシは急に後ろから誰かに引っ張られるようにして、廊下に消えた。

「えっ?」

 私は幸登と顔を見合わせる。

「……タダシ?」

 廊下を覗いてみると、誰もいなかった。

「あれ?」

 首を傾げる私の肩を、後ろから幸登が叩く。

 振り返ると、幸登の顔がびっくりするくらい近くにあった。

「タダシのことなんかいいよ。話の途中だろ、英美里」

 幸登はすっごく真面目な顔で言った。

「お前の元気の出るものが何か」

 そうだった。

 私は思い出す。

 タダシのことを考えてる場合じゃなかった。

 私は、これから大事な話をしなきゃいけないんだ。



「うぐっ、むごっ」

 H川に口を塞がれたタダシが暴れている。

 俺たちは教室を出たところの廊下でその身体を押さえつけていた。

「むががががーっ」

 タダシがくぐもった声で叫ぶ。

 H川が手袋をした手で塞いでいるのに、それでもすごい大声だ。

 だが、もうタダシの身体は現実着でぐるぐる巻きにされている。

 こいつがどれだけ大声を出そうが、どれだけしょうもない補足説明をしようが、もはや物語の主要キャストである幸登と英美里の耳に届くことはない。

「I野君」

 タダシの腕を押さえる森井さんが言った。

「試薬を」

「はい」

 俺と同じくらいの背格好のモブ、I野が腕時計で時間を確認し、試薬の封を切った。




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