第14話 安酒は口を滑らかにする

 一杯目の中ジョッキが空になるころ、お通しのピーナッツをこりこりと齧った梨夏ちゃんが、ようやく話し始めた。

「実は、今日泣いてたのはヒロキとのことが原因なんですけど」

 そう言いかけて、

「あっ、さつきさんにヒロキって言っても分かんないですよね。ごめんなさい」

 と謝る。

 いや、分かる。

 ヒロキっていうのはこの前会ったときに、後から現れて梨夏ちゃんを送って行ってくれたちょっと陰のあるイケメンの彼のことだろう。

 そうは思ったけど、まあ好きに話してもらった方がいいな。

「いや、いいよ。ヒロキって誰?」

 すっとぼけてそう尋ねると、梨夏ちゃんはなぜか少し曖昧な顔をした。

「えっと……」

 思い出すようなそぶり。

 あれ、もう酔ったのか、と思ったら梨夏ちゃんは少し覚束ない口調で、

「幼馴染、みたいな感じなんですけど」

 と言った。

「幼馴染ね。幼稚園とか小学校から一緒ってこと?」

「あ、そこまでじゃなくて」

 梨夏ちゃんは顔の前で手を振る。

「ヒロキとは中学校から、なんですけど。ですよね?」

「いや、俺に聞かれても」

 知らんがな。

 こんなところで天然っぷりが炸裂している。

 まだ酔ったわけじゃないことが分かってほっとした。

 そりゃそうだよ、いくらこの店の酒が工業用アルコールと大差なくたって、ビール一杯じゃいくら何でも早すぎる。

「そうですよね、何言ってるんだろ私」

 梨夏ちゃんは照れ笑いをして、それからもう空のジョッキに口をつけた。

 俺はジョッキの底に残った生ビールを飲み干す。

「まだビールでいいの?」

「あ、えっと」

 梨夏ちゃんは迷った顔をする。

「さつきさんは」

「俺はこっからずっとハイボール」

 そう言いながら汚いメニュー表を梨夏ちゃんに見せる。

「ほら。このへん、甘いのもあるよ」

「あ、ほんとですね。ええと」

 梨夏ちゃんはサワーの辺りに目を走らせて、

「じゃあこの、いるかさんサワーっていう」「やめとけ」

 俺は梨夏ちゃんの言葉を遮る。

 店の名前を冠したそのサワーは、ここの店長が勝手に作ったオリジナルメニューで、原材料不明ながら最も手っ取り早く酔えることで悪名高い。

「それ、くそまずいから。他のにしな」

「そうなんですか。じゃあ、くまさんサワーで」

「すみません、こっちハイボールとくまさん」

「あいよ!」

 返事をした店員が、さっき頼んだ唐揚げや炒め物をテーブルに置いていく。

「食べて食べて」

 そう勧めながら、話を戻す。

「じゃあヒロキ君は中学校の同級生だったってわけか」

「あ、はい。高校も一緒で」

「へえ」

「彼は私と違って成績が良かったから、高校卒業してからこっちの大学に来たんです。そのまま、就職もこっちで」

 梨夏ちゃんはそう言って微笑んだ。

「私は地元の専門学校を出てから向こうで働いてたんですけど、一念発起しまして」

 そう言って、ぐっと握り拳を作る。

「こっちの会社に就職したんです」

「なるほどね」

 俺は頷く。

「それで、こっちに来た日に俺に会ったってわけか」

「あ、そうです!」

 俺の言葉に、梨夏ちゃんは嬉しそうに頷いた。

「あの時は本当にお世話になりました」

 改めて深々と頭を下げる梨夏ちゃんの前に、店員がくまさんサワーを置いていく。

「いいからいいから。ほら、酒来たよ」

「はい」

 顔を上げて、てへへ、と笑った梨夏ちゃんはそれを一口飲んで、

「わ、はちみつ」

 と感想を漏らした。

 俺は彼女に意地悪な質問をぶつける。

「ヒロキ君とは、高校時代とかに付き合ってたの?」

「え!?」

 サワーグラスを握ったまま、梨夏ちゃんの動きが止まる。図星だ。

「ど、どうして分かるんですか」

「いや、なんとなく」

 あの日、お互いに見つめ合っていた二人はただの同級生という雰囲気ではなかった。

 それくらいのことは、俺のようなモブにも分かる。

 いや、モブだからこそか。

 キラキラと輝く人たちの動きにばかり気を配っているから、自分には経験がないくせに自然とそういうことが分かるようになっているのかもしれない。

「高校じゃなくて、中学のときです。付き合ってたの」

 恥ずかしそうに梨夏ちゃんは言った。

「付き合ってたって言っても、せいぜい一緒に帰ったり手を繋いだりしたくらいで、そのまま自然消滅しちゃったし」

「高校では付き合わなかったの」

「高校時代はお互い、別々の相手がいました」

「ほう」

 さすが、物語の中心になるような子は学生時代も輝いている。

 ろくに通うこともなく高校なんて辞めてしまった俺やA太とは違う。

「でも、ずっとヒロキのことは気になってたんです。ヒロキも私にちょくちょく連絡をくれるから、もしかして向こうも私のこと気になってるのかなあ、なんて思ったりもして。だから、ヒロキがこっちの大学に来た後も、卒業したら地元に戻ってくるのかな、なんてちょっと期待してました」

「でも、戻ってこなかったわけだ」

「はい」

 梨夏ちゃんは頷く。

「こっちで就職したって聞いて、ああ、そうかあって思って。私はもうその時地元で働いてたんですけど、何だか急にモチベーションを失ったっていうか……それで、別にヒロキを追いかけてきたっていうわけじゃないんですけど、ヒロキがこっちで頑張ってるのなら私も都会でチャレンジしてみようかなって思って、勢いでこっちの会社の面接を受けたら受かっちゃって」

 そこまで喋ってから、ふと我に返ったように俺を見る。

「……気持ち悪いですか、私」

「どうして?」

「いえ、なんとなく……中学の時の彼に、この年まで未練があって追いかけてきたみたいな風に見えるかなって」

「全然。もしそうだとしても、気持ち悪くなんてないけどね」

 俺はハイボールを一口飲む。相変わらず消毒みたいな臭いのするハイボールだ。

「前向きな恋愛で、いいんじゃないの。それでヒロキ君には連絡したの?」

「ヒロキには内緒だったんです。こっちの生活が落ち着いたら連絡して驚かせようかなって思ってたんですけど。そうしたらこの前、皐月駅で偶然」

 そこまで喋ってから、梨夏ちゃんは「あっ」と言って俺を見た。

「そのとき、さつきさんもいましたよね」

「さあて」

 俺は首を傾げて川海老の唐揚げを口に放り込む。

「覚えてねえな」

「そう、ですか」

 梨夏ちゃんは少し不服そうな顔で、それでも頷いた。

「その日偶然ヒロキに会って、家まで送ってもらったんです。それから、時々二人で会うようになって」

「おう。よかったね」

「私も嬉しかったんです。仕事先の人もみんな親切だし、こっちでの生活すごく順調だぁって」

 みんなが親切なのは、多分君の人柄のおかげだと思うよ。

「時間があると、ヒロキとは一緒に晩ご飯食べて、その時に地元の話とか仕事の話とかをして、ああ、もしかしてこのまま付き合っちゃうのかな、なんて思ってもいたんですけど」

 そこまで言って、梨夏ちゃんはうつむいた。

「でも、多分私の方だけ勝手に盛り上がってたんです」

「どうして?」

「えっと」

 梨夏ちゃんはかすれた声を出した。

「今日、いつもみたいに電話してたら、急にヒロキが言うんです。相談に乗ってくれないかって」

「ほう」

「それが、ヒロキが今気になってる女の人のことだったんです」

 梨夏ちゃんはそう言って、涙目でちびりとくまさんサワーを飲んだ。




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