第15話 作者はモブの心情に筆を割かない

「相談っていうのは、ヒロキが今気になってる女の人のことだったんです」

 梨夏ちゃんはそう言って、涙目でちびりとくまさんサワーを飲む。

「仕事帰りにヒロキから電話がかかってきたから、私、ちょっとうきうきして出たんです。この時間からなら、まだ晩ご飯一緒に食べられるかも、なんて思って。そうしたらヒロキ、ちょっと相談したいことがあるんだ、なんて言って。俺、女の子の気持ちがよく分からないから、ちょっと相談に乗ってくれって」

「そっかあ」

 頷きながら俺は川海老の唐揚げを摘まむ。

 油断するとたまに茶色いあいつまで一緒に揚がってたりするので、この店のはよく見ながら食わないといけない。

「それで、梨夏ちゃんは相談に乗ってあげたわけか」

「はい」

 梨夏ちゃんはこくんと頷く。

「ばかですよね」

「別にばかじゃねえよ」

 まあこの子ならそうするだろうな、というのは会うのがまだこれで三回目の俺にも分かる。

 好きな相手の別の人への恋を応援してあげちゃうような、垢抜けない不器用さ。

 それは彼女のイメージにぴったりだった。

 そこでばしっと自分の気持ちを告げたりできるような子だったら、きっともっと違う人生を歩んでるんだろう。

 そんなことを思いながら、目の前の梨夏ちゃんを見る。

 化粧はすっかり崩れてしまっているが、それでも可愛い。

 かわいそうにな。

 俺は思った。

 それにしても、ヒロキ君ってのも大概だぜ。

 何だってそんな相談を梨夏ちゃんにするのかね。

 梨夏ちゃんが自分のこと好きだって気付かないもんなのかね。第三者の俺にだって分かるのによ。

 もしかして、あれか。ヒロキ君ってのも梨夏ちゃんばりの天然ボケ男なのか。

 その可能性に思い至り、俺はまずいハイボールをちびりと飲む。

 そうだとすると、このカップルはまずいな。

 ツッコミのいないボケだけの漫才コンビみたいなもんだ。それは漫才にならない。

 いつまでたっても軌道修正されないから、話はとめどなく脱線して、本題に入れないまま時間だけが過ぎていく。

 そういう二人を物語の主役にしたら、書く方も苦労するんじゃねえのかな。知らんけど。

「で、ヒロキ君の気になってる女の人ってのはどこの誰なの」

 俺は尋ねた。

「彼の職場の人とか?」

「そこはぼかして、はっきりと言ってくれないんです」

 梨夏ちゃんは答える。

「恥ずかしいみたいで」

「ふうん」

 そこまで相談しておいて、恥ずかしいということもあるのかね。

 まあ、俺のようなモブには分からん。

「じゃあどんな相談してきたの」

「えっと、ヒロキはその人のことが結構前から気になっていて」

「うん」

「それで、その人もヒロキのことを悪く思ってないっていうか、もしかしたら好きなんじゃないか……って、これはヒロキの予想ですけど」

「うん」

 つまり、ヒロキ君には両想いっぽい関係の子がいるわけだ。

 梨夏ちゃんとよくメシ食いに行きながら、ほかの女の子といい感じになる余裕まであるとは。

 すげえな、さすがは物語のヒーロー。

 俺なんて毎日女の子に声かけてるけど、いい感じになったことなんて……まあ、それはいいか。俺のは仕事だしね。うん。仕事。

「こういうのって脈あるのかなって聞かれたんです」

 梨夏ちゃんは言う。

「たとえば、仕事が終わった後によく一緒に晩ご飯を食べに行ったり」

 ほう。

 すげえな。その子とも飯食いに行ってんの?

 とっかえひっかえじゃねえか。

「電話すると3コールまでですぐに出てくれたり」

「ほう」

 それは脈ありなんじゃねえのかね。よく知らんけど。

「その人と一緒にいるとヒロキはすごく楽しいらしいんですけど、その人もヒロキといるときはいつも笑顔なんですって。そういうのってどうなんだろうって」

「うーん……」

 それだったらもういっちゃえよヒロキ。って思うけどね。

「それで梨夏ちゃんは何て言ったの」

「えっと……」

 梨夏ちゃんはくまさんサワーのグラスを持ったまま、泣き笑いのような顔をした。その目から、思い出したように涙が一粒、ぽろりとこぼれる。

「それ脈ありだよ、その人絶対ヒロキのこと好きだよって」

 梨夏ちゃんは声を詰まらせた。

「そう言いました。頑張って、無理に明るい声を出して」

「そっかあ」

「電話が長くなりそうだったから、私さっきの公園のベンチで話してたんです。私が、その人絶対ヒロキのこと好きだよって言ったら、ヒロキすっごく喜んで。電話の向こうでテンションがものすごく上がってるのが分かったんです」

 梨夏ちゃんはその時のことを思い出したように、鼻をすすった。

 声がだんだん小さくなってきて、周囲の喧騒のせいで聞き取りづらいったらない。自然と俺は梨夏ちゃんに顔を寄せていた。

 ほら、向こうの席で怒鳴り声が上がってる。この店、客層悪いから。

 店員たちもすっかり慣れたもんだ。

「店長、三番卓、ケンカっす」

「つまみ出せ」

「ういっす」

 そんな流れるような会話が聞こえてくる。

「ヒロキがすごく嬉しそうだったから、そっか、ヒロキはこれから幸せになるんだねって思ったんです。よかったねって、そう思おうとしたんですけど」

「おら、お前ら外出ろ!」

「なんだてめえ、こっちは客だぞ!」

「やっぱりどうしてもそう思えなくって」

「うるせえ、店壊すやつは客じゃねえ!」

「いてえな、離せよくそが!」

「そんな自分も嫌になって、それでも泣いちゃだめだって思って」

 暴れる客を店員が外に連行していく。客の腕が俺たちのテーブルに当たって、皿ががちゃんと音を立てた。

 おっと。

 俺はとっさに身を乗り出して皿を手で押さえた。

「もうわけわかんなくなっちゃったんです」

 その声が、予想以上に近くから聞こえた。

 気付くと、梨夏ちゃんの顔が目の前ほんの数センチのところにあった。

 涙で潤んだ瞳が俺のモブ顔を真っ直ぐに見つめていた。

 うおっ。

 思わず鼻血が出そうになる。

 モブの視界いっぱいに、ヒロインの顔。これは刺激が強すぎる。

 などと思った瞬間、その顔が悲痛に歪んだ。

「私、自分がみじめで」

 そう言いながら、梨夏ちゃんはぼろぼろと泣いた。

「さつきさん。私、好きな人の幸せも祝ってあげられない」

 梨夏ちゃんは言った。

「自分のことしか考えられない」

「梨夏ちゃん」

 思わず俺も胸が詰まった。

 当たり前だろ、そんなの。

 自分の好きな人がほかの誰かと幸せになるのを無邪気に喜べる人間なんて、いるわけねえだろ。

「さつきさん」

 俺を呼ぶその声が切ない。

「私、どうしたらいいか分からないです」

 奪っちまいたい。

 衝動的に、そう思った。

 思いっきり抱き締めて、慰めてやりたい。

 身体を駆け巡る安酒が俺をそそのかしてくる。

 もうここまで踏み込んだんだ。

 B介。いや、さつき。

 無防備に泣いてるこの子を今慰められるのは、お前しかいないんだぞ。

「その人の誕生日が近いんですって。だからヒロキは、その日に告白しようかと思ってるって」

「そうか」

 それは、つらいな。

「私だって」

 梨夏ちゃんは、こらえきれなくなったように嗚咽を漏らした。

「私だって、もうすぐ誕生日なのに」

 じゃあもうそんな奴のこと、忘れちまえって。

 君の誕生日なら、俺が祝ってやるよ。

 そう喉元まで出かかった。

 だけど、俺の鍛え抜かれたモブ思考が気付いちまった。

 安いアルコールの靄を突き抜けて、直感が俺の脳にぐさりと刺さった。

 あれ、これってもしかして、と。

 おい、ちょっと待て、と。

「そこでもう耐えきれなくて電話切っちゃったんです。多分ヒロキも急に私が切っちゃったせいでびっくりして、そのあと何回も着信があったんですけど、私もうヒロキの声を聞けなくて。メールも来たみたいだけど、見る気にもならないし。ずっと無視してあそこで泣いてたんです」

 梨夏ちゃんはそう言って、俺を見た。

「さつきさん。私、どうしたらいいんでしょう」

 これはいける。

 俺の中のナンパクズがそう言っていた。

 B介、これはこの子をお前のものにするチャンスだぜ、と。

 だけど、もう一人。

 物語の歯車としての俺が言っていた。

 お前、気付いたんだろ。もう分かってるんだろB介、と。

 ああ。分かったよ。

 どうあがいたってモブの性分が抜けない俺は、梨夏ちゃんから顔を離して、ハイボールをぐびりと飲んだ。

 まずい酒が、頭をかえって冷静にしてくれた。

「梨夏ちゃん、もう一回ヒロキ君に電話してみた方がいいな」

「え?」

 梨夏ちゃんが戸惑った顔をする。

「だって私」

「彼からのメール、何て書いてある?」

「見たくないです」

「見てみな」

 俺は促した。

「多分、梨夏ちゃんが思ってるのとは違うことが書いてあるよ」

「……」

 梨夏ちゃんは目をごしごしとこすって、それから素直にスマホを取り出した。

「えっと……今どこにいるの……頼むから電話出て……だって。何だろう、ヒロキすごく必死になってる」

 ああ。やっぱり。

 俺の勘が、外れてればよかったのに。

 いや、違う。

 彼女のためには、これでよかったんだ。

「ヒロキ君の言ってる、気になってる子ってさ」

 俺は言った。

「それ、多分梨夏ちゃんのことだぜ」

「え?」

 梨夏ちゃんは目をまんまるに見開いた。

「え? ……え? どういうことですか?」

「思い出してみなよ。仕事帰りによく一緒に飯食いに行って、電話は3コールまでに出る。彼といるといつも笑顔。それから」

 その続きは、梨夏ちゃんが自分で言ってくれた。

「もうすぐ、誕生日」

「そう」

 俺は焼き鳥の串で梨夏ちゃんを指差す。

「その子が梨夏ちゃんだとして、つじつまが合わないところはある?」

「えっ……だって。えっ」

 梨夏ちゃんは呆然とした顔で首を振った。

「だって。それならどうして、相談なんて」

「カマかけたのか、駆け引きのつもりだったのか、それとも告白の予行演習か。俺には分かんないけどさ」

 俺は梨夏ちゃんのスマホを串で指差す。

「外行って、電話してみなよ。ちゃんと確かめた方がいい」

「……はい」

 まだ呆然とした顔のまま、梨夏ちゃんはスマホを手にふらふらと外に出ていく。

 しばらくして戻ってきた彼女は、やっぱり涙目だった。

 でも、その涙の意味はさっきまでとは違っていて。

「家に行ったけどいないからどうしようかと思ったって。すぐ迎えに来るって」

 梨夏ちゃんは言った。

「試すようなこと言って、ごめんって。あれ、私のことだって」

 それだけ言うと、梨夏ちゃんはおしぼりに顔を埋める。

「どうしよう、私、こんな顔で」

「よかったじゃねえか」

 優しい声で俺が言うと、梨夏ちゃんはおしぼりに顔を伏せたままで頷いた。

「はい。さつきさん、ありがとうございます」

「本当によかったよ」

 俺は言った。

 本当によかった。ああ、本当に。

 こんなところで男と二人で酒飲んでたんじゃ印象が良くないから、と言って、俺は彼女を外に出すことにした。

 お金を払うと言ってきかない彼女から千円だけもらい、俺は彼女を送り出した。

 何度も頭を下げて店を出ていく彼女に手を振り、しばらくしてから外を覗いてみると、驚くほど早くヒロキ君が駆けつけていた。

「さっきはごめん、能勢」

 ヒロキ君は汗まみれの顔で、はあはあと息をしながら梨夏ちゃんに謝った。

「はっきり言うよ。俺が好きなのは」

 梨夏ちゃんは胸の前で両手を合わせて、彼をじっと見つめていた。

 その目はやっぱり、俺を見ていた時とは明らかに違う感情が込められていて。

 もう、やめとこう。これ以上覗くのは野暮ってもんだ。

 俺は席に戻ると、まずいハイボールを飲み干した。

「こっち、いるかさんサワー一つ」

 俺の注文に店員が力強く頷く。

「あいよ、店長いるかさん一つ!」

「よっしゃ!」

 ……好きな相手の幸せも祝ってあげられない、か。

 目の前のぽかりと空いた席を見ながら、俺は思った。

 それは俺もおんなじだよ、梨夏ちゃん。

 俺だって祝う気にはならない。それが君にとって正しい方向なんだって分かってるのに。

 でも、これでよかったんだろうな。

 どうして名もなきナンパモブがこんな役目をしたのかは分からねえけど。

 もしかしたら俺はすごく余計なことをしただけで、俺がいようがいまいが物語はちゃんと転がっていったのかもしれないけど。

 まあいいじゃねえか。

 モブの心情にまで、作者は筆を割かない。俺がどれだけ傷つこうが、誰も知ることはない。

 だから、これでよかったんだと思う。

 俺のぐずぐずの気持ちになんて読者は興味ないだろ? 俺だってねえよ。

 だから今日のところは飲んでしまおう。

 おめでとう、梨夏ちゃん。

 運ばれてきたサワーを軽く持ち上げ、一人で乾杯する。

 どうか、彼とお幸せに。

 多分、君に会うのはこれで最後だろうな。




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