第12話 さつきさん

「……さつきさん」

 梨夏ちゃんが俺を見て、そう言った。

 大きな目をまんまるに見開いて、街灯のせいで影になった俺の顔をじっと見つめている。


 え?


 え? 梨夏ちゃん?

 一方、俺は完全にテンパっていた。

 さっきの寺井君のテンパりなんて可愛いくらいのとんでもないテンパり具合だった。

 なんだ、これ。

 どうして君がここにいるんだよ。

 どうしてこんなところで泣いてるんだよ。

 何だ。失恋したって、君のことなのか。

 あの彼はどうしたんだ。確か、ヒロキとかって名前の。

 っていうか、今の俺の状況ってモブとしてすごくヤバくないか。

 頭の中を様々な疑問が埋め尽くして、何を言ったらいいのか分からない。

 だけどこのままじゃまずい。何か言わないと。

 何か。何かって何だ。

 わかんねえ。わかんねえけど、とにかくまずは口を開け。

 言うべき言葉を見失って台詞のすっかり飛んでしまった俺は、梨夏ちゃんがさっき俺に言った言葉をそのまま鸚鵡返しした。

「さつきさん?」

「あ」

 泣き腫らした目で、それでも梨夏ちゃんは恥ずかしそうに微笑んで口に手を当てる。

「ごめんなさい」

「え、いや」

 思わず首を振る。

 まずいまずい、と心の中の冷静な俺が叫ぶ。

 え、いや。じゃねえんだよ。

 何を普通に会話してんだ。自分の役割を思い出せ、B介。

 これは完全にイレギュラーな事態だ。

 彼女が傷ついていたところに見知らぬ男から下品な言葉を掛けられる。今回の依頼のそのシチュエーションは、もう成り立たない。

 だって、彼女と俺が顔見知りだったんだから。

 その時点で、もう俺は通りすがりの酔っ払いモブではいられないのだ。

 もしも初めて彼女と出会ったときのナンパが、いつも通りすぐに断られて終わっていたとしたら、この酔っ払いモブがその時のナンパ野郎と同一人物だったって別に問題はなかった。

 お互いにもう相手の顔なんて、ろくずっぽ覚えちゃいないだろうからだ。

 だけど、これはまずい。よりによって彼女の方から話しかけられるなんて。

 しかも、こっちも返事をしてしまった。

 最悪だ。

 だけど、とにかくひと声は掛けたんだ。俺の仕事は終わりだ。さっさとこの場を立ち去るべきだ。

 これ以上、何も喋らなくていい。余計な爪痕を残してしまう前に、離脱するんだ。

 それがモブとして正しい選択だということは、頭では分かっていた。

 だけど、俺の身体は動かなかった。

 もう一人いたからだ。

 こんな梨夏ちゃんを置いて、へらへら笑いながら立ち去れって?

 真っ赤な目をして泣いてるんだぞ。初めて俺のナンパに付き合ってくれた女の子が。

 てめえは鬼か。そんなの無理に決まってんだろ。

 そう言っているもう一人の俺が、確かに俺の中に。

 この子は、単なるたまたま見かけた見知らぬ女の子じゃねえ。

 もう二回も会ってる、名前だって知ってる女の子じゃねえか。

 それが泣いてるんだぞ。放っておけるかよ。


 ――それは違う。


 B介、その考えはモブとして間違ってる。

 冷静な自分がそう言っている。

 そうだ、間違ってる。放っておけるか、なんていう似合わない男気は、モブが出していいものじゃない。

 そんなことは痛いほど分かっていた。

 だけど、俺はその場から動けなかった。

 棒立ちしたまんまでためらっている間に、梨夏ちゃんは手の付け根でごしごしと涙をこすった。この子らしい、少し幼い仕草だった。

「まさかこんなところでまた会えるなんて思わなかったです」

 梨夏ちゃんは自分の足元を見つめて、そう言った。

「よりによってこんな時に、ですけど。ほんとにすごい確率。この街って私の田舎くらい人口が少ないわけじゃないですよね」

 いや、まじですごい確率だよな。まるで仕組まれてるみたいだぜ。

 こんなモブにヒロインとの出会いを仕組むような暇人はいないだろうから、本当にすげえ偶然ってことなのか。

 そんなことを頭の中でぐるぐると考えながら、何も答えられない俺は、きっとかなりの間抜け面を晒していたはずだ。

 街灯を背にしているので、彼女からはっきりとは見えないだろうってことだけが救いだった。

「さつきさん」

 梨夏ちゃんはもう一度、俺を見て言った。

「勝手にそんな名前で呼んじゃってごめんなさい。だってお兄さん、名前教えてくれないから」

 名前?

 名前だって?

「だから、勝手に私だけがそう呼んでたんです。お兄さん、この間は覚えていないって言ってたからもう一回説明しますね。私、この街にきた初日に、水無月駅で降りるはずが間違って皐月駅で降りちゃったんです」

 俺の動揺に構わず、梨夏ちゃんは続ける。

「アパートが見付からなくて困ってた時に、名前も知らないお兄さんが私を助けてくれました。すごく親切なお兄さんでした。私の荷物を見ててくれて、おしゃれなカフェやボウリングや夜景の見える居酒屋さんに連れて行ってくれて、最後は私の勘違いに気付いて駅に送って切符まで買ってくれて」

 梨夏ちゃんの目は、間違いなく俺を見ていた。

 名もなきモブの、俺を。

「名前も教えてくれなかった、皐月駅の優しいお兄さん。だから、さつきさんです」


 さつきさん。


『突然降ってきたんだよ、俺の名前が頭ん中に。あなたの名前はゾークですって声がしてさ。嬉しかったぜ』

 なぜか不意に、伝説の盗賊モブ、ゾークさんの言葉が頭をよぎった。

 “突然降ってきた”。

 そうだよ。名前って、そういう風に付けてもらうんだろ。

 名前ってのは、作者さんが設定として決めてくれるものであって、その物語が始まる時には、もう自分の中にあるものなんだよ。

 だから、他の登場人物に名前を尋ねられたりしたら、すっと自然に答えることができるんだ。

 ゾークさんが言うみたいに、まるで天から与えられるみたいにして付けてもらうものなんだ。

 俺には、相変わらず名前はなかった。

 頭の中にそんな声は響いてこなかった。

 自分にも自分の名前なんて分からない。梨夏ちゃんがもしまた俺に名前を尋ねたら、俺は返す言葉を持たなかっただろう。

 この物語に、俺の名前はない。

 それは厳然たる事実だった。

 俺の名前は、天から降ってはこなかった。

 だけど。

「……俺が?」

 おそるおそる自分の顔を指差す。

「さつきさん?」

「ごめんなさい」

 梨夏ちゃんは申し訳なさそうな顔をした。

「お兄さんのことを何て呼べばいいのか分からなくて、それで」

「いや」

 彼女の言葉を遮って、首を振る。

「さつきさんでいいよ」

 名前は降ってこなかった。

 俺はモブのままだった。

 だけど、今目の前の女の子が付けてくれた。

 初めての、俺の名前を。


 皐月駅で出会ったお兄さんだから、さつきさん。


 それだけで十分だった。

 俺に決意を固めさせるには。

 名無しのモブには、十分すぎる報酬だった。

 俺は心を決めた。

 決めたよ。それがどんな結果を生むことになったとしても。

「やれやれ、参ったな」

 俺は頭を掻く。

「どうしてこんなところで泣いてんだよ、梨夏ちゃん」

 俺がその名を口にすると、彼女の目が驚きで見開かれた。

「私のこと、覚えて」

「当たり前だろ」

 俺は笑顔で彼女に歩み寄る。

「何があったんだよ」

 彼女へと近付くその一歩一歩が、もしかしたら闇へと続く道なのかもしれねえけど。

 それでも、俺は。

「力になるぜ。さつきさんに話してみな?」




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