皇帝立つ

後宮の異変

 後宮の廊下で、ある宦官かんがん呂不韋りょふいが人目を避けるようにひそひそと会話を交わしていた。呂不韋と相対するこの宦官は、宮刑きゅうけいを施したにしては太い声、引き締まる体躯に、みなぎるような精気を宿している。瞳は爛々と輝き、高い背は宦官の中でもひときわ目立った。そんな宦官に、呂不韋が囁く。

嫪毐ろうあい。王太后さまのご様子は」

「非常にご満足していただけておりますとも」

「それは――よかった。今後私のお召しがあったときはお前が出向きなさい、嫪毐」

 嫪毐と呼ばれた宦官はひげのない顔に笑みを浮かべる。

「貴方様の御為なら。呂不韋さま」


 ――という話を聞いて、おれはその会話を密告した宦官に尋ねた。

「それはいつ頃の話になるだろうか。答えられるか」

「ちょうど去年の今ころになります」

 お飾りとはいえ王の前とあってか、宦官は緊張の色を見せている。目の奥からはおれに対する怯えが見て取れた。宦官の顔もかたちも判然としないため、おれのこのおかしな目は、あいも変わらず人の心の底ばかり透かして見ているのだった。

「それで、太后……母上の妊娠が発覚したのが?」

「その三日後のことになります」

「種のないところに草も樹も生えぬはずだがな」

 宦官が持ち込んだ問題というのはそれだった。男のいない後宮で、あろうことか王太后が妊娠して出産しているのである。

「今、太后さまはお二人目のお子を身ごもっておられます、わたくしは、恐ろしくて……」

 ため息が出た。まったくもって、初耳だった。呂不韋の陰に隠れて、母がそんなことになっていたなんて。

「……母は、子供の父親のことはなんと?」

「固く口を閉ざしておりまして」


 そのときおれの頭の奥に何かが引っかかった。趙の邯鄲で泣きながら背を丸めていた母の姿が蘇る。

『私たちはあの方に捨てられたのだわ――』

 

「……わかった」

 扇を閉じたおれの所作にびくつきながら、宦官はおれを見上げた。

「これ以後も、何か呂不韋とそのなにがしのやり取りを聞きつけたら、に教えよ。……感づかれぬようにな」

「はは」

 宦官は恭しく頭を下げてさがっていった。おれの頭の中はぐちゃぐちゃに入り乱れていた。

 あの方。あの方というのは、父・子楚しそのことではなかったのか? 宦官のもたらした情報をすべて鵜呑みにするのなら、……太后は、母は、寝所に呂不韋を召すのだ。なぜ母が呂不韋を寝所に召す?

 父が亡くなって早九年。その九年の間に、呂不韋と母が懇意になった?……いや、違う。

 確信にちかい推測が、おれを射貫いていた。あの日、顔も形も姿もあいまいな人いきれのなかで。父、子楚の顔すらあいまいなおれの視界の中で、呂不韋だけが。呂不韋だけがおれの目に映った。嘘と本当を混ぜた、言葉で、幼いおれの手を握り――。

――呂不韋!

 おれは早鐘のように鳴る心臓をなだめながら、近しい廷臣を呼びつけた。

「……呂不韋を、呼べ。秦王政が呼んでいると伝えよ」

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