第12話
「付き合っていた彼から婚約破棄されました。でも彼は私のことを知らないと言い張り、私との関係を否定し慰謝料の支払いも拒否しています。おそらくそちらで記憶を消去したのだと思います。彼が記憶を消去した証拠をください」
朝イチで処理した相談メールがこれだった。
このようなことを我が社に言ってこられても困る。我が社が個人に対して安易に答えられることではない。然るべき法的対処をするべきで、まず弁護士に相談するなりしてほしい。
当然のことだが、顧客の個人情報、利用状況を教えるのは違法行為である。正当な理由、裁判所からの開示請求などがない限り、個人情報を提供することはできない。
クレーム対応もマニュアルにあるので、そういった主旨のメールをマニュアルに沿って送ったのだが、それに対する返信がこうだ。
「Q社は彼の味方なのですね。彼からの連絡がそちらにも行っているのでしょう」
訳がわからない。
「Q社は男性の味方なのですか。私が困っていても、女性の私の要求には答えられないということですか。対応の悪さについて、ネットで拡散しますがいいですか」
話が通じない人間のようだ。
下手に僕が対応すると迂闊なことを言ってしまい揚げ足を取られる恐れもあるので、僕は係長に相談した。
「わかりました。僕が預かります。場合によっては田原先生から連絡してもらうことにするから」
今までも、悪質なクレームや脅迫まがいのメールは何度も受けるのは多々あった。僕らの手に余る時は、我が社の顧問弁護士の田原先生に対応をお願いしている。
とりあえず、この件は僕の手を離れたのでホッとした。
しかし、次のメールも面倒な案件だった。面倒は続くものだ。
「離婚するにあたって、二人で話し合った結果、二人揃って記憶を消去しようという結論に至ったので特別コースのお見積りお願いします」というコメント付きの見積依頼申込メールが届いた。
お願いします、ではない。これは門前払いレベルの案件だ。事前相談もなしにいきなり申し込まれても困る。
例えば恋人同士、それもごく短期間の付き合いの場合は、二人揃っての記憶消去も可能である。周辺に影響がそれほど大きくないからだ。
しかし、夫婦となると話はややこしくなる。子供がいる場合は百パーセント不可、門前払いにするのだが、子供のいない夫婦でも問題が多い。
まず、戸籍の問題がある。
記憶を消したところで、戸籍の婚姻事実は消去できない。「離婚した相手の記憶を消去した」ことを本人に自覚させておかねばならない。その時、本人たちが「離婚した相手が誰だろうと気にしない」ような大らかな人間ならいいが、実際には知りたくなるのが人情である。
それから財産分与や金銭面にまつわるトラブル。
離婚の際の慰謝料、不動産のローン契約、保険金の受取人を配偶者にして契約していた、共同名義のものなど、記憶を消去した後で想定外のトラブルが起こった時の対処が難しい。
あとは周りの人間への対応だ。
親戚、友人、職場の人間たちは皆、二人の婚姻を知っている。そういった人間全員に「二人は離婚しお互いのことを忘却する」と説明する必要がある。でないと、この先の生活で困ることや戸惑うことがたくさん出てくる。二人の婚姻を知っている人間、と一言で言うけれど、そう簡単なことではない。親戚、友人、職場の人間たちはもちろん、近所の人や行きつけの店、それら全部に説明するのだ。
こんな風に、結婚していた人間同士の記憶消去はさまざまな面倒を伴う。全ての問題をクリアーして初めて施術できるのだが、そういった事項の確認書を双方の家族へ送付すると、大概の場合は両親の反対に会い、申込を撤回する羽目になる。
稀に施術できるケースもあるにはあるが、それでも施術までに多くの手間がかかり、作業に携わる社員はうんざりする。
僕は、施術できる可能性が低いなら最初から申込を受けないほうが無難だと考える。慎重すぎる僕の性格からだろう。大方無理そうなら、初めから挑戦しない性格だ。記憶を消したら、その先の二人の生活に及ぶ不都合も心配してしまう。
念のため僕は「この案件申込を受けるべきか」アシスタントAIに相談した。
多くの企業がそうであるように、我が社でも業務にアシスタントAIを使用している。施術のリスク、我が社の利益、不利益などを計算させている。クレームに対する返信なども、AIがマニュアルに沿って作成してくれる。もちろんその内容を精査するのは僕ら人間だが、AIは素早く感情に左右されることなく判断するので、面倒な事案に頭を悩ませ神経をすり減らされる時間は少なくなった。
僕が子供の頃は「将来はAIに仕事を奪われ、人間の仕事はなくなる」と危惧する大人もいたが、実際にはそんなことはなかった。
僕の祖父母がよく話してくれた。
「じいちゃんが仕事を始めた頃、まだパソコンがなかったんだよ」
祖父母はちょうどアナログからデジタルへの転換期を経験した世代だ。
「どうやって仕事していたの」
「全部手書き。計算も、自分で電卓叩いて計算して、手書きの書類を分厚いファイルに綴じて」
「ええ、大変そう」
「おお、大変だったよ。数字が合わないと残業してな。パソコンが入って全部やってくれるようになって楽になったよ」
「私なんかより年上の人たち、それまでは、そろばんが得意なら食い逸れない、みたいなこと言ってたけど、世の中変わっちゃったものね」
僕らの時代では、AIにやらせる部分と人間の仕事の棲み分けができつつある。AIをうまく使いこなせることが人間の仕事能力だ。AIは部下でありアシスタントなのだ。
ほんの数秒でAIは答えを出した。
AIは、受けた場合の会社の利益を瞬時に計算し、メリット、デメリットを理路整然と答えた。また、それらを総合して判断し数値化すると、受けた場合の期待値は42という数字を弾き出した。平均的な特別コースの期待値はだいたい70が目安だ。会社としては50以上を推奨している。50を下回るほど、リスクや不利益が大きいことになる。
このAIの答えを精査し、最終的に決定するのは人間側だ。この数値をどう見るか、人によって違う。
僕は40を切ったら内容に関わらず門前払いにすることにしている。40を切るということはそれだけ面倒な手間がかかるということなので、場合によっては金額以上に割に合わない仕事になる。それ以外にも、50や60でも断ることもある。今回のケースのように、忘却施術後に彼らの生活に及ぶ影響を考えると、断るほうが彼らのためだと思うこともある。
同期の石川だったら、気にせず受けるかもしれない。お客さまの希望通りに忘却施術をし、後に不都合なことが起きてもそれは自分たちの関与することではない。自分達の手を離れた後で、お客さまが苦労しても関係ない。そんなスタンスで申込を受けるだろう。
僕は時々、石川のような楽天的な性格を羨ましく思う。僕は自分でも嫌になる程、慎重な性格だ。
僕は「施術不可」と返答を送った。
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