水平線を食んだ。僕達は友達をやめた。

兎紙きりえ

第1話

 昔、親に連れられて海外に行った時の話だ。

 私は初めて飛行機というものに乗り込んだ。

 自動で動く床に、機体へと繋がるヘンテコな通路を渡って、席に着いた時の期待感といったらない。

 どうにも、私は空に憧れていたらしい。

 ベルトを閉めて、永遠にも思えた待機時間を終えると、轟音と共に機体が走り出す。

 押し込まれるような衝撃と、高速で流れる外の景色とがえも言われぬ高揚を感じさせた。

 徐々に小さくなっていく街並みを眺め、


 ……いつしか飛行機は雲を超えていた。


 そこで、私は思ってしまった。

 空はなんて退屈なのだろう、と。

 雲を超えた飛行機の窓からは延々と続く青い空と、絨毯みたいに敷かれた雲以外に見えるものもなく、たまに鳥が群れを為して飛んでいくのが見えるくらい。


 どうしようもなく、何も無い。

 私は、きっと、その光景に恐怖すら感じていた。

 私は、空が嫌いになった。



 夕陽が空を染め上げている。

 彼方に見える水平線に沈んだ陽が、最後の輝きとばかりに赤赤と燃えている。

 澄んだ青色を追い出して、浮かぶ雲にもその色を移しては広がる晩夏の空。

 それは臓物を撒き散らした様にも、いつかテレビの中で見た噴火する火山のようにも見えた。

 街中も例に漏れず、貝殻の様に白く整えられた漆喰の家並みが、その尽くを上塗りされて一際オシャレな家の気取ったステンドグラスさえ元の色を忘れかけていた。

 すっかり昼間の熱から解放されたコンクリ道路の上を歩くと、まるで朱の海に溺れてるみたいな感覚に陥る。

 ふと、波に混じって不快な音が耳に届いた。

 何かを殴りつけるような音と、啜り泣くか細い声。

 水平線の広がる海とは正反対の、くたびれたシャッター商店街の路地の方。

 少し覗いて、僕は後悔した。

 『羽狩り』だ。そりゃ、赤も飛ぶか。

 複数人の男女がよってたかる円の中心。

 そこに彼女は居た。磁器のような白い肌を生々しい傷跡が穢して、長く垂れたブロンドの髪の隙間から、ひどく整った目鼻立ちが大粒の涙で濡れていた。

 抵抗するでもなく、されるがままに痛めつけられる少女。それは虐めと呼ぶにはあまりにも凄惨で、過激で、この街にとっての日常だった。

 だから、助けに入ったのはきっと、それが理由なんかじゃない。

 酷く傷んだ羽に、僕は惹かれたんだ。

 あぁ、この子は飛べないんだなって分かったからだ。

「おい!何してる!」

 室外機の影に隠れながら、潮風を肺いっぱいに吹き込んで、叫んだ。出来るだけ、大人っぽい声を真似してね。

「やべ!!」

 驚いた集団が蜘蛛の子を散らすように逃げ出していく。

 だが、彼らが逃げ出したのは警察とか法を恐れてのことじゃない。

 その証拠に、彼らは明日にでもまた同じように『羽狩り』を繰り返すのだろうさ。

 じゃあ、何故逃げ出したのか。

 簡単だよ。認めたくないのさ、選ばれなかった自分自身を。

 この街ではもう日常となってしまった『羽狩り』。

 その対象は『有翼人種』と呼ばれる新たな人間の形だった。



 それは1年前のこと。

 突然だった。なんの前触れもなく、世界中の人間は二分された。翼を持つ者と持たざる者。


 初めは皆、憧れた。


 幻想的な純白の羽根をその背中に宿し、空を自由に飛ぶ様は絵画に描かれた神話の天使そのものだったから。

 いつかは自分も、と純粋に夢見る者もいた。神様からの贈り物だと崇める者もいた。

 けれども、そんな日々は続かなかった。

 いつまで待っても、自分の背中に羽は生えてこないのだ。

 そも、何故、人に羽が生えたのか、どうして飛べるようになったのか。宇宙からのウイルス?突然変異?本当に神様からの贈り物?

 国の偉い人達も、頭のいい人達もうんうん唸りながら考えた。

 結局、何が原因なのか分からないまま、時間だけが過ぎていって、『有翼人種』はいつしか嫉妬の対象へと変わっていた。

 羽が生えたことを賞賛していた世論は、羽の生えた著名人を暴いて貶めるゴシップにすげ替わり、背中に生えた羽は隠すのが常識になった。

 誰かと違うことは恥ずべきことだ。

 人間の形と違うのは恥ずかしい事なのだ。

 もちろん、異を唱える人達もいた。

 優しい言葉や心は確かにあって、それ以上の不満や嫉妬に塗り潰されていた。

 世界のどこでも結果は同じで、違うのは『有翼人種』になった人間をどう扱うかくらい。

 差別や迫害。異端として処刑なんてのもあるみたい。流石に過激だって皆言うけど、本当に止めようなんて動く人はまぁ、少数だ。

 それに比べてこの国はまだいい。

 同じ症状の方が住みやすいだろう、なんて建前で1つの島に閉じ込めるんだから。

 そりゃ奇異の目はあるけれど、実害があるよりはマシだ。

 1つの問題があるとすれば、その隔離に選ばれた島の住民の中には当然『有翼人種』を嫌う人間だって居て、そいつらが『羽狩り』と称する暴力事件が後を後を絶たないことか。



 逃げ出した集団の背中が見えなくなってから、僕は隠れていた室外機の影から出る。

 暗い路地裏には目の前の少女と僕の二人きり。

 じめっとしたかび臭さが鼻をつく。

 居るだけで圧迫されていると感じてしまう狭い路地裏だからこそ、二人の距離はより近くに感じられた。

「……ありがと」

 たらりと垂れた血と共に少女の口から零れた声は驚く程に透き通っていた。

「立てる?」

 差し出した手は、取られることなく空を切る。

 ふらふらと、けれども自力で立ち上がった少女の瞳が僕を見据えた。

「わたどり」

「なんて?」

「渡る鳥でわたどり。渡鳥ヨスガが私の名前。君は?」

「晴。晴れの日のハル」

「そう、ハル。良い名ね。あなたにぴったり」

「ありきたりな名前だよ」

「ええ、もちろん、飛べないあなたにぴったりのね」

 それが、僕と、羽の生えた少女、渡鳥ヨスガとの出会いだった。



 夢を見ていた。目が覚めたら忘れてしまうような、幸せな夢を。

 遠く、少し白ずんだ水平線の向こう。青空を舞う一人の少女が見えた。

 踊るように軽やかに舞う少女の姿が強く心を奮わせた。

 何故だろう。

 僕は、どうしても、そこへ行かなくちゃ行けない気がしていた。

 波打ち際で立ち尽くしてる自分が酷く恥ずかしく思えた。

 締め付けるような圧迫感に襲われて、ぶわりと全身の毛が立つような感覚が走る。

 気がつけば僕は、駆けていた。

 ただ、少女を追いかけていた。

 砂が巻き上がって海に入る。今度は水飛沫が上がる。

 足にまとわりつく海水が煩わしく、体を押さえつける重力に忌々しさを覚えながら、それでもただ、走る。

 不思議なくらいに体が軽かった。

 開放感と全能感が血流に乗って全身を巡ってるみたいだ。

 目一杯の力で一歩を踏みしめる。

 じゃばん!と飛沫が全身を覆い隠して、一段と高く跳ねたその瞬間、バサッ!と奇妙な音が響いた。

 清らかな水音とは違う、明らかに生物的な音に振り返って見る。

 そこにあったのは陽を帯びてうっすら輝く白い翼だ。

 彼方に見える少女を追いかける僕の背には、今にも折れそうなほど細く、弱々しい、けれど確かに飛ぶための翼がそこにあって。

 羽ばたき、地を蹴る度にその歩幅は長く、高く上がり、ついには空へと僕を連れ出した。

 風を切ってとこまでも行ける気がした。

 風に乗ればどこまでも飛べる気がした。

 空は自由で、見渡す限り世界がどこまでも広がって見えた。

 肺一杯に吸い込んだ空気は冷たくて、どこかの緑の香りが心地いい。

 空気が美味しいっていうのは、きっとこういう事なんだろうな。

 そうさ、なら、行ってみよう。

 もっと、遠くへ。水平線の彼方に待つ少女の元まで。



 ピピピピピ。

 機械的なアラーム音が意識を引き戻す。

「夢……か……」

 カーテンの隙間から覗いた光が目元を照らしていた。

……眩しい。

 焦点の合わない目をこすりながらスマホを見れば画面に映る数字は午前10時を表していた。

 日付のすぐ下にあるカレンダーが、夏休みが終わっていないと教えてくれるが、それにしたって寝すぎた。

 勿体なさと、無気力感が綯い交ぜになったまま、起き上がって鏡の前に立つ。

 何度も見慣れた、羽1本すら生えていないごく普通の人間の形。

 何も変わらない……つまらない身体だ。



 外へ出てみた。

 カラッと乾いた夏の日差しが、アスファルトを灼いている。

 もわりと漂う熱気を押し流すみたいに涼やかな風が吹いては抜けていく。

 どこかで走り込みをしている運動部の声と、どこかの家の縁側に鳴る風鈴の音が混じり合う夏の世界を歩けば、澄んだ青が映った。

 雲一つない晴天の下、海沿いの道路に差し掛かった頃になり、やっと目的の人物を見つけた。

 薄く、陽炎に紛れる水平線に沿うように並んだテトラポットの群れの上。

 彼女は1人、風に揺られていた。

 渡鳥ヨスガと出会うのは、決まってこんな晴れた日だった。



「今日も飛ばないのか?」

 道路と浜辺とを隔てる防波堤に座り込んで聞いてみた。

 渡鳥ヨスガがこっちを見る。

 いかにもな、うへぇって顔をして。

「また来たの?」

 めんどくさいなぁって感情が言葉に表れてた。

「嫌そうだね」

「嫌そうじゃないの。嫌なの!よ!」

 テトラポットから飛び降りた彼女の背から、ふわりと羽が一枚空を舞う。

 ぱしゃん、水飛沫を上げながら着地した彼女が道路に上がる。

「ちぇっ、ダメか。今日こそは飛ぶ姿が見れると思ったのにさ」

「知らないわよ……そんなに飛びたきゃ飛行機にでも乗れば?」

「飛行機で飛ぶのと自分で飛ぶのじゃ全ッ然違うんだって!」

「それこそ知らないわよ……それに、あんた、羽無しのくせに言っても説得力無いわよ」

 そう言って、渡鳥ヨスガは歩き出してしまう。

「なんでそんなに飛びたいの?」

「人間はね、空に憧れるものなんだよ」

 心底分からないと言った様子で渡鳥ヨスガは問いかけ、僕は心底当然だとばかりに答える。

「…………」

 渡鳥ヨスガの返事は無い。

 残念、また振られてしまったようだ。

 今日も渡鳥ヨスガは何も答えず、ただ小さくなっていく背中が、陽炎に紛れていった。


 あの日から彼女との関係はずっとこんな感じだ。

 渡鳥ヨスガは飛ばない。

 渡る鳥、なんて名前のくせに。

 前にそんな事を言ったら1週間は口を聞いてくれなくなった。


 じゃあ、聞かなきゃいいじゃんだって?

 残念ながらそうともいかない。あきらめられない理由があるのさ。


 『渡鳥ヨスガ』が飛ばない理由。

 実は一度だけその答えを聞いたことがある。

 それも渡鳥ヨスガ本人から。


 あの日のことはよく覚えている。

 夏なのに肌寒くて、ぱらぱらと雨が降っていた。


 そんな天気の日なのに珍しく渡鳥ヨスガを海岸で見た。

 いつもならテトラポットに座って、水平線でも眺めてるのに、

 その日だけは降る雨に湿って色の濃くなった砂浜で一人うずくまっていた。


 泣いていた。


 幼い子どもみたいに小さく体をまるめてぷるぷると肩を震わせていた。

 押し殺した嗚咽が、不規則な息遣いとなって、時折鼻をすする音と混ざりあう。

 普段雨の打つ音と打ち返す波の音しか聞こえない空間は落ち着くものだけれど、こういう雰囲気には似合わない。ただ、どこまでも寂しいだけだ。小さな音すらやけに存在感を放ってしまうんだから。

 あぁ、しかもだ。こんな日に限って車の通りが少ない。エンジンの轟音とアスファルトを擦る音、ヘッドライトの光でこの永遠に似た一瞬の世界をすべてかき消してほしいのに。

 嫌味な太陽が雲の切れ間から少しだけ顔を覗かせる。

 傍らに立って尚、見ないようにしていた色を太陽は暴いてしまう。

 傷だらけの羽。

 そこには明らかに真新しい傷が増えていた。

 垂れた血が滴る雨粒に流されて真白を穢す。

 ここに来るまで何があったのかなんて聞かなくても分かった。

 初めて出会った路地裏の時みたいに、その羽は今、きっと飛べない。

 僕はただ、渡鳥ヨスガと共に雨に濡れることしかできなかった。


 その後ひとしきり雨に降られていたあと、重苦しい雰囲気に耐えかねたのか。

 それとも痛々しい羽を見て、今の渡鳥ヨスガなら僕の求める答えを返してくれると、そんな醜い打算がふつふつ湧いてしまったのか。

「ねぇ、なんで飛ばないの?」

 気が付けばいつもの言葉が口をついていた。

 瞬間、世界が凍りついた気がした。夏だというのに肌に触れる雨粒が恐ろしく冷たい。

 啜り泣く声が少しの間止まった。渡鳥ヨスガが息を吸い込む音がはっきりと聞こえた。

 感じたことのない空気に初めて渡鳥ヨスガから答えが返ってくる。そんな予感がした。

 いつもなら適当に流されるはずの問いが今日だけ意味を変えたみたいだ。

 雨音が遠のく。波の動きを鈍らせる。鼓動の音だけが早く高鳴る。

 答えてくれ。と願いながら、その答えを聞くのが怖くもあった。


 その恐れは正しかったのだと僕は知ることになる。


「嫌いなのよ。空って退屈だから」


 涙と雨でぐしゃぐしゃに濡れた顔で、真っ赤に腫らした目元の雫を掬うみたいに簡単に。

 彼女は、渡鳥ヨスガは答えた。

 その答えだけは聞きたくなかった、と僕は静かに失望していた。

 


 それからどうしたかなんてよく覚えていない。

 熱を出した夜の日みたいに、ぽぅと頭が熱くて痛くて、なのに思考だけはすぅっとクリアに醒めていく。

「風邪を引く前に帰ろう」

 心にも無いことがよく口から出たものだ。


 それから数日経って。何事も無かった様に僕達は出会う。

 いつも通り、渡鳥ヨスガはテトラポットの上に座って。

 僕はそれを車の無い道路から防波堤越しに眺めている。

 背の低い防波堤に遮られた二人の距離が普段より遠くに感じる。

「空、飛ばないの?」

「ホーンット、毎日そればっかり。よく飽きないね」

 呆れたとばかりに肩を落とす渡鳥ヨスガに、少しだけむっとした。

「別に、誰になんと言われようと好きなだけだよ」

 だからそれは、純粋に空への憧れを理解して欲しかった故の言葉だったんだが

「へ!?」

――どうやら渡鳥ヨスガは別の意味に捉えたみたいだった。

「ち、ちなみに、いつから……?」

 何故か目を狼狽えさせながら上ずった声で渡鳥ヨスガが聞いてくる。

「最初からに決まってるよ」

「最初から!?……つまり、あの日私を助けた時にはごにょごにょ……」

「やっぱり綺麗だし、見る度に表情が変わって惹かれるし……」

「~~~~!!!」

 渡鳥ヨスガは声になってない謎の奇声を上げながら、気恥ずかしさを誤魔化す時みたいに手足をジタバタさせていた。

…………遂に渡鳥ヨスガも空の良さを理解してくれたのかと感激して、空への憧れを語り始めた僕を冷めた目が見つめていたは言うまでも無い。。

「ふーん、君は、『空』が好きなんだ。ふーん」

 渡鳥ヨスガが呟くが、何故だか語気強い。

 やがて、「まぁ、勘違いした私が馬鹿だったよ」と嘆息した彼女は

「にしても、ホントに君は空が好きなんだね」

 と不思議そうに聞いてきた。

「人は空に憧れるものだからね」

「空に?」

「そうさ。いつの時代も人間は空に憧れるものさ」

「それは羽の無い時代の話じゃない」

「そうでもない、飛びたいのに羽が無いから羽狩りなんてするんだよ、きっとね」

 言い終わって、やっと渡鳥ヨスガの顔が急に暗くなっていたのに気が付いた。

「ごめん、変なこと思い出させた」

「別にいい」

 気まずそうに渡鳥ヨスガはぷいっとそっぽを向いてしまう。

「でも、やっぱりわかんないよ」

 逸らした横顔からぽつり、声が漏れる。

 風に紛れて消えてしまいそうな声を残して渡鳥ヨスガはテトラポットを降りる。

 砂浜から数段しか無いコンクリ階段を昇って道路に出ると、こっちを見ないまま歩いて行く。

 こうして、今日も渡鳥ヨスガとの邂逅は終わる。

 ただ、水平線を眺めて、太陽が沈むまで駄弁る時間。

 朱い日が彼方の海に沈んでいく。

 薄暗く、月の明かりが街を照らすまでの僅かな間。

 僕たちは互いに引き留める事も無く帰路につくのだ。

 示し合わせたわけでもない。合図として決めていたわけでもない。

 その終わりは最初から決まっていたかのように。

 1つ、今日だけ違う点があるとするならば、それはさっきの言葉がずっと耳に残っていたんだ。


「ねぇ!今日の夜、夏祭りだからさ……。その、鳥居の下、待ってるから」


 その言葉が届いたかは分からない。

 渡鳥ヨスガは相変わらず振り返らず、その背中は小さくなるばかりだった。



「いっつも、空ばっかり見て、退屈じゃない?」

 拗ねた口調に諭されて、視線を下げれば、彼女と目が合う。

 黒を基調として朝顔柄のあしらわれた浴衣に身を包み、落ち着きなく身をよじる渡鳥ヨスガだ。

「何よ……ジロジロと…………その、言うこととか、あるんじゃないの?普通」

「ごめんごめん、よく似合ってるよ」

 さっき、遠目から見た彼女に見蕩れそうになったことは黙っておくとして、それでも男として言うべきことは言わないとな。

「ハルのくせに気取ってて生意気」

 だというのに、途端にそっぽを向かれてしまった。

 マズかったか、と一瞬焦るが、どうやらそうでもないみたいだ。

 まるで子犬の尻尾みたいに彼女の背中の羽がぴこぴこ動いているのだもの。

 なんだ、存外わかりやすいじゃないか。

 くすりと、吹き出すと彼女が僕に向き直って睨んだ。

 してやられたのが悔しい子供みたいに、頬を膨らませてる。それがなんだかおかしくって、愛おしく見えて笑うと、彼女もつられて笑みをこぼす。

「それじゃ、行こうか」

 どちらからともなく差し出した手は絡み合って、僕達の影を花火が打ち消した。

 夜を暴く祭りの明かりが僕達を照らすけど、覗いた横顔にに朱が差して見えるのはきっとそのせいだけじゃないのだろう。

 それが少し、嬉しかった。



 深い青の空を光が昇る。

 ひゅろろ、ひゅろろと次々と空高く昇っては、割れんばかりの光と共に弾け、煙だけを残して消えていく。

 周りの人達も誰も彼もが上を見上げる。

 一時の夏夜に誰もが酔いしれていた。

 縁日を彩る屋台の熱気と香気に包まれた僕達もその例外ではなく。

「こっち、早く行こう」

 渡鳥ヨスガに袖を引っ張られながら屋台巡りに勤しんでいる。

――まもなく、花火の打ち上げ開始です。移動の際は……。

 夏祭りのメインイベントが始まろうとしていた。



 花火というのはどうにも人を惹きつけてやまないようで、対岸から昇る花火が綺麗に見えるようにと川辺の広場は既に人で溢れかえっていた。

 その中で、残念ながら僕たちはだいぶ遅れてやってきた方のようで、目の前には大きな人の壁が続いている。

 因みにだが、渡鳥ヨスガは僕より少しだけ小柄だ。僕が背伸びしてようやく越せる 

この壁を渡鳥ヨスガは越えられなかった。

 うんと背伸びをしているみたいで、ぷるぷる体を震わせてるけど、

「離れたとこで見ようか」

 僕が提案すると、

「いいよ、隙間からでも見れるし……」

 遠慮がちというよりは、若干諦めたように渡鳥ヨスガは答える。

「肩車でもしようか」

「ハルってホント馬鹿」

「ごめんごめん、冗談だって」

 他愛もない会話を終えて、僕は手を差し出す。

 訳も分からず困惑していた渡鳥ヨスガだったが、彼女もすぐにその意図を察したようで。

「本気で言ってる?」

「大丈夫、空は綺麗だよ」

 僕の手に、渡鳥ヨスガの手が重なる。

 広げた掌にゆっくりと彼女の体温と震えが伝わる。

 それでも少しずつ空に手を掲げるにつれて、ふわり軽くなる。

 乗っかっていた重みというか、命の実感というか。

 横に立っていたはずの彼女の方を見て言葉を失った。


 渡鳥ヨスガが飛んでいた。


 いや、『飛んだ』と言うよりは『浮いた』と表現するのが正しいような、ふわりふわりと宙に漂いながら、不安そうに、最後の一穂に縋る様に僕の指を離さない渡鳥ヨスガがそこに居た。

 渡鳥ヨスガが僕の指を離さないから、彼女は地面からほんの二、三メートルも離れていない。

 それでも人の壁は無事に越えられたようで、花火の音が響いた瞬間、渡鳥ヨスガの顔がぱぁと輝いた。

 彼女の瞳の中に光華が煌めいていた。

 そう、それでいいんだ。

 空は綺麗なんだよ。

「綺麗だったよ」

 渡鳥ヨスガは満足したようにその身を降ろす。

「飛ばないと見えない景色も、いいのかもね」

 一際大きな花火が薄紫の空に咲いていた。

 きっと誰も僕達の会話には気付かなかったことだろう。


 夏祭りの次の日。僕はまた浜辺にいた。

 渡鳥ヨスガは相変わらずテトラポットの上に座って、僕はといえば砂浜の、波打ち際で沈んでいく夕陽を眺めていた。

 空を埋めつくした光の華も、残滓のように漂っていた煙の跡も、きれいさっぱりどこかへ消えて空はいつものように青く澄んで赤に染まる。

「飛ばないの」

 僕が聞くと、

「飛んで欲しいの?」

 渡鳥ヨスガが答える。

 その答えには今まで潜んでいた翳りが消えていたように感じた。

「飛べない人間は空に憧れるんだよ」

「そうだったね。……ねぇ、もし私が飛んだら」

 それから少しの間があった。

 迷いだとかを断ち切る、少しの間が。そして。

「もし、あの海の向こうまで飛べたならさ」

 遠くに揺らぐ水平線を見つめて渡鳥ヨスガは言うのだ。

「君は嬉しい……のかな」

 絵画の様だった。夜に染まりかけた空に天使の羽根が幾枚にも舞い踊る。

 救いを求める人々を置いてけぼりに、凝り固まった油絵の具の重苦しさを感じさせない奔放さで飛び立つ少女。

 純白の翼は茜色を写し取る。水面に落とした影も今は夕闇に紛れて隠されている。渡鳥ヨスガはこの世界のなによりも儚く、繊細な美しさな存在になっていた。

 映画のラストシーンを切り取ったみたいな幻想が目の前を通り過ぎていく。

 彼方、水平線の向こうに彼女は消えた。



 とぷり。とぷり。

 行き場を失ったみたいに寄せては返す波が、飲み込んでは逃げていく。

 水音に呑まれたと思えば、放り出され、潮風が耳を打つ。

 慣れない動きに疲れきって火照った体には丁度いい冷たさだ。

 横目に見える夕の日がどっぷりと暮れて赤赤と燃えていた。

 それは、最後の輝きのようにも見えた。

……もうすぐ日は沈む。

 陸に上がれば、夏の熱気を忘れた砂浜とコンクリが私を迎えるだろう。

 今日までの熱を失った瞳で、彼は私を見つめるのだろう。

 そう思うと、ぶるりと体が震えた。

 夏が沈んでいく。終わりはもうすぐだ。

 暗い海に漂って、このままぷかぷか浮かんでるうちに溶けてしまえばいいのに。私も沈んでしまえればいいのに。

 そうすれば、もう彼に会わなくて済むのに。

と、私は願う。

 陽炎のような日常だけが失われた明日に、飛べない私は居ない。

 空に憧れる彼の姿はきっとない。

 この夏の私たちは、ずっと失われたままだ。

「君は――嘘つきだね」

 どこかで分かっていた。彼の憧れは『空』であり、『飛び立つ』ことなんだと。

 きっと彼は私に自分の姿を重ねて見ていたんだろう。

 飛べない私が飛び立てば、そう思っていたのかも知れない。

 そうでもなければあんな悲しそうな表情、出来るわけ無い。

 最後に見えた、底冷えするほど諦観に満ちたあの目を頭の中から消し去るように、かぶりをふった。

 私達はもう違う生き物になってしまった。あの浜辺に立ってもそれは変わってはくれないだろう。

 羽ばたける私と、残される彼。

 水平線は遙かな壁となって飛べない彼らを遮って、飛べる私との境界線となって伸びていく。切れ目なんてなく、どこまでも。

 ばしゃりばしゃりと波が立って、水を含んだ髪が重く引っ張られた。

 それでも、どうしても、あの眼差しが消えることはなくて、大粒の海が口に入った。しょっぱい。

「さようなら。私の友達」

 薄暗がりに染まっていく空は孤独で寂しく見える。

「ほら、やっぱり……空は退屈だよ」

 今日が新月だと、ついぞ私は気付かなかった。

 ただ、冷たい夜の海に、私が溶けた。




 大切なものは失って初めて気付くものだ。

 使い古された言い回しだけれど、いまでも口にしてしまうのはそれが真実だという裏付けだと、僕は知った。

 太陽は沈んでどこに行くのだろう。

 小さくなっていくその背中はどこまでも自由で、地表の重力に縛られない姿には羨ましささえ覚える。

 もう、この空は彼女のものだ。

 そして、彼女は空のものになった。

 同じ地面を歩けていたのが、奇跡みたいなものなのだから、今更言っても仕方の無いことだとは分かっている。

「それでも……」

 と、蘇りそうになる記憶を、溢れそうな思い出を押し留めるように奥歯を噛み締める。

「ホントに、楽しかったんだ……」

 零れた言葉が彼女に届くことは無いから。

 紙ヒコーキに折り込んでも届かない思いなら吐き出しても大丈夫だろう。

「あぁ、ホントに、ホントに、夢みたいだ」

 こんな悪夢から醒めてしまえばいいのに。

 一夜の夢だったなら、すぐに忘れてしまえるのに。

 思い出した憧れも、傍らに立つ少女の温もりも知らなければ、いつものように死んだままで生きれたのに。

 どくん。どくん。どくん。

 心臓はまだ高鳴っている。

 空への憧れに。少女への憧れに。

 うるさいくらいに鳴っている。

 生き返ってしまった理由がそこにはあって、生きていたい理由は彼方へ飛び立ってしまった。

 どうしようもないな、なんて思ってしまう。

 未練がましく彼女の顔が浮かんできて仕方がないから駆け出した。

 叫ぼうと大きく息を吸えば、潮風が胸を焼いた。

 砂を蹴れば、波が立つ。

 あの水平線に消えた彼女に追いつこうと駆けていた。

 まとわりつくように、押し留めるように邪魔をする海水が煩わしい。

 盛大な水飛沫を上げながら、ひたすら前へ。

 空を割いた軌跡をたどるように。

 けれども忌々しいほどに、重力は僕を地表に抑えつけて、僕の体は海へと沈んでいく。

 そのうち、海底を掴んでいた足すら届かなくなって、大量の海水が僕を覆い隠した。

 空を映す、深い藍の海に、僕が沈んでいく。

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