第94話 幼女は気付かない
8か月ぶりに抱き上げた幼女は重かった。
「芽衣ちゃん……大きくなったね」
表現を少し変えた琴樹に芽衣は体を揺らして答えた。
「めいね、おっきくなった!」
こうやってこう! と手を広げるのは琴樹の腕の中でだ。優芽は口を開きかけ、妹を抱きかかえる人が動じていないから、口と一緒に伸ばし掛けた手も下げておく。
「そっか。偉いね。それで二人は、二人も夕飯の買い出しとか?」
「ううん。なんていうか」
「おにいちゃんがね! いますよーって!」
姉の言葉を遮った芽衣はそこではたと気付く。
「だれかねー、ゆってたんだよぉ? んー? だれだぁ?」
こてっと横に傾く頭が芽衣自身の不可解を表現していた。誰に、いつ、どこで言われたのだったか。
大好きなお兄ちゃんが帰ってくるよ。
確信だけを残して消えたものの正体は掴めない。
琴樹は優芽に視線だけで問うが姉だろうが誰だろうがわかろうはずもないのだ。
「よくわかんないんだけどね、なんか、わかってたみたい。琴樹が今日……ここに居るって」
「それは……まぁ、いいか」
なんだっていいだろう。もうこうして会ってしまったのだから。
琴樹としては、明日の始業式でごく普通に登校して、色んな人への報告の中で友人の一人として優芽にも挨拶くらいしに行くつもりだった。
一応、遠慮しているのだ。自分がいなかった期間に。その間の変化に。
「琴樹は、夕ご飯の買い物?」
「ああ。つっても、菓子パンかカップ麺かって感じだけどな」
「うわ不摂生。せめてお弁当食べようよ」
「たまにはいいだろ。たまになんだ。まだ色々、整理しきれてないから」
琴樹は優芽の目の奥に一瞬の揺らぎを見た。
「身の回りの……引っ越しのあとの諸々が、って……それだけだけどさ」
揺らぎはもうないけれど、琴樹はもう少しだけ続ける。
「他はもう……整理してきたよ」
「ん。……じゃあ……」
うちで夕ご飯食べる? は性急に過ぎる。じゃあ? と重なる声に優芽は「ええと」と代替を探すが妙案は浮かばなかった。とりあえずで口に出してしまえば芽衣が乗り気になってしまうだろう。
どうしたものかと優芽が悩んでいると琴樹が取って代わる。
「二人はじゃあ、特に何か買うものがあるわけじゃない、んだよな?」
「うん。……琴樹に会いに来ただけだから」
琴樹は店内の中吊り案内をいくつか目に確認する。する必要はないしある。
「まぁだから、なら、悪いけどこっちの買い物に付き合ってくれ。送るよ、そのあと、家まで」
「いっしょにごはん食べるぅ?」
「それはまた今度な」
「明日?」
「はは、明日は難しいな。大丈夫、すぐだよ」
「もういなくならない?」
結局はそこに辿り着く。
琴樹は芽衣の頭を優しく撫でて返事に代える。
くすぐったそうに、でも自分から頭を押し当てていく芽衣がどちらと受け取ったのかは、琴樹も優芽もわかっている。その幼い信心を崩すべき時が今ではないことも。
そして優芽は、ならないではない、と思う。それを怖いとは思わない。
琴樹の買い物なんていうのは言っていたとおりにあっという間に終わる。つまりカップ麺二つと飲み物。
「コンビニでもいいと思ったんだけど……なんとなくここに来ちゃったんだよな。あ、あとそっちのやつも頼む」
「はいはい。なんとなくかぁ……運命的だね」
「笑うなよ、俺もちょっと思ったのに」
「じゃ、運命だ」
「うんめいだ!」
琴樹の両腕はずっと芽衣が占有しているから、優芽が代わってカゴを持っている。
「あとこれと……向こうね」
「待て待て」
「芽衣も、お菓子ふたっつまでおーけーします」
「ふたっつも!? じゃあじゃあっ」
芽衣があれがいいこれがいいを口にする傍らで優芽が笑む。金色の髪が肩口に揺らめく。
「半年もほっぽってた罰」
それはもう、琴樹は甘んじて受け入れる外なかった。
予定より重くなった買い物袋を提げ、片手には全く予定になかった手を握る帰り道。道のりも予定外だ。
琴樹は鼻歌に興じる芽衣を見て、自分と反対側に繋がれた先を見て、空まで辿った。穏やかな冬の空。
「今日……会えてよかった」
優芽は何も言わなかったが、芽衣が自分もを主張するから一緒だなと笑って返す。
「会いたかった?」
「あいたかったぁ?」
優芽の揶揄う調子を、芽衣が真似る。
「そりゃまぁ……会いたかったよ」
「よろしい」
「よろしい!」
目を合わせて微笑みを浮かべ合う姉妹に、本当に会いたかったのだ。会えてよかったのだ。
今日も。
「それじゃここまでだね芽衣ちゃん。また近いうちに遊ぼうな」
「めい、あそんでなんていられないわっ」
「お……あぁ、そういう……おにいちゃんは遊びたいけどなぁ。芽衣ちゃんがそう言うんじゃ遊べないかぁ」
「はっ、やだぁ~あそぶ~ぅ~。明日、明日あそぶの!」
「ごめんごめん。明日は無理だけどそのうちね、遊ぼうね」
「はい! あそびします!」
指切りまですることになって、それでようやく別れる運びとなる。
「じゃあまた。またね芽衣ちゃん」
「またねー! またねこときおにいちゃん! またねー!」
門が仕切りで、琴樹はその先には立ち入らない。いつかはまたと思うけれど今日のところは。
だから優芽とも別れの言葉を交わして見送って、今日のところはそれで終わりと思っていた。
瞬間、優芽の顔が近づくまでは。
「ね、ちょっと待ってて」
耳元に不意打ちされた小声に、ちょっと待つの半分は放心が勝手に応じる羽目になったのだった。
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