三章

第93話 幼女は王子様を見つけた

 白木芽衣はぱちりと目を覚まし、むくりと体を起こした。すっと立ち上がってしばしの不動。たまたま見ていた母が面食らうほどに淀みない一連の動作だった。

「おはよう芽衣」

 目を瞬かせた白木早智子が一拍遅れていつもの挨拶をすれば、流れるように芽衣の首がそちらを向いた。

 向かれた母親としてはちょっと心配である。どうしちゃったのかしらと思うくらいに娘が静かで一々動きが妙に滑らかなのだ。

「めい……おきがえします!」

「え、あ、そうね。それは……いいことね」

 かと思えばいつも以上に活発にパジャマを脱ぎはじめる次女の様子にしかしやはり少しばかりの疑念は拭えない。

「おようふく、おようふく」

「あーあー芽衣、ちょっと待ちなさい、シャツが前後ろよ」

「まえうしろ! まえ? うしろ?」

「そう……そうよ。着替えたらお顔洗いに行きましょうね」

 一所懸命に着替える芽衣に口だけ出しながら早智子は考える。

 今日は特に、お出かけの予定はなかったはずだけれど。


 どうも外に行く気満々らしい芽衣だったが、何処にとも誰ととも何時いつとも具体的なことは言わない。

「まだねー、いいの」

 そう言ってトーストを一つ食べきって食器を洗い場に運ぶ。白木家のあちらこちらに芽衣のための踏み台が置かれて久しい。半年以上も経てばすっかり見慣れた光景だった。

 もちろん、姉の白木優芽にとっても。

「変な芽衣」

「……朝からああなのよ」

 突っ込みはしない選択をして、早智子はお姉ちゃんに何か知らないかと問う。

 もちろん、姉の白木優芽にも、妹の様子に心当たりはない。

「ところで優芽、冬休みの宿題は大丈夫なの? もう今日しかないけど」

「もちろんばっちり。去年の内に終わらせたよ」

 こちらもこちらで、しっかりするようになったものだと早智子の口の端が上がる。

 結局、芽衣がお気に入りの服と鞄を装備したままというヘンテコな状態で白木家は本日二回目の食事の時間を迎えることになったのだった。


「鞄、邪魔でしょ、置いておけば?」

「ううん。すぐにね、行けるようにしてるからいいんだよ。めいはすぐ行くから」

「行く、行く、って、ねぇ、どこ行くの? 今日行くの?」

 どこへ。いつに。

 そういった質問に、芽衣は首を傾げる。傾げたいのはこっちなんだけどと優芽は思う。

「行く時は私かお母さんに言ってよね」

「はい! めいはかってにお出かけしません!」

 よい返事である。以前に園を抜け出した際のお叱りはきっちり芽衣の心に残っている。

「お出かけするのはおねえちゃんに言います!」

 そこはご指名なんだ、と優芽は軽く流しただけだった。


 だってまさか、自分も一緒とは思っていなかったから。

「おねえちゃんはやくぅ~! めい、めい、じゅんびしたのに!」

「ごめんごめん、だってあんた何もそんなこと言わなかったじゃん。私もとか」

「お出かけするってゆったあ!」

「そうだね、言ってたね、すぐ準備するから」

 何処へ行くのかは知らないが付き添いは母がするということで纏まっていたところ、芽衣がどうしてもと言って聞かず優芽も急ぎ服を着替えている。たまたまずっと家に居たから良かったものの、先に遊びなりなんなり出て行っていたら芽衣はどうするつもりだったのだろうと気になりはするが訊いても明瞭な回答はなさそうとも理解していた。

「よし、じゃ行こっか」

「おはなもちましたか?」


 それで、なんとなく、理解した。


 とはいえ、まさか、だったけれど。



 学校とも駅とも方向が違うから、優芽はほとんどそのスーパーに足を運んだことがなかった。

 ほとんど、というのは、数回だけ、僅かな期待を気分に誤魔化して来てみたりしたことがあるのだ。いつも小さな自嘲に落ちるだけだったが。

 迷いない足取りの芽衣と手を繋いで引っ張られて、優芽はどこにでもありそうな店構えの奥の空を見る。昼と夕方の間の、穏やかな冬の空。


 スーパーはスーパーだから、入店したのに何も買わないというのも心苦しい。優芽がそう思っていると芽衣が子供用の小さなカゴを手に取った。じゃあまぁお菓子でも買えばいっか、程度で霧散する苦しみではある。

 カゴを手に、芽衣はお菓子コーナーに行くでもなくきょろきょろと辺りを窺っている。

 あぁもう、理解している。

「見つかりそう?」

「んーーー……」

 どうやらそう簡単じゃないらしい。広い店舗といってもたかが知れているけれど、それでも時刻が時刻であるし買い物客は多いのだ。


 あの日も、そうだったろうか。そうだったのだろう。

 大勢のお客さんがいて。店員さんもいて。

 その中で、手を差し伸べてくれたのが。


「あ!」


 芽衣は走り出しはしなかった。

 この半年でたくさんお勉強して、お行儀良くして、いい子にしていたから。

 代わりに姉の顔を見上げて、言う。


「おにいちゃん、いた!」

 ただまだ少し、高揚は声に出てしまう。うるさいくらいじゃなくても。

 でも今だけはそれでいいのかもしれない。

 声に気付いた人が振り返るから、これでいいとそう思う。

 とりあえずまずはそう。

「おかえり」

 優芽はもう、なんでもいいのだ。その一言が言えるなら。言えたから。

「……ただいま」

「! おかえりなさい! こときおにいちゃん!」

 この瞬間だけ芽衣はいい子を忘れた。

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