第87話 他人の中に生きているということ
スケジュールの都合、というなんとも都合のよさそうな理由の下に、二学年の二クラスが合同で体力テストを行うことになった。
準備運動を終えた琴樹と仁がグラウンドの一角に顔を突き合わせたのはそれだけの背景だった。
「どうよ、そっちのクラスは」
「ぼちぼち。悪くはないな」
「白木がいないのに?」
「それ加味しちまうとマイナス百億点だからな。除外だよ除外」
「おまえ、だっはっは、なんとまぁ、素直なボーイになっちまって!」
そんな絡みさえ琴樹は軽く聞き流す。「まったくほんとに」と仁が笑ってしまう程に、琴樹は好意を隠すことをしなくなった。
「その明け透けもお医者様からか?」
「まぁな」
なんのことはない。ただのカウンセリングの一環だった。
「ちな、これもだったり?」
「いや、これは別。割と感謝してる、仁には」
「わお。……あれだろ、切り替えできねぇとかそんなんだろどうせ」
「……ま、半分はな。嘘。七割」
仁は肩を竦めて、コンクリートに腰を下ろす。校舎と体育館とを繋ぐ通路は日の光をたっぷり吸って仄かに温かかった。
「で、付き合うのか? 告白は男からってのがオレの持論だが」
「古いんじゃないのかそりゃ」
琴樹は座らず柱に背を預けた。そんな友人を仁はちらりと見上げる。
「古風に手紙とかどうよ」
「こういうのは面と向かって、てのが俺の持論な」
「古いのはどっちだよ」
時間内に種目を回り終えればいいから、間に合う限りで余裕はある。琴樹が見たところ自分たちのような自由派閥も少数だが確かにいるようだった。
「オレは驚いてるよ」
琴樹と同じようにクラスメイトや同学年の男女を眺めながら仁は感慨を込めて言う。
「いろんな人間がいる。ってよ……言葉じゃよく聞くしそりゃそうだろって思ってたけど、ほんとにいろんな奴がいて……飽きねーなー」
「お医者様から言われたことなんだが……情の深さってやつは千差万別なんだと。深さ自体がってのもそうだし、それをどう……割り切れるかってのも」
「ためになるなぁ。ありがてぇありがてぇ」
「で、たまーにいるんだと、一番以外がどうでもいいって本気で思える人間が」
「それがおまえだと? そうかね? まぁ、好きな相手にさえ他人を重ねるようなのは碌な人間じゃないだろうが。それでも琴樹は大事にしてると思うがね、白木にしろ、白木の妹にしろ。篠原も。もちろんオレのこともな」
「もちろんは微妙に嫌だな」
「顔に心底って書いてあんぞ」
「心底、嫌悪感が半端ない」
「うーんツンデレー」
大事じゃなきゃ、大事な話なんてすることはない。と、それは琴樹と仁に共通の持論だった。
「仁には……俺も優芽も、どうでもいいか?」
二年一組と四組の合同なら、運動能力の水準は女子の方が高い。それはもちろん同性と比べた場合の話ではあるが、つまり高い記録を出して盛り上がることも女子の方が多いのだった。
歓声とはしゃぐ声がやむまでだけ仁は黙っていた。
「どうでもいい。の中じゃどうでもよくない方だな。どうせオレとおまえは他人だろ。そういう意味じゃどうでもいい。白木と付き合おうが付き合うまいが、学校辞めようが辞めなかろうが、極論、生きてても死んだってどうでもいい。これはそんなにおかしなことかね」
「いや。『普通』じゃないだけでおかしくはないとさ。お医者様からのありがたい言葉だ、受け取っとけよ」
「代金払った方がい?」
「どっちでもいい、どうでもいい。だそうだ」
「いぃいお医者様だぁなぁ」
いい加減に動き出さなければいけない時間になってくる。体育教師は顔も体格も厳ついから、一介の男子高校生では太刀打ちできやしない。琴樹が背中を跳ねさせたのと仁が腰を上げたのは同時だった。
「そういやライブ、ゴールデンウィークにやっから」
「おけ、チケット二枚寄越せ。……ゴールデンウィーク?」
「イエス、ゴールデンウィーク」
「涼は、参加……するのか?」
「さぁな。出られるようなら出てもらう、出られないならそん時はそん時だ」
「……まぁ、そっちのことだから俺からは別に文句はねぇけど」
「チミも大概、どうでもいい側だよなぁ」
「俺はな。優芽はちげぇぞ」
「ちょい疑問なんだけど、それで上手くいくもんなのか?」
「さぁ? どっちにしろ上手くいかせりゃいいんだよ上手くいかせりゃ」
「うっわ破局しそ」
「この世に絶対はないからな」
とりあえず一番近いところで幅跳びの列に並んだから仁は、それがどちらの話か、を問うのはやめた。それにどちらでも同じ話だ。
絶対に破局しないカップルはなく、絶対に破局しそうな恋人たちが破局するとは限らない。
そんなことより。
それをどう音楽にできるかの方が浦部仁には大事なのだった。
〇
琴樹が他クラスに足を運ぶことはよくあることで、運ばれるクラスの人間にもそれはとっくに認識されている。
「おう幕張、またか」
「おう。まただ」
短い会話で受け入れられるほどに足繫く通っているのである。
「琴樹、ちょっと待ってね」
少し、通い過ぎとは自覚がある。待ってと言われて待つ間、中学の部活仲間なんかに軽く声を掛けてみたりする。
さして待つことなく優芽がクラスメイトたちの輪を抜け出てきたから、琴樹は簡単な謝罪の後に廊下に出ることを促した。
「なになに?」
「一応、伝えておこうと思ってな」
〇
「あれ? 幕張じゃん。どしたん、優芽待ち?」
「いや篠原待ち」
「だよねー。はぇ? わたし?」
〇
「篠原と話すのって花見以来だよな」
「だね。あ、たびたび……よくよく? 頻繁にうちのクラスに来てるのは知ってる。間違えた。優芽に会いに来てるのは知ってる」
「同じクラスだもんな。羨ましいよ。クラス替わんないか? 俺が六組行くから篠原は明日から一組に行けばいいよ」
「おバカさんですかぁ? てか……大馬鹿さんですかぁ? なんかわたしに用なの?」
「用、まぁ、用、だな。言っとかなきゃいけないこと……てのは俺的にって話ではあるんだけど。あー、でも一応、優芽の友人としてというのもないでもないというか」
「ばかあほくずぼけばかまぬけへたれへんたい優柔不断なよなよめんどくさやっかいばかくそぼけ男」
「ひでぇ罵倒だ」
笑ってしまうくらい。怒涛の罵詈雑言に琴樹は喉を鳴らしてしまう。
「手付け金ね」
しかもどうやら後々、同等以上の罵声が待っているらしい。まったくもって至極当然のことだと琴樹も思う。
「この前、って言うにはちょっと昔か……ホワイトデーの日、たぶん……たぶんじゃないな……わかっただろ? 俺が、そう……」
ばかあほくずぼけばかまぬけへたれへんたい優柔不断なよなよめんどくさやっかいばかくそぼけ男。の。
「最低な野郎だってのは」
「最低も最低、最悪の男だってことがね。ちなみにそうやって自分で自分のこと下げて言ったりするのもさいってい」
一理あるので琴樹は情けなく眉尻を下げるより他にない。
「それで? それが? 今になってそんな話をわたしにしてどうするの?」
「……そんな俺だけど、優芽を……優芽だけは、諦める気はない。譲る気はない。優芽の友人……優芽が大事に思ってる人、優芽を大事に思ってる人、そういう人になんと思われても、認められなくても、だ。たとえ……たとえそれで優芽とその人が険悪になってもだ」
もちろんそんなことにならせるつもりはない。
琴樹を認めなくとも道はあるはずだ。琴樹を認める道もあるはずだ。
ただ、そうならなかったとしても。
「俺は、優芽と一緒にいる。優芽もそう思ってくれるなら、ずっと。ずっと一緒にいたいと思ってる」
「言葉だけならなんとだって言えるじゃん」
「そうだな、そのとおりだ。だから今……俺は俺、を……俺の中で優芽を舞おねえちゃんと重ねてしまっている自分を、変えようと、してる。まだ、出来てないけど、してるんだ」
優芽を見る目を変えられるかどうか。
なら、変えればいい。変えるしかない。
自分のため、は自明。優芽のため、は確信。
それにきっと、と琴樹は思う。
目の前で、今にも泣き出しそうな女の子のためにも、自分はここで変わらなければならないはずだ。
「さいあく……だよ」
泣かせるつもりはなかった。泣かせることになるとは、思っていた。
下駄箱前で待ち受けて、校門までは雑談を。バス停まではふざけながら。
バス停を過ぎて、なお歩き、今はもう静かな小さな名前も知らない公園の隅にいる。
「さいあく……さいあく……」
言うつもりはなかった。互いに。
「うっ……ぐす……す、うぅ……」
手首で何度擦っても止め処ないものを受け止める資格はなかった。
「す……ぐ、うぅ、す……すき、で……グスっ……好きです……わたしも……わたしも、琴樹が……好きなの……好き、なのにぃい」
今しかなかった。希美には今しか。
「ありがとう」
の先は、とっくにわかっているのに。
「ごめん。俺は、優芽が好きなんだ」
言うつもりはなかった。互いに。
言うしかなかった。
希美には、押し込めようとして押し付けてぎゅうぎゅうと悲鳴を上げる程に押さえつけていたものが溢れるのを止める術はわからなかったから。
琴樹には、自分への好意によって涙を流す女の子に対して、
言うつもりのなかったことを、言って。
傷付け合う以外の未来はなかった。
その、ただの結果として、篠原希美は声を上げて泣いた。
堰はもうない。
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