第86話 幼女は先を知る

 春の諸事の一つとして、白木姉妹はそれを楽しみにしていた。

 テレビの前に陣取って、芽衣は色分けされたプラスチックを組んでいる。ほとんど迷うこともなく日本を形作っていく。

「おねえちゃん! できました!」

「おー出来てる出来てる。もう覚えちゃったかぁ」

 都道府県くらいの分類じゃ、どうやらもう妹を五分も大人しくさせていられないらしかった。優芽としては、学習を喜ぶような次はどうやって静かにさせるかと困るような、微妙な心持ちだ。

「あと十分……よしじゃあ、この前の話をしてあげよう」

「このまえの?」

「そ。この前、私と琴樹が映画観に行った話」

「おぉー!」

 目を開いて驚いてから、芽衣は「おぉ?」と小首を傾げた。

「きのうもきいたよー?」

「まぁまぁそう言わずに。芽衣も好きでしょー? こときおにいちゃんの話」

「うぅん」

 芽衣の喉から『うん』とも『ううん』ともつかない声が出る。昨日聞いた話を今日も聞くのは題材関係なく面白味に欠けるのは道理だった。

 優芽と言えば、そんな妹をお構いなしに話しだすわけだが。

 待ち合わせ場所には今回も琴樹が先にいたとか。

 春用に買ったコートがどうとか。整えただけの毛先にも気付いてくれたとか。

 聞き始めれば芽衣も楽しい気分になるが、その大部分は姉からの伝播ではある。

「あ、そう、その時に涼が」

 一度はなぞった振り返りだったはずなのに、芽衣には聞き覚えのない名前が出た。

「りょうちゃん?」

「ん? そうだよ。その涼。りょうちゃん」

「りょうちゃんもいっしょだったの?」

「あれ……言ってなかったっけ」

 優芽は昨晩の記憶を思い出してみて、確かに言っていなかったと思い至った。

「うん、言ってなかったけど、映画観に行ったのは私と琴樹と、それと涼と、もう一人ずつ女子と男子。だから全部で五人で行ったんだよ」

 補足するなら「二人は、芽衣は知らないお友達ね」というわけで、おかげで芽衣は眉を可愛らしく寄せる。

 おねえちゃん、と呼びかける前に優芽が時刻に気付く。

「あ、ほら」

 白木姉妹はそれを楽しみにしていた。

「はじまるよ、ドラマ。見ようねー」

 三月に終わったドラマの、セカンドシーズン。王子様みたいな男の人と、お姫様みたいな女の人と、お姫様の妹がでてくるドラマの続き。

 芽衣にももう、演技ということがわかっている。



 会うことは珍しくないが、偶然に出会うことはあまりなかった。琴樹が病院までの道すがら立ち寄った場所には先客がいた。

「こときおにいちゃん!」

 元気いっぱいに駆け寄ってくる姿は見慣れたものだが、本屋に腰を屈めて受け止めるのははじめてだ。

「こんにちは。買い物ですか?」

 言いつつ琴樹が膝を伸ばせば下から「えぷろん! えぷろん!」と答えは母親より先に聞こえてくる。

「めいね、クッキーつくるんだよ!」

「クッキーかぁ」

「ええ。園の方でね。……特に、変えたりはしないことにしたの。芽衣のやんちゃでもあったわけだしね」

 園と聞いて自分の顔にでるものがあったのだろうと、琴樹は「そうですか」を返しながら反省する。

「ほら芽衣、おにいちゃんにもご用事があるからね。離れなさい」

 長話は出来ないことを、どこか手頃な場所に移動しようとしないことで察してもらえることはありがたく、琴樹は甘えて口には出さなかった。

「琴樹君の方は、本屋かしら?」

「はい。といっても今日は、ただ見て回っただけですけど」

 元より買うつもりがなかったと、言わなければわからない話ではあるがそれはそれとして妙な居心地の悪さはある。リュックでもなんでも持ってくればよかったと思わなくもない。

「すみません、それじゃあの、失礼します。芽衣ちゃんも。ごめんな今日はこの後おにいちゃん、用があるから」

「わかりました! めいもエプロンかう! くまさんのやつがいい~」

「クマかぁ。芽衣ちゃんはクマさん好きだよね」

 可愛らしく「うん!」と頷く頭をついつい撫でてしまう。嫌がるでもなくむしろ「ん~」と手の平に頭を押し付けて嬉しそうにしてくれるから、どうにもやめられないのだ。

 たまに、優芽にもやりそうになってその度に手の行き先を迷っていたりする。そのうちやってしまいかねないと琴樹自身が自分に危惧していることであった。

「余計なお世話とはわかっているんだけれど、普段の生活は、大丈夫? 困った事なんかがあったら遠慮せず言ってね。優芽にでも言ってくれればいいし」

「あぁいえ、大丈夫です。最近はもうすっかり慣れました」

 世間話はそこそこに打ち切って、琴樹は二人と別れた。別れて、なんとなく、すぐに立ち止まって振り返る。

 小さな幼い背中の隣に『母親』の姿がある。

「もし……」

 視線を切って巡るのは、マズったな、という思いだ。

 もしまた『母親』というものを持ち得るとしたら、などという考えは、通院の前にするものじゃなかったと。



 次の日、芽衣は早速のエプロン着用にすこぶる機嫌が良い。

「なーちゃんみてー、めいのこれ、くまさん!」

「わぁ。めーちゃんはかっこいいねー」

「なーちゃんはかわいい!」

「めーちゃんかっこいい!」

「なーちゃんかわいい!」

 三角巾を付け合った大の親友と互いのエプロン姿を褒め合う。褒められて嬉しくて褒めてを繰り返す永久機関の完成だった。

 似たような光景がいくつも出来上がった空間に、先生の声が響く。

「みんなーちゅうもーく! こっち見てー!」

 まーたん先生の言うことをしっかりと聞いて、実践するのはクッキー作り、の生地の成型だけ。九割方混ぜられ済みの生地を一所懸命に捏ねて、芽衣は三角巾のおでこに薄茶の跡をつける。

「ふぅー」

 型にペタペタと生地を押し込みながら、お話しもこねこねと。

「あのね、めいね、どらまみるんだよー」

「どらまさんはおもしろいもんね」

 特に近頃は、四歳にして得たドラマ好き仲間とよくおしゃべりするのだ。

 そんな様子を遠目に窺う巻田先生は今日も、よくわかっていないだろうに「せーやくけっこん」だの「りゃくだつ」だのと楽しそうな二人に苦笑する。

「えーでも、おかあさん言ってたよ。その二人はね、むすばれないんだって」

「むすばれない、ってなにー? ひもむすべないの? めいはむすべるのに?」

「んーん、ちがくってね。えーとね……けっこんできないんだって」

「え?」

 芽衣の内心の衝撃の大きさには流石に気が付くことは叶わず、巻田明は床に落ちたクッキー生地を代わりに拾い上げた。

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