第88話 他人の中に生きるということ

 俗な話ではあるが、琴樹は少々困っていた。

 つまり、立ち去るべきか否か、ということについて。

 非常に迷い悩み、困り果てていた。

 そうこうしているうちに希美は泣くというよりしゃくり上げる様相になっているし、陽も半分ほど地平線に隠れてしまっている。

「うっ、く……なんで、まだ、いるの……ばか……ばかあ、うぅ……う、ぐすっ、うぅううう」

「いや、その……わるい、どうしていいかわからず……」

「ばかばかばかばーーーーーーか」

 琴樹は「は、はは……」などと愛想笑いをしようとした。

 それはもちろん、希美の癪に障る。

「なに笑ってんの? ばかじゃないの? ありえないんだけど? クズ。バカ。ヘタレ。ヤリチン。女の敵。最低野郎。サド、サディスト。変態」

 愛想笑いが引き攣り笑いに遷移する。

「はぁあああ……ちょっと、すっきりした……こっち見んなばかあほ」

 希美は「ほんとデリカシーない!」と怒りも露にベンチに腰掛ける。

「こっち! ねぇ! ばか! こっち! 座って!」

「あ、お……お、おう。わるい。ごめん。今行く。わるい」

 呼ばれて慌てて琴樹は急いで希美の隣、の隣くらいの位置に座った。座ったはいいが、待てど暮らせど希美からの発言が出てこない。

 希美はじっと、じぃっと、琴樹の顔を見つめ続けているのだった。

「あのぉ……篠原さん?」

「黙ってて」

 琴樹は、はいと答えることもしないで言われた通りにした。時折に聞こえる「くそぉ」とか「なんで」とか「ぬぅ」とか、なんらか推察が出来てしまいそうな断片を耳から追い出す気概で、黙って動かずにいた。たぶん、一分かそこいら。体感は数倍か十数倍だったが。

「ね。優芽、知ってるよ。琴樹が優芽のこと、舞さんを重ねて見てるの、知ってる」

「えーと、それは、知ってる。あーいや、優芽が気付いてるだろうってことを、知ってるというか、まぁ、直接そうと言われたわけじゃないけど、バレてんだってのは知ってる、わかってる」

「だろうね、ばーか」

 踵を浮かせてみたり、軽く前屈のようなことをしてみたり、希美は自分の中の何かしらのバランスを取ろうと試みる。意外と、上手くいった。

 足を組んでみて、その上に肘をついて手の平に頬を支える。

 あともう一歩。

「好き」

 と、ただ伝えて、琴樹を困らせられれば、なんとなく、それで丁度いい。それくらいで。

「へへっ、なんも言えないでやんの~」

 ちゃんと笑えているだろうかと希美は不安になる。

 ちゃんと泣き笑いだから琴樹は逃げそうになる目を決して逸らすまいと堪えた。

「篠原には……篠原の気持ちには、実のとこ、なんとなく気付いてた。わかって、た」

「だろうね。……ばかだなぁ」

 十回に一回くらいの、宛先の違う『ばか』は、茶色の地面に朽ちていく。

「わかってて、なのにこういうことになって……でも、わるい、俺は」

「んっ!」

 待って。言うな。やめて。

「今は……今は聞きたくない」

 失ったけれど、嫌いにはなりたくない。二人を嫌いになりたくはないのだ。嫌いになってしまう自分に、なってしまいたくなど、ないから。

 希美が突き出した手に滲む強さは、琴樹を留めさせるのに十二分だった。

「わたしのことも……大事にしてとか、言わないけど……考えてとか……思わないけどっ!」

 思うけどっっっ!!!

 言って……して、欲しいけどっっっ!!!

「わたしが……わたしが琴樹のこと、好き……だったこと、ちょっとだけでいいから、覚えてて……わたしの、こと……」

「忘れねぇよ。……ありがとう」

 琴樹は立ち上がり、今度こそこの場を後にすることを決心した。

 ハンカチやタオルでも差し出すべきなのかもしれないし、夜の訪れにあまり遅くならないようにとでも気を配るべきなのかもしれないし、自分に代わる飲み物一つでも残していくべきなのかもしれないし。

 全部、そうじゃないのかもしれない。

 答え合わせはないから琴樹はなにもせずに離れる。離れていく。

 それが、それすら、希美には優しさのようなものに思えてならず、何回も何回も何回も繰り返した『つもり』が、もう許されないのだということに息さえ止まりそうになる。

 唸るような嗚咽が、可愛さのかけらもない咽ぶ声が、届いていなければいい。



 家に帰ってから、琴樹はまず吐いた。

 便器を抱えて朝のものも昼のものも綯交ぜにぶちまけた。

 こういう時に一人暮らしは助かるが、一人暮らしだからこそ我慢が出来なかったというのも事実ではある。

 一人だから何も我慢する必要がなく、我慢することが出来ない。

 嘔吐後の疲労感はたまらないもので琴樹はしばらく、開け放ったトイレのドアから何もない壁を眺めていた。何も考えていない。考えるという考え自体が湧かなかった。

 ぼーっと、五分ほど無為に時間を過ごしてから、ようやく膝に力を込める。のそのそと洗面所に辿り着き、見慣れ過ぎた青い顔と対面する。ため息なぞ勝手にでるものだ。

 口を濯いで着替えて、なにか食べる気にもなれず自室に横たわる。

 天井を見上げる。


 二十一人の白木優芽が琴樹を迎えていた。


「あぁ……バイト行かねぇと……」

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