第49話 するりするりと
登下校に、優芽はバスを使っている。
とにかく急いで校舎を出て、来たバスに乗ればいい。そんな考えで息を切らせて確認した時刻表と、スマホの表示とを見比べる。
「やった。2分」
2分後には、バスは来る予定になっていた。すぐに家に向かえそうで安堵して、それは2分どころか20秒もしないうちに聞こえた。
「白木さん!」
「は? ……はぁ!? こ、琴樹!? なんで!?」
自転車に乗って現れた琴樹に目を見開く。動揺してまた見たスマホは、当たり前だが下校時刻なんて表示しているわけもなかった。完全に完璧に、授業時間のはずだ。
「なにやってんの!? 授業中だよ!?」
すぐ近くに止まった姿に詰め寄る。なぜここに琴樹が現れたのか。わかる、ということをわかるのを優芽の頭も心も拒絶している。
そんなもの、琴樹には関係がない。
琴樹は自転車に跨ったまま優芽の両肩を掴んだ。一つ言葉を飲み込んで少しだけ上がった息を整えた後、冷静に努めて言う。
「涼から聞いた。芽衣ちゃんがいなくなったって」
「なんっ!? あぁ! 涼のやつ!」
少ない情報からだけでも優芽には理解できた。母から涼へ連絡がいったのだろうこと。それを涼が、琴樹にも教えたのだろうということ。
「琴樹が、琴樹まで来ることないのに!」
「うるせぇ! もう来たんだよ! いいから、俺はどこ探せばいい!」
「っ~~~!!!」
言葉にならない優芽に琴樹が言い募る。
「頼む、どこ探せばいいか教えてくれ……頼む」
「っつ、ぃた」
優芽が肩に走った痛みに僅かに顔をしかめた。ということすら、今の琴樹には目に入らない。
「優芽、なぁ、頼むよ」
声はもう震えているようにさえ響いた。優芽にはもう、拒絶することは出来なかった。
「こう、えんとか。公園とか、のあたり、それと、スーパーの方」
ほとんど勝手に切り替わった頭で思い浮かんだのは、優芽が通らないルートにあって、芽衣が行きそうなところ。園からの距離を考えれば、自宅に次いで可能性が高そうな場所だった。
「公園……わかった。また連絡する!」
琴樹が自転車を思い切り漕ぐ後ろ姿がすぐに角に消えて、優芽は「あぁもう!」と髪をくしゃりと搔きむしった。
〇
バス停前で優芽と話せたのは運が良かった。そう思いながら琴樹はペダルを漕ぐ脚に力を込める。
鞄の回収ついでに廊下ですれ違った元チームメイトに、自転車を借りれたのもよかった。なんでか財布、自転車の鍵を持っていてくれたのも最高にラッキーだ。
その偶然は、自販機に飲み物を買いに行くという実にありきたりな理由に因るのだが、それは琴樹にはわからないしどうでもいいことであった。
飛び出したはいいものの当てなく走ることになるはずが、思いがけず優芽に会えて、行くべき場所を明確にできた。一切の迷いが振り切れた今、琴樹はただペダルを漕ぐ。
ただ一心不乱に漕ぐ。
「芽衣ちゃん」
それと、もう一つ。
言葉にならないまま風に消えた音は、『めい』に少し似ていた。
〇
「よい……しょ」
遊具庫から持ち出したブロックを三つ積み上げた上に立ち、精一杯に背伸びして、足を掛け、そうすると柵を乗り越えられる。
「えへへぇ」
園の外から中を見て、芽衣は自分の考えが合っていた嬉しさに満面の笑みを浮かべて、それでも足りないから三つ四つと足をぱたぱたと交互に踏む。
「めい、やればできる」
その自画自賛は、お姉ちゃんと見たテレビ画面からの引用だった。
「しゅっぱーつ!」
そうして芽衣は歩き出す。園服と帽子を着て、お気に入りのバッグがお供で、目指すは。
「おうちにかっえっおー。おーうちーに、かっえっろー」
このまえ教えてもらったお歌の歌詞と一緒。
〇
「そう、ですか。こんなところから……」
「はい、おそらくは」
自宅を経由して園に着いた優芽は、軽くはない謝罪をそこそこに、事情と今わかっていることの説明を受けていた。
言いたいことはある。言わなければいけないことも。それらは全部後回しだ。
園内の木立の陰、馴染みの先生に連れてこられたそこに遊具が五つ転がっていた。そのうち二つが積まれている。もう一つ、傍のブロックも加えれば、それはたしかに園児、芽衣の身長でも柵の一番上に手が届きそうだった。
そうまでして、行きたいところがあったということだけれど。
思案していると、馴染みどころかあまりによく知る先生が、一人の園児を連れて優芽たちの元へやって来た。
「巻田先生……」
「優芽ちゃん……いえ、優芽さん。この度は本当に申し訳ありません。ですが正式な謝罪はまた後程。今は」
「はい。いいんです、そんなの、今は。それで何か」
優芽は膝をついて、泣きはらした顔の女の子の長い黒髪を撫でてやる。
「この子が?」
「ええ。
「知ってます。芽衣から何度も聞いたので。夏姫ちゃん。どうしたの?」
それから、巻田明の方を向いてもう一度問う。
「この子が、なにか?」
声はどうしても険しくなってしまった。もう何度も、先生たちの言葉を遮るように喋りだすのをやめる気になれない。
「芽衣ちゃんがいなくなったと知った時から随分と泣き出して、ついさっきようやく落ち着いたんです。たぶん、なにか知っているんじゃないかと思うんだけど、私たちにはどうも」
教えてくれない。
ということだろう。
「なーちゃん?」
優芽が芽衣から聞いた呼び方をすると、夏姫はびくりと肩を震わせた。
「私は白木優芽っていうの。芽衣ちゃんのお姉ちゃんなんだ」
「し、し知ってる……」
夏姫も、何度も見たことがあった。ただ、話しかけに行くことはなかったから、優芽からは認識できていなかったのだった。
「そっか。お姉ちゃんね、芽衣を探しに来たんだ。もしなーちゃんが知ってることがあったら、教えて欲しいな」
夏姫がまた肩を震わせ、ちらりと窺うのは巻田先生、それともう一人の先生。それを三人も察し、先生二人は何も言わずその場から去っていった。
優芽は夏姫の両手を取る。
「大丈夫。なーちゃんのせいじゃないよ。また芽衣とお遊びしてあげてね? 芽衣ね、おうちでもなーちゃんのこと羨ましーって言ってたんだよ。ふふ。なーちゃんの髪の毛、綺麗で長くって大好きーって」
「おうちでも?」
「そう。綺麗な髪の毛だね。すごく綺麗。芽衣もね、なーちゃんみたいな髪の毛がいいーってよく言ってるよ」
「……うん」
「……なーちゃん、もし、芽衣のことで知ってることがあるなら、教えてくれるかな……」
じっと見つめ合って、優芽は場違いに、綺麗な瞳だなと思う。髪もそうだが、瞳が大きくて、吸い込まれそうな深さをした子だった。
「め、めいちゃんね……お……おはな……かいにいくって」
夏姫の話を聞き終わってから、芽衣はもう一度その鮮やかな黒を撫でてあげた。
〇
優芽が夏姫から聞いた話を伝えてくれた後、明は口元を抑える手を止めることなど出来なかった。
「そう……そうよ……どうして私……」
心の内から湧いてくる後悔を止めることなど出来なかったのだった。
自分は見ていたではないか。知っていたではないか。
芽衣の押し花がくしゃくしゃになってしまったことを、なぜ自分は、芽衣の脱走と繋げられなかった?
「なんで私……私が」
「巻田先生!」
肩に衝撃を受けて、明は気を取り直す。
「しっかりしてくださいよ! ほら、優芽ちゃんが、お花買ったところには行ってくれますから、私たちは付近のお花屋さんに行きますよ!」
「あ、そ、そうね。そう」
優芽はもう園にはいない。自分たちに一礼すると「芽衣と一緒にお花買った店に行ってみます」と言って走り出したのだ。
それを呼び止めて自転車を貸し出したのも明の隣の先生、明の肩を叩いた先生だった。
「芽衣ちゃんはよく考えて動ける子なんですから! 私より知ってるじゃないですか! 大丈夫ですよ! 絶対!」
現在、園の職員は最低限、よりは多めに園に残しつつ、それ以外は外に出ている。
明もまた、こくりと頷いて踵を返して門に向かう。隣には、頼りになる後輩がいる。
〇
「ごーごー」
芽衣は拾った枝を掲げて歩く。楽しさとちょっぴりの不安。誰にもバレないようにしなくっちゃいけない。
はっと立ち止まった芽衣が急いで街路樹の陰に駆け込む。向かいから自転車の人がやって来るのをやり過ごし、今度は枝を地面に引き摺って歩みを進める。園服と帽子を着て、お気に入りのバッグがお供で、目指すは。
「あ、とりさん」
もうすぐ近く。
「ハ! だめ。だめなんだよー。といさんはおっかけちゃだめっておねえちゃん言ってた」
〇
優芽は真っ直ぐに花屋に向かった。園から真っ直ぐだ。最短の最速で向かって、それが優芽の考える最高のルートだ。
芽衣が考えるものとは違う。
芽衣には芽衣の、辿れる道がある。
〇
ぜぇ、ぜぇ。
と、店員を驚かしてしまったことを「すみません……」というか細い声に謝罪し、優芽は唾を飲んで枯れた喉を少し癒してから言った。
「すみません、ここにめ……三歳、くらいの女の子は来ませんでしたか?」
「え、来てないけど……今日の話?」
「あ、そ、そうです。今日。この一、二時間くらいの間に、来てませんか?」
「いやぁ……わたしずっと番してたけど、来てないなぁ。そこ、通りを通ったりしてるのも見てないし」
「通りを通るぅ」
「ちょっと! お客さんの前!」
「さーせーん」
「はあもう。ごめんなさい。でも、うん、見てないよ。通り……を横切ったかは、ずっと見てたわけでもないから、見てた間にはって話だけど」
「そう、ですか……ありがとうございます」
「ああ、もしかして脱走ですかー? どっか近くの幼稚園だかからガキでも逃げ出したんしょー」
「アズキぃ! おまえ引っ込んでろ!」
「ひえぇえい。こわいこわい」
店員二人のやり取りを、優芽は何の感慨もなく見ていた。考えているのは、来ていないという事実だけ。
ここに来る間にも見かけなかった。
もしかして違ったのかと。花屋に向かったのではないのかと。思ってしまえばまた焦りが湧いてくる。なまじ希望が見えていただけに、焦りがじとりと背筋に絡みつこうとしていた。
「ったく。……ええと、ほんとすみません。あとできつく、そりゃもうこってり絞っておくんで。……でももしかしなくても、合ってますよね? いなくなった子のご家族で?」
「あ、は、はい。その、姉です。……妹が、いなくなってしまって」
「なるほど。わかりました。ケータイの番号置いてってもらっても構いませんか? 差し障りなければ。もしあとでそれっぽい子が来たら連絡しますよ」
「あ、お、お願いします!」
差し出された紙に急いでペンを走らせ、優芽は店の外に出る。
出て、どうしよう、と足が止まってしまう。
「お母さん」
と、スマホを取り出して、駄目だと頭を振る。母は今、状況をほとんど理解していない。説明している時間が惜しいし、そもそも今は電車に乗っているはず。
実際には、早智子はあのあと同僚が呼んでくれていたタクシーに飛び乗っており、優芽にも二度だけ、メッセージと電話をしている。
優芽がバス停まで走る間と、自転車を漕いでいる間。
不運で繋がらなかったパスが優芽の選択肢から消え、代わりに浮かぶのは別の顔。
同じくらい、信じている人の顔。
「琴樹……」
どうなっているか確認する必要もあるからと、優芽は呼び出し慣れた宛先を指になぞった。
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