第50話 幼女は

 芽衣の気分は高揚していた。園を出発して、灰色の建物の間を縫って、おうちの門にタッチして、長く続く塀を小さな枝でなぞって。

 気分はすっかり探検家だ。


 ミッションは二つ。

 お花を買うこと。

 それと、その間に誰にも見つからないこと。


 見つかったらきっと園に連れ戻されてしまう、というのを薄っすらと理解してしまっていたから、人目に付かないように注意して進んでいっていた。

 スマホを耳に当てているスーツの男の人を見かけ、さっと横道に避ける。男の人が通過したら顔を出して、にっこり笑みを浮かべてまた道を歩きだす。

「ばえてないわね」

 井戸端会議の人たちを発見し、一分ほどはどうしようと悩んで、都合良く、あるいは芽衣以外には都合悪く、人だかりが解散したから、そろりそろりと壁に背中をつけるようにして進む。

 そうしておしゃまな影はゆっくりと次の目的地に近づいていた。



 緑地公園を一周して、敷地内で会う人全員、といっても平日昼間のためそう多くはなかったが、に声を掛けて、それが全くの無駄骨に終わった琴樹はスーパーの方へと向かっていた。

 その途中にスマホが鳴ったから、近くのコンビニの駐車場で着信に応じることにした。

 乱れがちの呼吸の合間に「どうした?」と問いかける。

『琴樹……そっちは……』

「いま、スーパー向かってる……公園にはいなかった、見たって人も、いなかった」

『そっか……あのね、私、園で話聞いて、それで、芽衣はお花買いに行くって言ってたらしくって、友達に……それで、だから花屋にいるんじゃないかって……』

 琴樹は少しの間、考えることだけに集中した。視覚は物理的に、聴覚は意識的に閉じてしまって、頭の中に回すものはいま大事なことは何かということだけ。

「花屋っていうのは、いま向かってるのか?」

『……ううん。いま、もう着いたんだけど……いなくって。来てないってっ。園から真っ直ぐ来たのに、途中にもいないし……。ど、どうしよ……どこ行っちゃったんだろっ』

「真っ直ぐ……」

 その間に事故なんかも見かけなかったんだよな、というのを琴樹は辛うじて喉を鳴らすだけで済ませて言葉にはしなかった。

 そんなもの、見てたんなら優芽が気に掛けないはずがない。

 自転車に跨ったままハンドルを数度指で叩く。

「真っ直ぐ……そう、真っ直ぐか。芽衣ちゃん、真っ直ぐ、花屋に向かってない、かもしれないよな」

『まっ……あ、そっ……そうかもっ! そうかもしんない! このまえ、芽衣と来た時は……公園から! 公園から来た! そうだ、芽衣、いつも公園を目印にしてるから! ……あ』

 興奮気味だった優芽の声音、電話越しに感じる気配。それが一息に消えたのを琴樹も感じてしまった。

『公園……いなかった、んだよね……公園には……』

「……さっきはな。もしかしたら入れ違ったかもしれないし……見落とした可能性も、ある。一周回って確認しただけだから。あ、そうだ、わるい、今更なんだけど芽衣ちゃんの着てる服とか、特徴わかるか?」

 それは探す時にも人に訊ねる時にも小さな苦虫を潰したことだった。

『うん……うん。園服着たまんまのはずだから、たぶん黄色の、目立つ服着てる。帽子も被ってるかもだし……あとは……あとは、バッグ、あのクマのピンクのやつ、持ってってるっぽい』

「そうか。さんきゅ。俺は一旦このままスーパー向かう。優芽は、花屋、なんだよな? 今」

『うん』

「そこから逆走で公園行ってみてもいいかもしれない」

『うん、そうだね。そうする』

「スーパーの方は、たぶん人多くなるから……訊いてみて俺も公園に戻るよ。……そこでまた……確認しよう、お互いの状況とか」

『うん。わかった。うん』

「ああ、それじゃ」

 通話を切って、琴樹はまたペダルに足を乗せる。



「ふぅ……ついた!」

 いっぱいの木と草を前にして、芽衣はばんざいする。つられてピンクのクマがぴょんと跳ねた。

 芽衣は浮き立つ心のままに芝を踏みしめ、お気に入りの木の傍に走っていく。

 そうして幹を頼りにお尻を地面につけて表情を緩ませた。

「つかえたねー」

 クマさんも頷いているに違いなかった。


 風はなく、日差しは強い。

 十一月も終わるというのに、今日は珍しく、暖かな……陽気で……。






 とても、とても暖かい。温かい。

 芽衣はふわふわとした気持ちで、ぼーっと、ゆっくりと瞼を上げていく。三分の一くらいまでだけ。

 なんだか体がゆさゆさしている。

 ふわふわの思考と、ゆさゆさの体。

「んふー」

 なんだかとても気持ちよくて芽衣は笑みを吐息にも乗せた。


 やっぱりもうちょっと寝ていよう。


 きもちいーから……。


 声がする。大好きな声だ。

 お姉ちゃんと一緒の、大好きな声。

 お姉ちゃんも大好きな声。


 それもきもちーから、めいはねます……。


 ゆさゆさが強くなった。

 声がはっきりと聞こえる。

 ぽやぽやと思い浮かぶのは、ちょっと眠そうな顔。

 ふにゃふにゃの輪郭。

 ぼやーっとしたまま、人の姿が、芽衣の脳裏に形を成していく。

 白馬には乗っていないけど、カッコいい、芽衣が見つけた、お姉ちゃんの―――。


「……ぃちゃん。芽衣ちゃん」


 芽衣はぱっちりと目を開けて、寝転んだままあたりを見回す。

「おはよう。芽衣ちゃん」

「おあおーごまあます……」

 それから色んなことを思い出す前に、まずは今やりたいことをやるのだ。

「おはよーございます! こときおにいちゃん!」

 自分を覗き込む人に芽衣は思いっきり飛びついた。


 そうして幼女は王子様に見つかった。

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