第9話

 それからというものマリナと会うのはさすがに気まずく、紹介してくれた関口さんの面子を潰してしまったような負い目もあって、連絡をするのも待つのも億劫で、田町の新居においそれとは訪ねて行けず、ということは自ずと麻樹にも会えず、仕事が比較的暇な時期に突入したことも相俟って、その空白を執筆で誤魔化すこともできなくて、まるで政府軍に捕らわれられ、睡眠薬を取り上げられた夜襲を得意とする革命家のように眠れない夜と血を吐くように空疎な昼に浮かんでは消える麻樹の幻影に心奪われると同時にのた打ち回る毎日を過ごしていた。

 こんなにももう、最終段階というくらい通信手段が発達して、人と人の距離が短く、安っぽい現代と言う時代なのに僕は麻樹のメールアドレスすら知らない。

 確か麻樹の携帯はドコモだったはずだから、当たり前だけどアットマークの左側さえわかれば簡単にメッセージが送れるのだが、それは砂漠で一粒の砂金を探し当てる行為に等しい。

 例えば「麻樹」の誕生日である「三月六日」をくっつけて、アットマークの左側を「maki306」乃至は「makimar6th」あたりにしたところでそれは三月六日生まれのマキさんの誰かには繋がるだろうが、それが麻樹である可能性はほとんど零だ。そこに生まれた年の「1986」を付け加えたとしても、どこの誰かもわからない、「麻樹」と生年月日が同じの「マキ」に当てずっぽうで「個人的に会いたいんだ」だなんてメールが流せるわけもないし、第一、麻樹がそんなセンスのないアドレスを使うとは思えない。

「わからない!」

 なまじ、執筆で煮詰まるよりもキツイ。

ヒントになる情報が少なすぎる。

こんなことになるのならば役得でシナリオ教室の個人情報からこっそりメモしておくんだった、と僕は僕の頭の回転の悪さを恨んだ。

そして、自分の作家生命を終了させてまでも愛そうとしている女のことをほとんど何もわかっていないことがひどく間抜けだ、と自嘲してばかりもいられない。

 考えるんだ!感じながら!

 僕は麻樹に関する少ない知識を総動員させて、出会ってから今日までの覚えている限りの記憶をどんな細かいことでも構わないので頭の中で現像し、プリントされた絵図を照合するのだけど、「これは!」というものが見つからない。

 僕はいったい麻樹の何を見てきたのだろう?そして、何に惚れてしまったのだろう?そんなことすらわからない。限りない自己嫌悪で心が曇る。

 じゃぁ、麻樹の好きなものっていったい何だろう?

 ほとんど思いつきで検索条件を絞ると出てくるのは早かった。それも「まさか!」と思えるものがヒットしてくる。

僕は半信半疑で「gipsyqeen_maki」と左側を打ち、

「麻樹さんへ。あれからお変わりはないですか?すっかりご無沙汰して申し訳なかったね。妹さんのことだけど、僕のようなものには勿体なさ過ぎてこれからも何も進展がなさそうだ。折角、紹介してもらったのに申し訳なかった、と関口さんにもお伝えください。ところで今度、個人的に会えないかな?返信待ってます。米川誠人」

チェンマイでやった賭博、「闘魚」はいくら賭場が殺伐としているとは言え、潤沢な旅費の中から掛け金を出すわけだし、すってんてんになってもたかが知れているからまるで緊張感がなかったが、このメールを送信する時は全神経が剥き出しになってしまったみたいに緊張し、それこそ僕の全財産どころかこの身まで賭けたような気分だった。なぜなら、麻樹が受け取るのも緊張だが、同名の曲を歌っている明菜ちゃんファンか、旅好きか、「麻樹」以外の僕の読者の「マキ」が受け取る可能性もあるわけだから。もっとも、高確率なのは「使われていない」ことだが。

言葉ならば「冗談だよ」とそれっぽい顔を貼り付けて修正すればいいが、文章はそうはいかない。売文稼業だからこそ文字の持つ責任の重さと恐ろしさもわかる。

二十分ほど経っただろうか。そんな厭な緊張感の均衡を破ったのは宛て先不明の無慈悲な通知ではなく、他ならぬ返信だった。それもジャンクメールではない。着信音が「gipsyqeen_maki」からの返信用にダウンロードしたあのジャズともロカビリーとも昭和歌謡とも違うが、何ともレトロなメロディラインとファンキーなリズムが心地よい小島麻由美の「結婚相談所」だった。選曲の理由は麻樹の声が小島麻由美にそっくりだからというこれまたシンプルな理由だ。

僕はまるで四六時中パソコンの前に張り付いているニートか暇人のようにすぐに反応して携帯を取り、メールを確認した。

「え?先生?本当に先生なんですか?なぜこのアドレスがおわかりになったんですか?個人的にお会いしたいってどういうことなんでしょうか?クエスチョンだらけで一寸、混乱しています。至急でなくていいのでご返信ください。お願いしますね。 渡辺麻樹」

 奇跡と言うべきか?

 しかも、僕の小説のタイトルから取ったメールアドレス。

 僕は麻樹から提示されたクエスチョンをひとつひとつ白日の下に晒されていく気恥ずかしさよりもそのことに対する嬉しさのほうが優先し、僕は自分の立場と辿るべき運命も忘れて、初めて酒に酩酊した少年のように明らかに他力がもたらす高揚と勢いで「麻樹さんへ……」と返信を打ち始めていた。

 女神に嫉妬され、嫌われることにも思いが及ばないままに、ただ無邪気に。

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