第8話
その日はもうほとんど余計なこととも言える関口さんの計らいで、マリナに僕を送るよう指示し、僕は促されるままにマリナの真っ赤なポルシェに乗せられ、首都高速を芝公園から自宅のある新富町方面に走った。免許を持たない、タクシーもほとんど使わない、ましてや夜間は出歩かない僕は東京の夜景にはてんで不案内だが、ライトアップされた東京タワーを見たときには、ユーミンの「手のひらの中の東京タワー」がフラッシュバックして、何となく華やいだ気分になった。存外、こんな夜景を見せれば麻樹の心を動かせるのかもしれない、などという戯けた考えが冬眠からムクリと起き上がりそうになるのを制止しながら僕はアクセルを吹かすマリナの他愛のない話に生返事を繰り返しているうちに心を見透かされ、雲行きが怪しくなる。
首都高を新富町で降りて、中央区役所の前で信号待ちになった。ここまで来るともう歩いて帰れる。マリナにその旨とお礼を言おうと小さく呼吸をしたところ、それよりも先にセーラムライトを咥えたマリナが紫煙混じりに僕の出鼻を挫いた。
「先生はそんなにお姉ちゃんのことが気になりますか?」
「へ?」
不意の一撃に僕は頬の内側を噛んでしまい、錆びた鉄の味の血が喩えはあまりよくないが、血を侵食し、血を濁らせ、ご丁寧に一つ一つの機能を狂わしてゆく悪性のウィルスのようにじんわりと口の中に広がってゆくのを感じながら、星の動きから宿命を言い当てた魔女の無慈悲な論告求刑に震え上がっていた。
「動揺しましたね?お姉ちゃんだけじゃなくて先生までアタシがかけたカマに引っかかるんですもの。可笑しいったらありゃしない」
嘲笑うマリナの横顔が一瞬、般若に見えた。
「そういえば先生の小説って一貫してますよね。男は激しく、深く、切なく女を愛しているのに結ばれない。結ばれないだけでは許されなくて、そこからさらに転落を余儀なくされる。なんだかかわいそう」
「幸せってことがどういうことなのか?イマイチよくわからないんだよ。結ばれたらそれで一丁上がりなのか?何年後かに娘でも産まれて運動会やお遊戯会にビデオカメラ回して成長を喜ぶことが幸せなのか?僕の小説の世界ではそういう普通の男は生きていけないんだよ。勿論、普通の女もね」
「あら?言いますね」
「だけどね」
「お姉ちゃんは特別ってわけですか?」
「何だって?」
「もう。先生ったらいちいちリアクションが大きいんだから。それに、アタシが先生に訊いているんですよ。『お姉ちゃんは特別なんですか?』って」
――嘘ってどうやってつくんだっけ?
僕は体全体が一万年の空白になってしまったように沈黙するしかなかった。
「いいですよ。無理に答えなくても。先生ったら人間関係に綾をつけるのはお上手なのに肝腎な女性のことが何もわかってらっしゃらないんですから。そんなことじゃ今に行き詰りますよ。現実世界だけじゃなくて作品もね」
そんなことはマリナに言われなくてもわかっている。僕の恋愛小説家としての賞味期限はもうそんなに長くはないことくらい。それに僕はすでに遺書をしたためている男だ。麻樹を愛して全てを失うために。覚悟が違うのだ。もっとも、麻樹のことを言われるとこんなふうに挙動不審になってしまうわけだけど……
「でも、アタシだったらこんなに才能溢れる先生を終わらせたりはしませんよ。先生を誑かすだけのお姉ちゃんとは違ってね。どうです?取引をしませんか?」
「取引?」
全ての王牌を手中に持つマリナが不敵に微笑みながらうなずく。
僕はこの時、初めてマリナの顔を三秒以上、正視した。緑色のカラーコンタクトを入れているなんて今の今まで知らなかった。フランス映画に出てき勝ちなストーリーの鍵を握るクールで不機嫌な美人秘書を想起させる。すると僕のストーリーもマリナの手中なのだろうか。唾を飲み込む音が漏れる。「取引」と言う言葉に僕はすっかり追い詰められてしまっている。
「先生はお姉ちゃんが欲しいんでしょう?だったら英樹さんと別れるようにアタシが工作してさしあげますわ。場合によっては華麗なベッドの技巧を使って篭絡なんてことも」
「な、な、何を言うんだ?君は」
半分は莫迦々々しさ、半分は的を射抜かれた焦燥で僕は悪魔の囁きに嫌悪感をあらわにしたが、マリナはそんなことでは怯まず、退廃と裏切りが鏤められた魅惑の「取引」は一方的に継続される。
「いいこと教えますね。お姉ちゃんの心は揺れ動いているんですよ。だから英樹さんさえいなくなれば……って先生もそう思いません?」
身内を身内とも思わず、ただ純真を弄んでみたいだけのヴァーチャルで子供っぽい感情というにはマリナという悪魔はたじろいでしまうほどにリアルで、具体的で、打算と言うよりも自己愛に基づく押しの強さで僕を「イエス」と言わせようとしてくる。
「で、見返りはと申しますと、お姉ちゃんと一緒になっても絶対にエッチはしないで欲しいんです。その約束を守っていただけるのであればアタシがお二人の仲を取り持ちましょう。簡単でしょ?」
僕はこれまでに僕に盲目になるか不能になるかで麻樹を自由にさせてやろうと夜毎、外傷のないリンチのように僕を精神的に苦しめてきたあの不快極まりないコキタナイじじいのことを思い出し、コンマ五秒でマリナがじじいの化身であることに気付き、これまで曖昧だった態度をハッキリとした。
マリナの声に耳を傾けてはいけない!
「それで?他に言いたいことは?」
「勿論、先生の性的な欲求不満はアタシが責任を持って処理させていただきます。先生に足りないものは自信と色っぽさなんですよ。そんな硬いことおっしゃらないでもっと女の子にアピールなさらないと、本当に飽きられてしまいます。だからアタシが先生の情婦兼スーパーヴァイザーを買って出ようと言うわけです。セックスレスだけどお姉ちゃんは先生のもの。そして先生の文学はアタシの手ほどきによっていよいよ円熟味を帯びて完璧になる」
マリナのひんやりとした掌が僕の膝を愛撫する。
「つまり利害関係は一致してるってことが言いたいわけか?」
「ええ」
「さっき君の文学談義を聴いたときは正直、これほどの才媛が僕の担当かアシになってくれたらこの先、何があっても安泰だ。是非、三顧の礼を尽くし、出版社に紹介するか、うちに高給で迎え入れようと思ったものだが、今しがた絶望したよ。いいからここで降ろしてくれ。いや。降りる!」
「なんですって?」
これ以上ないはずの権謀術数或いは、ハニートラップをいとも容易くこき下ろされたマリナは得意げな表情を急に梯子をはずされ、だんだんと日が暮れ始めて不安がる子供みたいに曇らせて、それに対する助けを求め始めたので僕は「なぜ?」という言葉の冷水を浴びせられる前に理由を答えた。
「三角形を四角形にしたところで何も解決しないんだよ。マリナちゃん」
「それと、僕は麻樹が欲しいんじゃない。失いたいんだ」
「なぜ?」
冷水と言うよりも狙いの定まらないパスのような「なぜ?」に僕は「決めたから」とどこかで誰かにも答えたようににべもなく斬り捨てて、膝に掛かったマリナの手を解き、「ありがとう」も「おやすみ」もなく、車を降りた。
ここまで停車してわずか三分の出来事だった。
と、ここまでのいきさつを三週間もペットホテルに預けたためか、最近、警戒心が強く、以前よりも手数がかかるものの、一旦、それが解けると、打って変わって甘えん坊サンになってしまうココアを膝に抱いて、噛み砕くように語って聴かせた。
相変わらずココアは僕の顔を不思議そうにじっと見詰めて、何か結論に至ると、「フッ」と短い息をし、毛繕いを始める。気ままと言うよりも夫の仕事関連の女々しい愚痴を話半分に聴いたあとに鏡台の前に映る若さを失い始めた顔にパックを塗りたくる風呂上りの古女房のような生活に溶け込んだ素っ気無さに近い。
「だけど、だけどな、ココア。麻樹のことを想うと、心がね、津波にさらわれた流木みたいに干上がってしまったうえに幹と枝葉を失い、傷を負い、見えない血を流しながら、かわいそうなくらいにか細い声で麻樹の名前を呼んでいるのさ。それも昼となく夜となく。乾いた覚悟の裏側はこんなにも陰惨なんだ。お前ならわかってくれるだろう?」
「ナオ」
短く、十六分音符で「ファ」「ミ」と下降したと同時に首に掛かった鈴が鳴る。「わかってますよ」の合図。
「だからと言って悪魔と取引をすればよかっただなんて死んでも思わないさ。据え膳食わなかった僕は男の恥で結構だ。深夜二時の純潔と静けさで麻樹を愛せるんだから後悔はない。激しく燃え上がることがない代わりに、燃え尽きたりもしない。たとえ惨めで報われなくても、麻樹の心に残らなくても僕はその想い出を胸に死ねるのだからね」
初めて「死ぬ」と言う単語が口をついて出た。それもまるで近所のコンビニにペットボトルのお茶を買いに行くくらいに日常と惰性を含んだ、そこに存在するのが当然であるかのような響きで。
故意か無意識かなんてことはここでは問題にならないだろう。
僕は自分が書いたシナリオに忠実なのだ。
それもこの先、しかるべき人の目に留まらない限りは誰にも読まれることのない小説の主人公の名を騙り、成りすまして、寸分違わぬラストシーンへと転がり始めたのだ。
その運命は誰のせいでもないし、誰のせいにもしない。ただただ僕に相応しいからです、と蒼ざめた顔を上げて笑う。
「マコトさん。顔怖いですよ」
ココアが控えめに注意を促すが、自分の発した「死ぬ」という言葉に酔う僕には聴こえていなかった。
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