第10話

 それから何度か他愛のないメールをやり取りするうちに麻樹のほうから「近いうちにどこかでお茶でもしませんか?」という願ってもない、いや心が願っていたに違いない誘いに浮き足立ち、新橋の純喫茶「パーラーキムラヤ」で落ち合うことになった。僕はコーヒーが飲めないが、喫茶店のあのチープな大人の匂いと言うのはなぜか子供の頃から好きだし、新橋だとちょうど、僕の家から麻樹の新居との中間くらいの位置なので最も好都合な場所と言うことになる、というよりも僕はなんだかんだ屁理屈をつけ、たった人差し指一本でも麻樹と繋がっていたいのだ。そこだけはどうしても断絶できない。

 自宅から築地経由で昭和通りを歩く僕はそわそわとし、帰りの道を忘れてしまうほど心ここにあらずで、二三度赤信号で渡ってしまったことも遠くのほうでクラクションや注意を促す声がかすかに聴こえてきてはじめて気付くくらいで、すでに恋愛小説家の残骸すらなく、子宮回帰を思わせるほどまっさらな気分だった。

 僕は烏森口からSL広場に向かいながら「もうすぐ付きます。水槽の前の席で待っています」と麻樹にメールを送り、やや力強く、目の前の駅ビルへと踏み出した。

 地下の食堂街はまだお昼前で閑散としていて、そのせいか「パーラーキムラヤ」はくたびれた外観ながら存在感がある。そして、コーヒーのにおいに混じってトーストやホットケーキの焼ける匂いも混ざり、それはどことなく幸せな朝の匂いを彷彿とさせる。僕は「あとから連れが来ますので」と年配のウェイトレスに告げ、水槽の前の席に座り、メニューを一覧すると生ビールがあったのでそれとサンドイッチを頼み、充満している昭和な空気を思いっきり吸い込み、何となく間男になってしまった気分を味わい、麻樹のことを想いながら、「五月の青空はまだひび割れちゃいない」と自分でもよくわからない独り言をつぶやいた。

 すると、遠くのほうからタイミングを見計らっていたかのようにジャケットのポケットから「結婚相談所」が流れ始める。

 麻樹からだ。

 僕はギャングがコルトを抜くように俊敏な動作でポケットから携帯を取り出すと、頭の上から全く期待はずれの、期待はずれどころか想像すらできなかった声が聴こえた。

「先生。本日はお誘いありがとうございます」

 マリナだ。

なぜだ?なぜマリナがここにいるのだ?僕はマリナではなく、麻樹とここで落ち合い、楽しくお喋りをするはずなのに!

一週間、飲まず食わずで、命からがら砂漠を彷徨い歩いて、やっと見つけたオアシスの水が実は海水だったというくらいの衝撃だ。しかも、僕はそのほとんど毒と変わらない海水を口にしなければ延命できない、という伸るか反るかの状況なのだろう。体が動かないのだ。

「やっぱりお姉ちゃんのことが好きで好きでどうしょうもないんですね。それにお姉ちゃんの声、小島麻由美にそっくりですもんね。先生ったら意地らしい」

 声のする方向を向くと、携帯、携帯と言うよりも僕の命運すら握っているようなマリナがあの見るものを後ずさりさせるようなあの力強い目で薄ら笑いを浮かべている。

「どういうことなんだ?」

「最近、心機一転しようと思いましてメルアドを変えましてね、そしたら間もなく、先生が熱烈なラヴコールを送ってこられたので吃驚しましたよ。アタシ、先生に嫌われたみたいだからもうお会いできないものだと思って意気消沈としていましたから。もっとも、宛て先はお姉ちゃんでしたけどね」

「麻樹になりすましたのか?」

「人聞き悪いことおっしゃらないでください。先生、アタシのことでお姉ちゃんに会えなくなって淋しい思いしてるんじゃないかと心配して慰めてあげてたんじゃありませんか」

 マリナのふてぶてしいまでの自信はやはり、この美貌と教養のストックから来るものなのだろうか?

「じゃぁ、アタシもビール飲んじゃおうかな。ねぇ、こっち、先生と同じやつ追加ね」と僕の許可もなく、対面の席に腰を下ろし、僕の許可もなく、煙草に火をつけ、うまそうに吸い込むとそのメンソールの紫煙を吐き出す。煙いが、店内禁煙ではないので文句を言ったところで、ここにのこのこやって来たことを理由にやり込められるに決まっている。それにマリナに尻尾を掴まれた僕に何も言う資格などない。

「僕は嵌められたってわけか?」

「嵌めるって?何のために?アタシそこまで根性腐っていませんよ。ただ、男の人に迫ってあんなふうにあしらわれたことがなかったものですから、少々、プライドが傷つきましてね。あ、別に先生のこと責めてるわけじゃありませんよ。ってしっかり責めてますね。失礼」

「どうして僕があのアドレスを麻樹のアドレスだって思い込むとわかった?」

「簡単な因数分解です。あれが先生とお姉ちゃんの最大公約数ですもの。あれ以外あり得ません。でも、残念ながら本当のお姉ちゃんのメルアドは先生とは一切、関係がないんですのよ」

 まだ現実を把握しきれていない僕は悪びれもせずに淡々と話すマリナに激しい嫌悪感を抱くも、なぜか全てを暴かれ、吐き出したあとの不可思議な爽快感を感じ、頬杖ついたまま寝落ちしそうになった。

 マリナはそれを見逃さず、「ここが落としどころ」とばかりに畳み掛けてくる。

「もう取引は結構です。アタシだって好きでもない男と寝たくありませんもの」

 好きでもない男と言うのは僕なのか、関口さんなのか、このセンテンスではわかりかねたが、これで僕と麻樹を取り持つ、しかも七面倒くさい条件付でという取引からの開放宣言を意味していた。

 それと同時にマリナのビールが運ばれてきたので軽く、ジョッキを合わせる。

「で、先生。ここからが本題です」

 マリナは灰皿に煙草を揉み消して、一口だけジョッキに口付け、立ち上がり、僕の背後に立ち、僕の背中に腕を回して、耳に唇を付けて、囁くように言った。

「お姉ちゃんなんてやめてアタシにしておきなさい」

僕は背中に何か寒いものを感じながら間抜けに「え?」と振り返った。

そこには女だてらに文学論を打つ知的で饒舌な女ではなく、欲情に肌を桜色に蒸気させた女狐が心も体も麻樹を裏切るように教唆していた。

「アタシ、先生みたいに一途で純情な男の人好きですよ。それに……」

「それに?」

「アタシと付き合えば、堂々とお姉ちゃんに会いにいけるでしょ?先生はお姉ちゃんにもう何も望んでいないんでしょ?寧ろ、お姉ちゃんに全ての希望の灯を吹き消して欲しいんでしょ?だとしたらこんな好条件ないと思いますけど、如何です?勿論、無理強いはいたしませんけど」

 紅の甘い香りと耳に触れたマリナの舌のくすぐったい感覚とその言葉の持つ甘い同情に僕は本当に堕ちて、麻樹に心と体を裏切ってしまおうか、と思った。そうすれば公私、すなわち仕事と色恋の悩みが同時に解決するばかりか僕はまた晴れて、ただの作家、シナリオ教室の講師として麻樹に会いに行けるのだ。それならばマリナに感謝し、マリナと僕自身が描いた作品のストーリーに従って生きよう。それも台本どおりに。そして静かに、激しく麻樹を失う悲しみを感じよう、と。

「ふふ。やっと心が動いたみたいですね」

 悔しいが、そういうことだ。崩壊へと突っ走るためにはそうするしかないようだ。

「利害関係が一致したところで、お店変えません?銀座にお部屋取ってありますので、そこで楽しみましょ。お姉ちゃんのことなんか忘れて」

 随分手回しがいい。

 それがはじめから僕が引鉄を引くように虎視眈々と細部にわたるまで仕組まれていたことだとしても、もうそれをひっくり返すだけの力量は僕にはなかった。

 そして、なぜかこのとき「太陽の報復」と言う言葉がほとんど何の意味も成さず、疲れ果てた僕の耳に幻聴として響いていた。

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