第5話

 それから二三日後、僕は関口さんにお褒め頂いた例の小説「真冬に咲く花」を脱稿し、ココアと「一人と一匹」で打ち上げをやっていた。

 ココアが好きな築地「鳥藤」のから揚げとお砂糖入りのタイの豆乳、僕は横浜中華街関羽廟の横にある台湾料理店「萬和楼」でテイクアウトした腸詰と大根もちと中華大通り「同發」のチャーシューとプレミアムモルツで地味に祝杯を挙げる。ほとんど儀式のようなものだ。脱稿を祝してお互い好きなものを飲み食いして、また素晴らしい次回作を仕上げて開放感を伴う、飲食の喜びを分かち合おうな、という実に可愛らしい儀式だ。

 僕は至福と少しの酔いに目を細め、なぜご馳走なのか?を何となく理解し、うれしそうに鶏肉にかぶりつくココアを見ている。

 いいものだ。現状はどうであれいいものだ。

 このごろでは人に女の子に対するスタンスの違いで肉食と草食に分かれるように、このように猫にも食べ物の好みで魚食派と雑食派に分かれるようだが、そんなくだらない色分けに汚されることなく、健やかに育つわが子を見るようだ。僕のような人間が「救いはある」と感じるのはまさにそういう時なのだ。もっとも、そういうときしかない、と言う言い方もできるが…… 

 人がデザートのアイスクリームの最後のひと匙を名残惜しそうに舐めるようにココアは豆乳の最後の一口を舌でしつこいくらいに転がしていた。こういう「彼は動物ではなく人間みたいだ。いや、正しくは自分が猫だなんて思っていないのではないか」と時々、感じさせるのが猫を飼うことの面白みのひとつである。

 咀嚼を終えたココアはピョンとテーブルの上に飛び移り、「さぁ、マコトさん。お話の続きまだあるんでしょ?ボクに聴かせてください」とでも言いたげにじっと僕の顔を見る。本来猫と言うのは地上よりもより高い場所にいることが優勢と見做す習性があるので、普段ならば食器棚の上にでも登るのが常なのに、同じ目線になろうとするところがココア一流の誠意、誠意でなければ頭のよさなのだろう。

「そうか。まだこの話は終わってなかったな」

 僕は含蓄なく少し笑って快楽と苦痛、二対八くらいを伴う話を継続した。

 

 関口さんに貰った名刺……

 これで僕が連絡を取ったか?否か?

 残念ながらそれを破り捨てることも本心を欺き、痩せ我慢することも僕にはできなかった。だって麻樹と繋がっていられる唯一無二の方法を提供する魔法のカードだからね。

 それに、そこにアクセスすれば、窓口は関口さんかもしれないけど、その窓越しに麻樹が確実にいるのさ。深窓の令嬢ってわけだ。それで、十日ほど迷った挙句に電話したら関口さんがえらく喜んでくれて、「もう先生、社交辞令かと思いましたよ。本当にご連絡いただけるなんて!」だなんて感激を隠そうともしないので、控え目に「そろそろお邪魔させていただきたいと思いまして、そのぅ……」と切り出すと更に喜んでくれて、僕の訪問と日時はとんとん拍子に決定した。何だか僕は麻樹ではなく、関口さんに気に入られてしまったみたいだ。

 電話で話したとおり、日曜日の午後、関口さんはJR田町駅東口のロータリーまで愛車のシビックで迎えにきてくれていて、僕を見つけると、もっと喜ばせてあげたくなるような笑顔を抱えて「いやぁ、先生。うれしいなぁ、本当にいい日だ」なんて言うものだから麻樹との一切はなかったことにして、親友になってもいいとさえ思ってしまう。

 車がなぎさ通りを直進して、旧海岸通りから渚橋にかかるところで「先生。あそこが新居ですよ」と左利きの関口さんが指差した橋向こうに聳え立つ二十数階建てのマンションはまだ築年数も浅く、ため息が出るほどモダンな外観で、海に向いた窓からは薄い緑色の微風が吹き込んでくるようで、若夫婦の愛の巣としてはこれ以上のものは恐れ多くて求められないほどだ。

 エレヴェーターの中でここが随分と立派なお住まいであることを正直に感じたままに関口さんに伝えると、「実はですね、ここは親父のセカンドハウス兼、麻雀室を又貸ししてもらっているんですよ。だから寝室に電動卓があるんですよ。新婚の寝室なのにですよ。変でしょ?あはは」と屈託がないし、厭味にも聴こえないが、寝室を想像するとあまり可愛げのない嫉妬の念がどこからともなく沸いてくる。

 十九階で扉が開き、角部屋のドアの向こうには嗅覚には麻樹のすずらんの体臭が視覚には麻樹がもうすっかり関口家の若奥様としての位置や振る舞いが板に付いている様子で、誰にでも似合うわけではない赤地のタータンチェックのエプロンが今すぐに抱擁したくなるほどに、ただでさえ何も付け加える必要のない麻樹をコーディネイトし、また僕をよからぬ妄想の世界へと引きずり込もうとするのだが、現実って奴はそんな時間を与えてくれるほど寛容ではない。「あら。先生。お待ちしてましたよ。どうぞ」と僕のほうに向けられた笑顔はたった数秒で関口さんへと返ってゆき、やはり、僕はただの訪問者であることに気付かされるのだ。

――いったい僕は何を期待していたんだろう?

だなんて漫画みたいに肩の上で落胆する僕も落胆する僕を嗤う僕も傷を負っていて、いたたまれなくなるが、僕は麻樹に尊敬されていて、正式に拒絶されたわけじゃないって言う事実だけが羽蟻に食われた頼りないラワン材の杖になって、すっかり痩せ細りながらも何とか倒れそうな僕を支えている。

 ふ、と僕をリビングに案内する麻樹の項に目が行く。

色っぽさややらしさはないが、まだ女になる裁きを受ける前の少女の瑞々しさがある。その視線に気付かれたくなくて僕は「知ってました?女性の項に性的な魅力を感じるのは日本人だけなんですって」と本当にどうでもいい雑学を披露して、生ぐさい感情をなきものにして誤魔化した。

「俺は足を見ちゃいますけどね」と関口さんが涼しげに笑うと、それを受けて麻樹もはにかみ笑いをする。僕の書くドロドロとした情念が渦巻く文章なんかと違って、この二人にかかると少しエロティックな話でも爽やかな春風になって吹き抜けてゆく感じだ。

デヴュー作を書くのに取材で行ったポルトガルで買ったポルトーワインのルビーを手土産に渡すと、関口さんが謝意を述べながら「実はね、先生。随分前から俺たち、ハネムーンはポルトガルに行こうって決めてあるんですよ。ほら、先生の小説にも出てきますでしょ?ユーラシアの果てロカ岬に夕闇に薄紫に輝くサンジョルジェ城。実にロマンティックで旅情をかき立てられますよ」と少年みたいに目を輝かせるので僕は「では、今日は文学談義はやめにしてポルトガルのお話をしましょうか」と提案し、水屋からワイングラスを三つ持ってきた麻樹に目礼した。

 その日の僕は肝腎要な麻樹のことが眼に入らないくらいに饒舌だった。

 麻樹手作りのクロケタスやチョリソといったタパスや自慢のマグロのカルパッチョをつまみ、僕が持参したポルトーワインを飲みながら、ポルトガルでの取材秘話とか、ヒロインの寿子にはモデルがいることとか、少年時代に読んだ沢木耕太郎の『深夜特急』が僕をポルトガルへと駆り立てたことや、それを踏まえて、今後はこういう作品を書き、文壇においてこういった役割を果たしていきたい、などと時折、関口さんや麻樹の素朴で真摯な質問に答えながら時間を忘れて熱っぽく語り、僕はそんな僕自身にも酔いしれていた。

「今日は贅沢な時間だよなぁ。こうやって先生を独占できるなんてな」

「まぁ、こんな話、私的すぎてエッセイにも書いていませんがね。あれ?一寸、今日は喋り過ぎたかも」

「そんなことありませんよ。麻樹もそう思うだろ?」

「ええ。なんだか先生がそんな情熱的で志の高い人だなんて、普段のクールで物静かな先生からは想像できなくて、私、そういう男性って素敵だと思いますよ」

「ですって。夫であるこの俺を差し置いて、何言ってんだかなぁ」

 そう拗ねた表情をしつつも関口さんが「フリ」であることは明白であって、そこには麻樹への絶対的な愛情と信頼が読み取れて、却って、僕を惨めな思いにさせるものの、麻樹の「素敵」と言う言葉を中年の愛撫のように左脳で何度も撫で回し、接吻をし、右脳でその言葉を麻樹に姿を置き変えて同じことをしているのだが、リアルに映像化されると卑猥過ぎて、全てを打ち消してすぐに我に帰る。

「でも、これだけ才能に溢れて、魅力的な人が恋人の一人もいないっていうのは意外だよなぁ。まさか女性より男性のほうがお好きだとか?よくわかんないけど作家の男色ってありがちじゃないですか?」

 関口さんが悪戯っぽく笑う。麻樹の「素敵」発言に些少ながら嫉妬していたようだ。

「違いますよぉ!」

 僕は往年の竹中直人の一芸である「笑いながら怒る人」のように表情は穏やかに語気はきつめにそれを否定した。

「それは冗談としても、なんかね、俺たちばっかり幸せで先生に申し訳ないと思ってるんですよ。麻樹。誰か先生に紹介してやってくれよ。いるだろ?美人で器量もいいのに恋人のいない子の一人や二人がさ」

「あら?英樹さんのほうが女性のお友達は多いんじゃなくって?」

「これだもん。君の唯一、悪いところはその皮肉だよ。可愛いから許されてるんだってことにいい加減、気付かないとダメだぞ」

 どことなく遠慮がちな先生と生徒ではなく、僕は麻樹とまさにそんな関係になりたいのだ。こんなふうに軽口が叩き合える正しい恋人同士の関係に。

 だけど、それが叶わないから僕は苦しいのだ。女の腐ったのみたいにウジウジと麻樹への想いを募らせているのだ。また、本当についでながら、麻樹の作る料理はどれも繊細な味わいだ。だいたいにおいて料理の腕前とそっちの技量はイコールなのでまたもやそんなことを邪推し、切なくなる。

「そうだ。麻理奈ちゃん!」

「あ!私も今それを考えてました」

「ほら、上智の国文科出てるから麻理奈ちゃんだったら文学云々の話も出来るし、絶対に先生と釣り合うと思うんだ。麻樹。先生に紹介してさしあげろよ。どうです?先生」

「え?それ誰なんです?」

 この場合、嘘でも、いや、嘘ではなく真剣に麻樹への操を貫かなければならないのに僕はこの若夫婦が憐れんで麻樹の身代わりとして僕にあてがおうとする未知なるインテリジェンスな女性に不様にも興味を示してしまった。不覚と言うか未熟と言うか、とにかくこの場はお気持ちだけを有難く頂戴して、それはそれとして終わりにするべきことなのだ。

「私の妹なんです」

「妹?」

「字は違うんですけどね、渡辺麻理奈だなんてなんか冗談みたいな名前でしょ?」

「ああ。名倉の奥さんの」

 白々しいくらいに台湾好きをアピールする元アイドルとタイ人顔のその夫が脳裡を過ぎり、僕は一寸、口の中が苦くなったが、そんなことで気分を害するのも大人気ないので、素っ気無くも反応してしまった。

「あ、先生。もしかして興味津々って感じですか。ねぇ麻樹。この話進めてもいいよな?」

「麻理奈がなんて言うかわかりませんけど、お相手が先生だったら私も賛成です」

「そういうわけで先生。これは先生にとって最高のご縁になることを保障しますよ。取りあえず、会うだけ会ってみてくださいよ。少しばかり喋りが過ぎますがね、本当にいい子なんですから」

 このとき僕はひどく不機嫌だったと思う。二人して僕を麻樹から遠ざけ、引き裂こうとしているわけだから。「やめてくれ!」と喚き散らすべき場面だった。なぜか?説明は出来ないけど、それでも僕は拒絶をしなかった。苦々しく笑っていた。

 僕の本当の心など一生、わからずに生きていくであろう無邪気な麻樹の笑顔と滓の溜まった最後の一口のワインがやけに苦かった。それはまるで今生の別れを意味する接吻のように苦かった。

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