第6話

 別に麻樹へのもう降りるしかないとわかりきっている切なる想いやまだ見ぬ麻樹の妹や東京から逃れるわけではないが、それから三日後、僕は永遠ではないとは言え、僕と離れ、環境が変わってしまうことを不安がるココアを「連れて行けないんだ。許せ」と成田のペットホテルに預けて、タイのチェンマイへと次回作の取材に出かけた。

 僕が書こうとしている次回作というのは皮肉にも婚約者のいる女性との大失恋の痛手から仕事も地位も家もかなぐり捨て、チェンマイに渡り、ただただ彼女を失った残酷な現実を忘れるために酒、淫売、賭博、麻薬という自暴自棄の日々の中でフォンと言う名の微笑みの美しい性根の優しい現地人の女に恋をし、流れのままにやがて結ばれ、女は彼の子を孕み、その婚姻は誰からも祝福され、ささやかな幸せを手に入れたかのように見えたその絶頂の時に同胞を食い物にする悪質な長期滞在の日本人による保険金詐欺事件に巻き込まれて殺されてしまう小説家の話だ。しかも、彼に多額の保険金を賭けたのも、不良在住日本人を唆したのも、殺し屋を手引きしたのも彼が愛したその女だったという夢も希望もないお話だ。

 そういう引き裂かれ、ドロドロとした愛憎渦巻く、少々、ねじくれた純愛小説は僕の最も得意としているところなので、この作品はストーリーをひらめいた時点でものにしたものも同然だと高を括っていた。

 ところが、いざ現地で取材を進めているとそんなお決まりの転落話や金の為に豹変するタイ人女性の実態なんかを知るうちにだんだんと耐性がつき、僕が書こうとしている作品は芸術性や切実なメッセージ性を失い、それがどこにでもあるようなひどく陳腐で安っぽい痴話に思えてきて、企画と構想は全人格を否定されたみたいに鼻白んで頓挫し、取材で飛び回る毎日に自由を奪われることによって忘却することが出来ていた麻樹のことがまた僕の心の隙に音もなく現れ、僕は再び麻樹によって思考や行動の自由を奪われることになるのだ。

 そうなるともう取材などはどうでもよく、寝起きからエアコンの効いた部屋でメコンウヰスキーを喇叭飲みしては現実と麻樹のことでがんじがらめになったふがいない自分と遅すぎた恋の季節にグダを巻き、惰眠を貪り、夜な夜な、その虚しさを詰め込むように「北門」で焼肉とビールを養豚が形振り構わず餌を喰らうように醜く暴飲暴食し、腹が満たされると今度は麻樹を抱くことの出来ない、何千マイルもひたすら痩せた土地が拡がっているような性的な渇きを「サユリ」のワンショット千バーツの娼婦を抱いて癒す。まるで開高健の『夏の闇』からヴェトナム戦争への従軍記がこっそり抜け落ちたようなていたらくだ。

勿論、麻樹ではない女を抱いたところで海水を飲むように余計に飢え、渇き、癒されることなんてない。

勿論、快楽と堕落を貪ると同時に心の中で麻樹に許しを請いながら……

そんな不毛な熱帯の夜の果てで「ふ」と何もかもを失って異国で殺害されるその小説家とは僕のことなのではないかと思い、背中に戦慄が走る。すると僕はそここそ自分が辿り着くべき終着駅或いは、なるべきものではないかと思えてきた。

「そうだ。失うんだ全てを。失うために麻樹を愛するんだ」

 僕は悟った。

 そして、この救いのない悲恋の死に場所を見つけた僕は麻樹へ取るべき態度がハッキリしただけではなく、ここからただただ崩壊へと向かって歩き出したのだ。もう迷いはしない。悲しくないと言えば嘘になるが、僕がその物語の中で純愛を成就させられず、裏切られ、裸にされて塵のように遺棄された主人公の小説家と同じ目に遭うのだ。いや、その小説家そのものになってしまうのだ!

 そんな激しくも悲愴な覚悟に僕は突き動かされ、当初の勝算も情熱も薄れて、もう流産するしかないと諦めていたその小説を完成させるべく、こっちに来てからというものほとんど触っていなかったノートパソコンに電源を入れ、ワードを立ちあげ、キーに指を滑らせ、午前二時の闇にブラインドタッチのタップダンスを響かせる。純潔で詩的な命が宿っている。そこには印税のパーセンテージをはじき出すようなあざとい計算も存在しないし、この作品を書くことで麻樹の中に内なる確かな種をまこうなどという戯けた打算も存在しない。ただ僕に相応しい未来の預言書を書いているのだ。

 雲間から暖かな陽光が射し、微風に乗って小説の神様が舞い降りてきた。

 しかし、その気配の妖しさに顔を上げると彼の女性は小説の神様ではなく、鳳凰の刺繍が眩しい紅いシルクの中国服を着た丸い愛らしい狸顔の中年女が憐れむような目で僕を見ている。僕はこの女を何度も見たことがある。子供の頃、テレビの歌番組で何度も。しかも、この人の歌はこの人の声ではなく、この人の大ファンであった母の声で覚えている。僕は記憶の糸を手繰り寄せるようにただでさえフル回転している左脳をさらに高速化させたところ、ほどなく回答は出た。

 鄧麗君!

すなわちテレサテンなのだ!

 すでに鬼籍に入っているアジアの歌姫がなぜこんなところに?

 僕の疑問はクリアになるどころか更に混沌とする。

「マコトサン。アナタ、眞是混蛋。怎麼想不開那個女人?自作自受自憐的恋愛……有什麼開心?」

「へ?」

 僕はテレサのまくし立てるような咄嗟の早口の中国語に対応しきれず、もっとも、そのような知識ははなからなく、麗人とすれ違った時のようにそれが現実かどうかも把握できないままに言葉を失うしかなかった。

「我是説!愛那個女人明明是個錯!快点醒過来!」

「は?」

「マコトサン。別想這様!」

「悪いけど日本語で言ってくれませんか?」

 すると僕の言葉を解したのだろう。大きなため息をひとつついてテレサはたどたどしくも優しい響きのする日本語に切り替えて話し始めた。

「アナタアノオンナアイスルノコトダメデス」

「それって麻樹のことを言っている?」

「ナゼフコウニナリタイノデスカ?ヒトノオクサンホシガッテハダメデショ?」

「欲しがっちゃいないさ。僕は麻樹を失うために麻樹を愛するのさ。それに不幸になりたいんじゃない。なるんだ」

「アナタフコウニナリタイ。ワタシワカラナイ」

「決めたから」

 苛立ちが読み取れるテレサの声にかぶさるように僕はそう切り捨てると、華やかな亡霊のお節介に怯むことなく、小説の執筆へと戻った。おそらく、まだ僕のことを見捨てていない天の神様が僕の信仰と覚悟を試したのだろう。ありがたいが、僕はやると決めたらもう慈愛にすがることはしないんだ。たとえ行き着く先が一万年経っても抜け出すことの出来ない一条の光も射さない地獄だったとしても。

 そう思うと後には引けないが、すがすがしい。しかも僕は今、その脚本を自分で書いているのだ。血を流すために!

「カワイソウニ」

 それだけ言うとテレサは音もなく姿を消した。

 真夏の夜のナントカと言うには憐れまれた僕には非現実に腸から凍り付いていく感覚ではなく、泣くだけ泣いたあとに乾いた涙の痕を吹き抜けてゆく夕凪の生暖かさに近いものを感じた。

 本当に余談だが、僕がチェンマイで宿泊していたホテルというのが、テレサがある日突然に最期の時を迎えたメイピンホテルだと言うことを知ったのは帰国後のことだったが、僕の目の前に現れたテレサは十六年経った今でも成仏できていないのではなく、まだあの時点ではたった一ミリでも浮ついていた僕の心が呼び寄せた幻影だと思っている。

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