第4話
しかしね、絶頂はすぐに、それも数分後に絶望に変わってしまった。
僕と麻樹は暗黙の了解があるみたいに手をつないだまま三省堂書店まで歩いたんだ。傍から観たら大学生のカップルにしか見えなかったと思う。古本屋を巡ったあとで「さぼうる」でお茶する大学生のカップルにね。まさかそこで交わした会話が僕にとって麻樹と過ごす最後の自由で幸福な時間になるなんて思いもしなかった。
麻樹はシナリオ教室に通う前から僕の小説のファンだったって言ってくれた。
特にデヴュー作『ジプシークイーン』に出てくるヒロイン石原寿子のフランクで、明朗闊達で、多芸多才なところに憧れているんだって。「だって私は凡庸な女だから」だなんて切ないことを言うものだから僕は「作り話の中のことですから。ね、麻樹さん」と現に僕は実在しないヒロインよりも目の前のリアリティが大事であって、心はそれにすっかり奪われているんだということを暗に伝えようとすると、「先生ってお優しいんですね」と笑ってくれた。田口君に心を言い当てられ、そしてその心を麻樹に囚われてしまった僕の曝け出せば、後ずさりしてしまうほどに麻樹のことしか溢れ出してこない内面のことなど知らないがゆえに蟠りなく。
それで、三省堂書店の前に着いて、僕は忘れないうちに今月号の文藝春秋を購入しておこうと思って、「麻樹さんも寄って行きませんか?」と誘おうとして、麻樹のその白粉ではなく、白桃のすっきりとした甘い匂いが漂ってくる横顔を盗み見ようとしたところ、麻樹は歩道に沿って横付けされている一台の海老茶色のアウディに気付き、僕との短い逢瀬がリハーサルであったかのようにこれ実に嬉しそうに表情に陽光と歓喜と永遠を湛え、夢は醒めたとばかりにつないでいた手を解き、「英樹さん」と手を振った。
フロントガラスがゆっくりと開いて、三秒くらいの間を置いて、バンドマンかサーファーなのか、長い黒髪をちょん髷みたいにゴムで後ろにまとめた目元の涼しい眉目秀麗な青年が車窓から顔を出して「もうそろそろかと思ってそのへん流してたんだ。一寸、早かったかな」と低くて張りのある声で麻樹に語りかけた。それは麻樹を所有していることを主張するような父権的で絶対的な何かを感じさせ、僕の心と表情は落日のように傾き、翳りを見せはじめる。
「先生に送って頂いていました。このへんの地理は私、あまり詳しくないので。ところで結納の日取りの件、お父様は何て?」
「ああ。親父の奴、平日で構わんとさ。口じゃ万事、麻樹さんの都合に合わせるよなんて言ってはいるけど、休日は泊りがけで伊東か逗子か館山あたりで釣り三昧愉しみたいんだろうから却って、好都合らしいや」
「まぁ!」
恋に落ちるのは簡単だが、そのチキンレースから脱落するのはもっと簡単だった。
麻樹の「結納」という言葉は重いファイルを開くのにハードディスクが混乱し、フリーズしてしまったノートパソコンを強制終了させるように、この青年が麻樹の兄であることをさもしくも期待していた僕の最後の希望は心に射した陽光を遮断する暗雲に変え、崩壊した。
最早、僕にできることは回れ右して来た道を引き返すことだけだったが、それができないからこそ心であり、それができるくらいなら有史以来、繰り返されてきた幾千もの悲恋は生まれず、誰もが程度の深い浅いはあれど、失恋の傷や痛みと馴れ合いながら生きていけているはずなのだ。
「先生、先生。どうしました?」
暗転した舞台で盲人のように光か杖を求めて手探りしている僕を現実に連れ戻す麻樹の声は邪心や偽りがないだけに余計に残酷に響く。そして、誰が悪いわけでもないだけに余計に恨めしく思える。
「いえ。何も。僕、変でしたか?」
「ええ。口を開けたまま、呆けたように遠くのほうを見詰めていましたから」
「あ、『田口君はどうしたかな?』と思って、失礼」
「どうもしてないでしょう。あんな無礼な人。先生は優しすぎますよ」
その少し乱れた語気は僕が辱めを受けたことにまだ義憤しているのか、それとも僕が優しすぎることに苛立ちを感じているのかは分かりかねたが、前者だとしたら僕はまだ絶望を感じるのは早すぎるのではないか、と思う楽観的なもう一人の自分の存在と思想があまりにも間抜けに思い、自嘲すると、青年が「おや?」と言う顔をして僕に関心を示した。
「麻樹。こちらはもしや作家の……」
「ハイ。米川誠人先生です」
「これはこれは。内輪の話ばかりで大変、失礼いたしました!俺たちこう見えても結構、小説とか読む方なんですけど、夫婦で、と言っても法律的にはまだ夫婦ではないんですけど、先生のファンでして、あの今、連載中の人妻と少年の恋の話、あれはタイトル何でしたっけ?」
「『真冬に咲く花』」
「そう!あれは素晴らしい!苦悩と恋心の間で揺れる少年の心理描写がリアルすぎて、いつもドキドキしながら読ませていただいていますよ。やっぱりプロの作家さんの筆致は俺たち素人には真似できませんわ。当たり前ですけどね、あはは」
「それはどうも」
本来なら恋敵であり、麻樹と一緒にいるところなど見られた日には二三発ブン殴られても文句を言えないはずの青年が見掛け倒しではなく、意外にも人柄がよく、好意的で、しかもかなり真面目な読者であることに僕は大いに拍子抜けしていた。
「でも、やっぱりあれはハッピーエンドにはならないんですよね?」
「ええ、まぁ。他人のものを、ましてや家庭を奪うと言うことは絶対に許されませんからね。例え小説の中と雖も」
「倫理観もしっかりとしていらっしゃる。作家ってもっとそのへんのところゆるいのかと思ってましたよ。ほら、谷崎とか藤村とか太宰とかって酷いでしょ?」
「さっきも酔っ払った学友にさんざん失礼なこと言われたのに、先生ったらちっとも声を荒げずに心を込めて諭していらしたんですよね」
「へぇ。お若いのになかなかできることじゃありませんよ。俺、先生のこと尊敬しちゃうなぁ。ねぇ、麻樹もそう思うだろ?」
僕はこの時、重大な失言をしてしまった。
「他人のものを、ましてや家庭を奪うなんて絶対に許されない」。
つまり、僕は「麻樹には指一本触れませんよ。不埒な妄想すらしませんよ」と早々の敗北宣言をしたのと同じことなのだ。敵前逃亡。帝国陸軍ならば死罪。もうこの時点でピリオドは打たれたはずだったし、その向こうに行こうと言う気などまるでなかった。
すると麻樹は、返事は保留にし、何かを思い出したように細い左の手首に巻いたカルチエの長方形の腕時計に視線を落とすと、「あ」と小さく驚いて、車中の青年を促した。
「英樹さん。そろそろ仲人をしてくださる笠教授ご夫妻のところにご挨拶に行く時間じゃ」
「いけない。先生とすっかり話し込んでしまったよ。でも、名残惜しいよなぁ。折角、あの米川誠人先生とお近づきになれたって言うのになぁ。麻樹。早く乗って」
麻樹は「先生。半年間、有益な講義をありがとうございました。私も何か書いてみようと言う気になりました」と深々とお辞儀をするので、「是非、読ませてください。麻樹さんなら明るいラヴストーリーが書けると思います。もし煮詰まったら僕に相談してください。何かヒントを与えてあげられるかもしれません」と少し思わせぶりなエールを送り、僕はその背中を見送った。
「じゃぁ、先生、俺の名刺をお渡ししときます。俺も先生の文学の話を拝聴したいですからね。実はうちの新居の一室はサロンとして開放しようかって麻樹とも相談していたところだったんですよ」
僕が名刺を受け取ると、「あ、その時は食事もしていってくださいね。麻樹の作るマグロのカルパッチョは絶品なんですよ。では」と悩ましい一言を付け足すと、青年はサイドをおろし、ステアリングを切り、ゆっくりとアクセルを踏んだ。助手席の麻樹は何か言い忘れた事があるみたいに僕のほうを見てはその行き場のない言霊を恨めしげに反芻しているように見えた。もっとも、それは僕の思い過ごしかもしれないが。
僕は涙で遠ざかってゆくテールランプが滲んで見えた。
もう説明は要らないね。
その青年とは関口さんのことさ。
麻樹は地獄を知らないまま、僕は天国を失ったまま……
ここまで話し終えると、ココアは少し遠慮がちな欠伸をひとつして、ぐるりと首を回して辺りを一周見回し、窓の外に燕を見つけたらしく、「今日はこれまで」とばかりに俊敏に窓辺に駆けてゆき、発情したようにビブラートを効かせた長めの鳴き声を燕に向かって発した。燕はすぐに飛んでいってしまったので、ココアは「フッ」と嘆息をすると、所在なさそうにお気に入りのソファの上で丸くなった。
僕は麻樹のことを馴れ初めから一つ一つ整理しながら話したつもりだったが、それはまるで「どこで道を間違えたのか」或いは、「如何に僕が報われない愛に身を落としているか」を自虐したようでもあり、流れず、蟠っていた一切を吐いて幾分、すっきりしたのも確かだが、傷口に塩を塗り込んだのも確かだった。
名刺ホルダーから関口さんの名刺を取り出し、もう何度、黙念したかしれない果報者のプロフィールをまた目で繰り返す。
なぜ僕はいつも手遅れでなければならないのか?
僕はいつも……
緩慢な睡魔がそんな自問自答を水に落とした墨のように文字ごと濁らせ、散らしてゆく。
寸分違わぬ虚しい「夢」へと……
だが、もう「夢」については何も語るまい。
それは抉れて、血や膿も活き活きと脈を打っているみたいに凝固せず、癒える気配すらない傷跡を見せて「痛い」と言うようなものだから。
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