第3話

 そもそも麻樹と出会う以前の僕というのは決して闊達で、饒舌で、剽軽な人間だったというわけではなかった代わりに、作家特有の妄想癖はあっても、来歴やヴィジュアルといった「看板」は中の上の上と悪くはないし、締め切り日の真夜中の三時頃に「上等な肉質トリプルAのテンダロインステーキとロブスターとロマネコンテの赤とデザートにシナモンケーキを今すぐご馳走してくれないと原稿は書かない!」などと子供のような要求を突きつけて担当に泣きべそをかかせ、内心、ほくそえんでいるようなサディスティックな性格破綻者ではないし、女性の前に立つだけで挙動不審や言語障害に陥るような純情さも持ち合わせていなかった。

 全ては麻樹に心臓を握られてしまってからの話なのだ。

 まるで気紛れで心変わりが好きな大空と生命を脅かす天敵に怯んで、翼を畳んで、震えながら青く澄み切った大空を見上げて、さめざめと涙を流すことしかできない飛ぶことを忘れた小鳥みたいになってしまった。

 麻樹に心臓を握られ、心を盗まれてしまったあの日から。

 と、いうことはココアにはもう何回も言って聴かせてきたよね?

そうだ。君が聴きたいのは「そのとき」の話だよね。

よろしい。

 僕が御茶ノ水のカルチャースクールでシナリオライター講座の非常勤講師をやっていたことは知っているね?

 そこは僕のような発行部数三千部ちょいのマイナーな文藝雑誌の新人賞を一個獲って、中篇を二編まとめた単行本を上梓したばかりの若造を講師に迎えるくらいだから他愛もない学校でね、そこの一期生っていうのが五人入ってきたんだけど、うち三人は小津安二郎の映画も観たことがない、太宰の小説も読んだことがないような暇つぶしの奥様でね、講義の内容についてわからないところがないかって質問しているのに、僕の原稿料や本の印税がいくらか?だとか、そんなにイケメンなのになんで彼女がいないの?とかくだらないことばっかり訊いてくるんだ。あと、作家としての昼ドラの感想を求められたりとかね。勿論、僕は誠意を以って答えたよ。お金もらってやってるわけだから。 

 黒一点で田口君っていうハモニカ横丁のスポーツバーで雇われ店長をやりながら脚本家を目指している青年は真面目で、熱心で、志も高いんだけど、いかんせん、文章のセンスがない。ゼロと言ってもいい。原稿用紙三枚分の寸劇やたった十数行の詩の構成すらなっちゃいないし、小学生並みの比喩しかできないの。思わず、「将来をお考えなら、売文稼業などやくざな道は断念して、お金貯めて、ご自分のお店でも持たれたほうが宜しいのでは」って言いたくなるんだけど、なんか一生懸命やってる人は貶せないんだよな。これは性分だね。はは。

 その人たちのことは全く期待してなかったし、たった一つでもいいんで自分を或いは作品を表現することのヒントになりそうなことを覚えて卒業してくれればそれでいいってくらいに考えてたんだけど、あとの一人が僕を期待させたって言うか、それまでの僕を銃殺したって言うか、僕に光と翳を落としたっていうか……

 はじめは何とも思わなかったんだ。

 例えば上戸彩だとか浅田真央だとかはその眼光や仕草や演技を一目見ただけで「ものが違う」って思うじゃない?神様に持って生まれることを許された天分っていうのかな。だけど、その子はそのへん至って普通なんだ。単純に色気だとか色香だとかなら奥様連中のほうが上だし、クラスで五番目に可愛い子が思春期にありふれた初恋とその後、片想いを含めた二三の恋愛と失恋を経て、そのまま何の屈折もなく、大人になったって感じだから突き抜けた何かを持ってるわけでもないし、カルメンやシャルロッテのように男を破滅へと導く魔性を持っているわけでもない。勿論、マリーデイトリッヒや阿部定のような奔放な激情もね。文才だってそう。ほかの四人よりはできるけど、職業にするとなると難しい。本当に普通の女の子なんだ。

 だけど、その子のさ、「先生」って僕を呼びかけるときの歌うように艶のある声と必死さと儚さが同居している尊敬のこもった眼差しには強い中毒性があって、初めはそうだとは気付かないのだけど、日を重ねるごとに何だか幼いころに生き別れた妹に成人してから再会して、失われた時を取り戻すかのようにウエットなスキンシップと情で懐かれているような気分になって、ついにはその子を優しく抱きしめて、髪を撫でて、「もう淋しくないだろ」って慰めの言葉とともにキスまでしたくなるのさ。

 お前は頭がいいからもうわかったよね?

 その子とは麻樹のことさ。


 で、「そのとき」の話なんだが……

 麻樹にそんな淡く、付かず離れない感情を抱きつつ、半年が過ぎて、講義のほうも全過程が終了となったときに最終日に「打ち上げをやろう」と言うことになって、奥様連中は家のことがあるからって言うんで僕と麻樹と田口君の三人がそのまま日大通りの坂を下って神保町方面に流れて、靖国通りから一本路地に入ったところにある「さぼうる」っていう紫煙のくゆる中でクラッシックの流れる、外装内装含めて正しい昭和の雰囲気を持った喫茶店に入って、着席し、僕は学生時代から「いつもの」のナポリタンで、麻樹はミックスサンドとオレンジジュースをオーダーし、「で、田口君は?」なんて訊くと、「折角、打ち上げなんだから飲みましょうよ。ね」なんて提案するものだから、僕は「あ、すみません。こういう店しか知らないものだから、気が利かなくて。麻樹さんもいかがです?」なんて言いたくもないお愛想で答えると、麻樹は「私、アルコールは……」なんてはにかんで俯くんだよ。僕はこういう「恥じらい」って崇拝に値すると思うんだ。それは他の女性が持ち合わせていない徳だからね。

 ただ、困ったことに田口君は酒癖が悪かった。

 普段、真面目で大人しい人ほど、抑圧したりされたりして鬱屈としている分、マイナスの気が溜まっているんだろうね。僕が付き合いの一杯を飲み干してそれでおしまいにしようとしたら綾をつけだしてね、「あれ?講義と違って随分と不親切ですねぇ。僕の酌じゃ色気がなくて酒が進みませんか?」だと。

 仕方がないんで「じゃぁ、もう一杯だけ頂こうかな」ってグラスを差し出しつつ言うと、「『じゃぁ』とはなんですか?だいたい『じゃぁ』ほどいい加減な気持ちで発する言葉なんてないんですよ。『じゃぁ、とりあえずこの場は面倒くさいからこの若造を適当にあしらっとけ』なんて思っているんでしょうよ。どうなんです?」、「別にそんなつもりで言ったのではないよ」、「だったらどんなつもりで言ったんですか?あんたさっきから麻樹ちゃんの前だからって格好付け過ぎだよ」、「いったい君は何を言っているんだい?」、「あれ?ハッキリ言わなきゃわかんないですか?麻樹ちゃんにご執心だって」

 そう言われると、「ゾォォ」って何だか血の気が引いていくのを感じたよ。憎悪のそれじゃなくて、現実と非現実が入れ替わった時のうら寒さだね。高校のときだったかな、皐月晴れの実に気持ちのいい午後に授業をさぼって校舎の屋上に大の字に寝転がって流れる雲をただ眺めていたことがあるんだけど、そうやって三十分くらい大空を抱きしめていると何回か言葉を交わしたことがあるクラスメイトがやってきて、「君もサボりかい?」と声をかける隙もなく、足早に僕の前を通り過ぎ、柵を乗り越え、何のためらいもなく、地上へ飛び降りた。あの時感じた「ゾォォ」に近かった。

で、田口君は攻撃の手を緩めない。

「あれ?否定しないんですね。いけないなぁ。講師が生徒にそんな生臭い感情を抱いちゃぁ。『では、光についてイメージできる言葉を思いつく限りノートに書いてください』なんて言ってるあんたは頭の中では麻樹ちゃんのあられもない姿をイメージしてたってわけだ」、「いい加減にしないか!」、「何をムキになってるんです?ダサいなぁ。さぁ、憧れの君にお酌してもらってどさくさまぎれに乳でも揉まして貰ったらいいじゃありませんか。この三文作家が。えぇ!」、「田口君。それくらいにしておかないと本当に怒るぞ」、「ああ?口で敵わないから暴力ですか?恋愛小説家様が聴いてあきれらぁ」

 もうダメだ。僕のことはいいが、麻樹のことを間接的に貶めるのは許せない。不本意だけど、殴ろうと思った。そのときだったね。顔を真っ赤にした麻樹が沈黙を破ったのは。

 僕は麻樹がてっきり田口君に非礼を責めるのか或いは、啖呵を切るのかと思ったら、すっと立ち上がって、僕の手を取って、一瞬即発だった僕を店の外に連れ出し、路地からすずらん通りの方に向かいながら「先生、大丈夫ですか?」って僕の顔を覗き込むのさ。その心から憐れむような眼差しは今死に行く人にすら無償の愛を与えようとする聖女のようで、なんだか今しがた受けた貶めが受けるべくして受けたカルマのように思えてきて、僕は冷静さを取り戻したが、麻樹とは手をつないだまだって事に気付き、柔らかさと暖かさが掌に急に伝わってきて、僕は再び冷静さを失う。今度は怒りではなく、どこか幸福な緊張感として。それゆえ僕は頓珍漢なことを言ってしまった。

「ああ。暖かいね」

 麻樹は笑ってくれた。笑顔は七難隠し、その人に幸福をもたらせるだけではなく、振りまいた人も幸福にさせるのだ。そんな当たり前のことがゆっくりと心に満ちてきた。

「私もです。先生の手、大きくて暖かい」

 この子は僕を傷つけない。絶対に傷つけない。傷つけないどころか、血を見る一歩手前だった吊るし上げの集中砲火から僕を護ってくれただけでなく、誤解して取られかねない言葉を好意的に咀嚼し、まるで期待をなぞるような返答には笑顔まで付いている。それも作為ではない、自然で、三千世界でこの僕にだけに向けられ、僕だけを癒すことを許された笑顔が。陶酔し、もうそれだけでこれから先、残酷なことしか待ち受けていない未来でもいいと思えるほどのね。

「そのとき」だよ。

 僕の心臓が麻樹に握られてしまったのは!

 最初は甘く、それこそ赤子の肌にでも触れるように、でも、それはすぐに「ぎゅ」ってまるで財宝や女を力ずくで奪ってゆく、血のにおいがする蛮族の荒々しく、筋骨隆々とした腕に握られたように強く、強く、強く。潰れてしまうくらいに強く、強く、強く!それは悲恋の始まりにしては雨だれの憂鬱さではなく、火のような美しさと激しさを想起させたんだ。

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