第2話
僕にはふたつの顔がある。
米川誠人という新進気鋭の恋愛小説家としての顔とペンを持っていないときのまるで前世紀初頭に書かれた詩や小説の中から飛び出してきたような見守る愛や忍ぶ愛に苦悩しながらも、まるでそれが信仰であるが如く、受け入れている時代錯誤も甚だしい負け犬としての顔を。
わかりやすくこの二人の「僕」の関係を説明するならば、負け犬の悲恋をネタに恋愛小説家がいかにも「百戦錬磨の私ならばこんな惨めなことにはなりませんが、このかたは本当におかわいそうですよね。皆さん。どうかひとつお涙頂戴!」と行間から赤い舌を出して作品を発表し続けているという、鵜と鵜飼いの関係に近いが、その正体は言うまでもないが、どっちもが「負け犬」なのだ。つまりは「負け犬」が「負け犬」の話を書いているのだ。
そしてその行為は先に述べたように僕を苦しめることしかしないが、僕はすでに「火に触れたら火傷をする」、すなわち、「火は熱い」という簡単なことさえわからなくなった狂人か自分が放ったボールを自分で拾いに行くという徒労に遊ぶ友達が一人もいない子供のように日が暮れても、季節が変わっても猶、血を流しながら、傷口を震わせながらそんな報奨なき自傷をただ繰り返しているのだ。
しかも、できるだけ涼しい顔をして!
しかも、「それでも未来は有る」という顔をして!
仮面の裏から聴こえてくるわざと瘡蓋を剥ぐような膿を伴う痛々しい告白に耳を塞ぎたいという要求を頭から押さえつけながらも涼しい顔で!
そいつらが「イカサマ」とわからないほど瞬時に僕の日常を非日常にすり替えたのだ。
それは鮮やか過ぎて称賛に値するほどの「早業」だった。
眠れずに、眠れるわけなどなく朝になった。
これもいつものこととは言え、敗北感がやけに同情的に肩を叩き、それとなく自決を唆すので僕は猫を抱いている。この世の中で真に人の心を癒してくれるものは詩と猫だけだと思う。
特に猫はいい。この寒さとひもじさと切なさを忘れさせてくれるような体温、肉球に触れるたびに伝わる安心感、満たされた口元は「ココア」と名前を呼べば世慣れたように「ミャオ」と返事をする。猫は犬と違って自分の名前を百パーセント認識できている。利口な上に愛い奴だ。
「ああ。まったく。お前が麻樹だったらよかったのに……」
元々、この子の名前を「麻樹」にしなかった理由は「オスだから」という尤もらしい理由なのだが、本当は「付けられなかった」のだ。わかるだろう?この子を仔猫の時から「麻樹」と呼んでいるうちに僕はこの子の前でもシャイ、シャイと言うよりも挙動不審になり、目を見て喋れず、躾すらろくにできず、結果、一人の麻樹と一匹の麻樹の臣下になったのでは目も当てられないほど間抜けすぎるので毛色がこげ茶色だという安易な理由で「ココア」と名付けた次第だ。
と、僕の膝の上で優雅に毛繕いをする彼に対してそんな言い訳めいた弁明をしたところで世界は何も変わらない。すなわち、麻樹が今、他の男のベッドの中で眠りの海から岸部へと打ち上げられ、新しい朝の光とそいつの笑顔に迎えられ、その眩しさに細めた目に入る視界で或いは、その太陽の匂いとそいつの体臭が混ざったいつもの空間に幸せを感じている、という僕にとっては心が引き裂けてしまいそうな残酷な世界が何も変わらないと言うことだ。
「ココア。そんなことしなくてもお前は綺麗だよ」
「ミャウ」
デートを前に鏡の前で入念に化粧をしている麻樹にそんな軽口を叩ける日が来るのだろうか?
その可能性は極めて低い。それは第三次世界大戦が起こる可能性や中国が民主化する可能性やポルポトや金正日が天国に行ける可能性や古今東西の神話に出てくる神々が全て邪神と見做される可能性よりも低いと言える。それでも僕は麻樹を嫌いになることができずにまだ何かを信じようとしているのだ。即物的とか享楽的とかいうものの全くの対極に存在している一刹那的な何かを。
「ふん。『そうかなぁ?そうでもないよ』だって?お前まで思わせぶりってわけかい?」
一応、猫の言葉がわかる僕は「心配していますよ」と言う顔をして安物のコロンかリキッドの壜のような薄碧の瞳を忙しく右へ左と動かせながら僕の機嫌を伺うココアを恨めしげに見詰めながら嘆息した。ココアは「まぁ、あんまり思いつめないほうがいいですよ」という僕への憐憫を込めて、欠伸し、まどろみはじめた。
そんな天衣無縫で憎めないココアの体温を感じながら、眠りに落ちて行くあられもない姿を見ていると「猫になれば麻樹に愛されるというのなら、僕はいっそ猫になりたい。いや。『なりたい』ではなく、『なる』なのだ!」と。僕は至って正気に且つ、真剣に渇望し、「淋しいよぅ」と言う行き場のない慕情を込めて「ナァァオ」と鳴いてみた。麻雀の洗牌の音と似た雀の鳴き声だけが虚しく被さり、僕が何を求め、何のために鳴いたのかわからなくなってしまった。
又、夢が始まる。
今度は僕を自害や発狂や自己批判へと追い詰める、狂ったカプセルがもたらせる暗がりで何者かに殴打されているような正体不明の幻影ではなく、麻樹をこの胸に抱きしめ、その一瞬に降り注いだ陽光や清涼な空気や星の位置が一万年も不変であることを願うエゴでもなく、常人が眠ったときに見る、あの「夢」がやっとはじまる。それもあの胡散臭いじいさんと同じく、昨夜ともひと月前とも一寸として違う箇所のない、どちらか言えば望まない「夢」が。
それは遥かなる前世。
雨に濡れた石畳を僕はまるで剃刀の上で踊らされているような研ぎ澄まされた痛みを伴う焦燥感に言葉を失くしてしまうほどの胸騒ぎを覚えながら教会の方向へと息を切らせて走っていく。ここはオーストリアかドイツの田舎町のようだが、毎度の事ながらハッキリとした場所と時代がわからないし、わかったところでこの執拗なノックのように繰り返される虚しい夢が二度と訪れないことを保障してくれるものでもない。
「厭だ。絶対に厭だ」
そう。なんだか麻樹が関口さんと一緒にいるとき、特に麻樹のあの俗で汚い世界など一切、見たことがなく、下人や猛獣にですら慈しむように微笑む、あの透き通った鳶色の瞳にウットリと関口さんただひとりが映っているときにもこんな気持ちになる。それは呼吸をするように当たり前のことだと言うのに、関口さんほど容姿端麗、公明正大で、岩のように揺るがぬ思想のように言葉だけではない優しさを持った人間もいないというのに、それでも僕は「厭だ」と思ってしまう。浅ましくも、それが心と言う奴なのだ、と僕はその心の在り処を強く肯定する。
そんな思いで僕は緩い碁盤目のような城内を抜け、教会へと続く一本道を駆け、時折、雨上がりの空を見上げては「厭だ!」と哀訴する。いつもと同じ道でいつもと同じ満たされない心でいつもと同じ場所に着けば、またいつもと同じように美しい細雨のような眩しいライスシャワーの中で見覚えも友達付き合いをした記憶もない若いゲルマン系の男女が一片の不幸や不安を感じさせない「笑顔」と言うよりも「スマイル」で祝福に応えて、神への感謝を込めて婚礼の最後に華を添える。ブーケは当然、僕のところには飛んでこず、こんなにも満たされ、天使すら祝福に降りてきかねないこの空間で僕一人だけが取り残され、何も報われず、癒されもせず、異なる重たいオーラを発している。
これもまたいつもと同じようにこの「夢」の意図するところは何もわからないが、あの僕へは目も刳れず、幸福に酔うあの少し骨格がしっかりし過ぎてはいるが、健康的な美を備えた花嫁が麻樹で、神経質そうだが、佇まいから人柄のよさが伝わってくる背の高い夫となる男が関口さんの前世なのでは、と無理に当てはめてみると、何だか知らなければよかった真相や聴かなければよかった秘密を知ったときのように、身も心も激しく脱力するのだった。
「僕は未来永劫、麻樹と関口さんの幸福の後塵を拝し、絶えず『別れろ』、『別れろ』ってどす黒い邪念を飛ばし、嫉妬し続けながら生きねばならないのか?しかも、表面上は仏様のように穏やかで、『私は何の見返りも求めず、あなたたちの幸福を心から願っていますよ』って顔をして!」
そんな僕の心が美しい旋律を奏でる六本のゲージだとしたら、そのすべてが引き千切られたような絶望的な気持ちになると、ギルバートオサリバンの歌の文句みたいに本当に教会の塔のてっぺんから身を投げたくなる。「また一人ぼっちになっちゃった。まぁ、当然のことなんだけどね」なんて強がりを言いながら……
惨めな思いがそこで許されたのはおなかを空かせたココアが「マコトさん。ボク、おなかが減りました。起きてください」と言う内容を鳴いて見せたり、猫特有のザラザラした舌で僕の手の指と指の間を舐めたり、「もうおなかへったっていってんでしょ?わかんない人だなぁ」と呆れ、背中にダイヴしてきたりして必死のアピールの甲斐あって、僕は「夢での自殺」という究極の自慰行為に打ちのめされずに済んだので、ココアに「そうだよな。暖かいとこでおいしいもん食べてれば幸せだよな」と力なく微笑み、かる缶を開けて、ココア用の豹柄のミルク飲みにそれを移すと、ココアは僕の存在など忘れてしまったかのように一心不乱に食べ始めた。猫という動物は食べ終わるまでは何も見えないし、何も聴こえないので僕は言いたいことを脳裡や舌に右往左往と漂わせながらいとおしげに見詰めることしかできなかった。
何もできないという意味ではいつも麻樹を目の前にした時のようだ。
「ココア。それ食べ終わったら麻樹の話をするからね。あ、いいよ。ゆっくりで」
僕は結ばれないことを前提とした悲恋と一人の残酷なミューズのことをこの聡明で、機敏に僕の心を読む猫に全て話したら、もうこんなプラトニックはこちらから願い下げをして相応しい未来を甘受しようと思った。
麻樹を諦めきれないだなんてはじめからわかりきっていることなのに……
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