流星のラストデート

野田詠月

第1話

 小説は誰のことも幸せにはしない。

 読者は勿論のこと、作者たるこの僕の事だって。

苦しめることはあっても癒されることなどない。その制作の過程の非情さと過酷さにのた打ち回る様は氷点下の地獄の底の底の底で糞尿にまみれ、生き永らえる為に凍えて歯をガチガチと震わせながらその糞尿を口にすることで露命を繋いでいるようなまさに羅刹や畜生道と紙一重、いや、すでにその薄く暖かなオブラートは破れてしまっていて、僕は完全にそちらの世界に片足を踏み入れていると言ってもいい。

僕がそれでも小説を書く理由は単純に救い難きマゾヒストで、報われない、或いは結ばれないことに快楽を感じ始めているからなのかもしれない。

結局のところ、僕が求めているものとは「寒さ」なのか?

 そんなはずはない!

 そんなことの為に、すなわちは麻樹を失う為に生まれてきたんじゃない!

原稿用紙を前でもう何千回繰り返したかもわからない暗闘。

恋愛小説家ともあろう者が現実世界では先日、男とほとんど結婚を前提に同棲を始めた、生まれる時代や国ではなく、生まれることそのものを間違えたような天使たる麻樹に恋焦がれ、安目を売り続けるだけに飽き足らず、そんな思い通りにならない一切を一人で蒸し返し、一人で苦悩し、一人で憐れんでいる間抜けな一人芝居のような悲恋を血と涙が混ざったしょっぱい鉄の匂いが漂ってきそうな重く湿った筆致で刻んでいるのだ。そうすると決まって怪僧ラスプーチンだか天本英世だか知らないが、何だか頭の先から足の爪の先まで胡散臭いことこの上ないタロットカードの隠遁者か黒魔術師のような爺さんが僕の目の前に現れて、苦しそうな咳を混ぜながらいつもの台詞を吐くのだ。

「お前さんはまだ『幸せになろう』などと甘えているのかね?」

 なるほど。そうかもしれない。どんなに高潔であり続けようとして血を吐くような思いで作品に対峙しても僕が真に欲しているものなどとっくに見透かされているのだ。

「もう少し利口だと思っていたが、愚鈍な奴め。いいかね?お前さんは魔界に住んでいるのだ。血と肉と暴力に飢えた魔物が住む魔界にな。そんな男をたらしこむことしか能がない女の為に恋だの愛だのと心曇らしていたら魔物に食われちまうんだぞ。それも背後から一瞬でな」

 聞き捨てならない。

 聞き捨てならないが、その言葉はあまりにも事情の急所を捉えていて、僕の背中は刃物を当てられたように「ゾクっ」と冷たい一本の糸のような戦慄が走り、そのことで阿片が効き始めた時のように五感がクリアになり、濁った目で嘲笑うように挑みかかってくるこの正体も国籍も不明な爺さんに対して初めて五寸に物が言えるようになる。

「上等じゃないか」

「何だと?まさか何も得るものも返ってくるものもない無様な恋に燃え尽きた、という誇りが最後に残るのだとでも思っているのではあるまいな?」

「そうだとしたら?」

「莫迦莫迦しい。お前さんがその女とまともに言葉を交わせるのはいつだね?『誠人さん』と下の名前で呼んでもらえるのはいつだね?見詰め合って手を握りしめるのはいつだね?そしてその女に愚息を咥えてもらえるのはいつだね?いったいいつになるのだね?どうだ?まだ続けてもらいたいかね?え?」

 紫檀の杖先を僕の目の前に突きつけて、論破を急ぐように少し苛立ち、不幸を求めているのか?幸福を求めているのか?曖昧で煮え切らず、どこまでもプラトニックに従順で原稿用紙の上でだけ饒舌に躍動する僕を精神的に罵倒しようとする。いや、返事の如何によってはその紫檀の杖で肉体的に痛めつけることだってやりかねない。それだけ僕を詰める老人にはいかなる反論も許さぬほどの迫力があり、震える杖先は動きが止まった瞬間に僕の喉元に突き刺さってきそうなほど鋭利で隙がない。

「爺さん。歳を考えなよ」

「欲と惚れた晴れたに年齢は関係あるまい。強がるでない。本当にお前さんの欲しいものは何だね?まさかこのまま何も言えず、何も出来ず、何もさせてもらえず二束三文の小説の中でしか成就されない恋に甘んじるつもりかね?水面に一石を投じることさえもせずに、『君は僕が君をどんなに愛しているか知らないのさ』などと二束三文の古い米国映画が如く、他の男にかっさらわれてゆく女に向かって女々しい恨み言を言うつもりなのかね?」

「……」

「どうやら図星のようだな。どうだ?儂と取引をする気はないか?不能になるか、目暗になるか選びたまえ。機能を奪い次第、その女がお前さんの物になるように手配してやろう。ギブアンドテイク。お前さんの快楽か視力だ」

「ふざけるな!」

と、この神の代理人の如く振舞う爺さんをぶっ飛ばすことは簡単なことだろう。

 しかし、この底意地の悪い三叉路地を用意した老人は決してふざけてなどいない。麻樹が目に見えなくても、或いは麻樹と性的に結ばれなくてもそれでも愛することができるのか?と嬲るように信仰と覚悟を試しているのだ。それに即答できるほど僕はまだそこまで追い詰められてはいないし、まだ逆転が可能だと信じているのだ。現実に麻樹が今頃、他の男のベッドの中にいるのだとしても。

「僕は魔界に住んでいるのじゃなかったのか?」

「ギブアンドテイク。それもお前さんの出方次第で変わってしまうのだ。紫微斗数で決められた運命でさえもな」

 老人は魅力的な珠玉を僕の両手に乗せて、そのいずれもがシックだったり、上品だったりして僕にお似合いだとでも言いたげなユダヤ宝石商人の卑屈な笑みを浮かべたまま引き下がらない。たとえそれが心の中の葛藤を正直に映し出しているのだとしてもいい加減、お引取り願いたくなってくるほどの詰められ方だ。

「断る」

「はん?断るだと?」

 憤怒の感情のままに老人の白眉が左右で二センチほどずれたが、すぐに不快な嘲笑いが零れた。

「そうだろうよ。お前さんはその女のことなど愛しちゃいないのさ。たとえお前さんのものになったとしてもその美しい顔や白肌を鑑賞してためいきつきながら挙動不審みたいにおどおどとした愛撫に愛想を尽かされるのが関の山だろう。くだらん!実にくだらん!言葉では何とでも言っても一寸したことや些細なことで靡き、逃げ、裏切ってしまうのさ。ふん。苦しむがいいさ。すでに決着がついている悲恋に死ぬの生きるのと苦しむがいいさ。不能と闇が怖くて逃した魚の大きさに苦しむがいいさ。嗚呼。臆病者は死ぬまで苦しむがいいのさ」

 また同じ幻影。

 その老人がいったい何者であり、もののけの類だとするならいったい何の化身なのか?なぜ夜毎、僕に狙いを定めて執拗に追い詰めてくるのか?理由がまったくわからないが、麻樹に恋愛感情を抱き始めた頃からそのノイローゼ一歩手前の暗く、救いのないイメージに苛まれている。誓って言うが、僕は何も恨まれることなどやってはいないし、僕自身が狂うような薬を服用したわけでもない。ただ麻樹を好きになったというだけだ。あの真昼のように美しい麻樹のことを……

 僕は悪夢から目覚めた時のように、いや、あれは実際、悪夢だったわけだが、悪寒と恐怖に自分を抱き、息を整えながら目を闇に慣らし、やめておけばいいのを承知で老人の言葉を反芻する。

「死ぬまで苦しむがいいさ」

 きっとそれが「麻樹を愛すること」によってもたらされる未来とそれに至る過程の全てなのだろう。何も難しくなんかない。子供でもわかる道理だ。それに欲に目が眩んで光や盛りをあの老人に差し出したところで結果は同じだと言うこと。

 闇はこんなにも深いと言うのに何も隠してはくれない。朝になれば消えてしまう楽しき宴のあとの食い散らしや飲みさしや吐瀉物よりも汚く、混沌としている生臭い感情や妄想、それともう何万回呟いたかも忘れてしまった「麻樹」という愛しいその名さえも。

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