2022 ラッキーストライクと理解のあるバイト先くん
就活から私を救ってくれたのは、突如現れた「理解のあるバイト先くん」だった。就活がうまくいっていないことを聞きつけたのか、四年間勤め続けていた塾から、社員登用の話がおりてきたのだった。
これ幸いと私は就活を降りた。
もう黒髪にスーツでいい子ちゃんを気取る必要はない。長かった髪をばっさり切って、(バイト先の許す範囲で)染めた。(こういうところが中途半端なんだよな、と思う)
それからピアスもいくつも開けた。耳たぶに二カ所ずつと、インダストリアル。インダストリアルは県庁所在地の病院まで行かないと開けられなかった。一時間電車に揺られ、軟骨に穴をあけにいった。麻酔のおかげで痛みはなかったが、耳にニードルを刺されるとき、ぶつっ、と耳元で音がしたのは怖かった。
耳の痛みはしばらく続いたけれど、私は小気味よかった。煙草とピアスは私の自傷だった。リストカットをする度胸がない代わりに、私は煙で健康寿命を縮め、耳に穴を開けた。
就活で増えた煙草の量は、それからいっこうに減る兆しを見せなかった。
卒論を無事提出でき、卒業に必要な単位もそろい、私はとうとう卒業が決まった。
卒業式の日、私はリクルートスーツで会場に向かった。華やかな袴をまとった同級生たちを見ながら、
――袴、着たかったな。
とぽつりと思った。
卒業式が終わった後、同級生に取ってもらった写真の一枚を、「毒親から逃れて三年半!!親の力を借りずに卒業しましたー!!祝って!!」という言葉とともにツイッターにあげた。バズらないかな、という下心は、正直あった。
結果として、ここまでバズるとは思わなかったというほど、写真は拡散された。「いいね」は二十万を超えた。卒業式の後のサークルの会食(本当は禁止されていたけど)でも、その後の友人宅での二次会でも、私はスマホを持ちながらニマニマしていた。通知には「おめでとう」の嵐。たまに「育ててもらった親に毒親なんて」と言う話の通じない人間はいたけれど、そんなのごく少数で、本当にたくさんの人からお祝いをもらった。承認欲求が満たされていく感覚が心地よかった。
ただ、「きっと立派な社会人になるでしょうね」といった言葉には、ちくりと胸を刺された。私はその「社会」から「お前はいらない」と言われ続けてきた社会不適合者だ。理解のあるバイト先くんがいなかったら、私は路頭に迷っていた。
理解のあるバイト先くんはどこまでも理解を示してくれた。「卒業まで全力で走り切っていたから、数カ月休んでから復帰したい」と言ったときも、「若いときにはそういう自分を見つめる時間が必要だからね」と快く送り出してくれた。
そういうわけで、四月から六月まで、私は離島の母のもとで過ごした。
(母とは高校生くらいの時から秘密裏に連絡をとりあっていて、大学生になってからは時々遊びにも行っていた)
その時吸っていた煙草は、ピアニッシモ・プレシアと、時々ラッキーストライク。ラキストは好きなバンドの好きな曲に出てくる銘柄だった。
色んな事をした。思い切って髪をピンク色にしてみたり、長編小説を書いたり、学生時代にとれなかった免許をとったり、魚をさばくのを練習してみたり。嫌煙家の祖母に隠れて、母と一緒に隠れて煙草を吸って、あれこれ語り合ったり。
「どうしてもしんどくなったらいつでも戻っておいで」
空港にて。別れ際に母は言った。私は母にしがみつきながら泣いた。別れが悲しかったのもあるけれど、「安心して帰れる場所」がはじめてできた気がして、嬉しかった。
六月の半ばには本土に戻り、七月半ばから仕事が始まった。
そして八月。理解のあるバイト先くんの化けの皮が剥がれた。
そもそも、バイト時代からブラックなところはある会社だった。授業準備に賃金が発生しないのは当たり前だったし、大型台風だろうが大雪だろうが休みにはならないし、社員さんはいつも遅くまで残業をしていた。
社長もちょっとアレな人だった。「これ言ったらセクハラになっちゃうかもしれないんだけどさ、体型変わった?」と平然と言われたときは慄然とした。またある日。ロッカーに貼っていた付箋(本名にちなんで山の絵を描いていた)がいつの間にか誰かのらくがきで噴火させられていた。後日、「あれ書いたの、実は僕なんだよね」と社長から告白された。どんな顔をしていいのかわからなかった。
ブラックだろうが社長がアレだろうが、それを承知で私は会社に入った。そこしか行く当てがなかったから。「試用期間中は保険証が出ない」と言われたときも、「あれ?」という感覚はあったけれど、私は見ないふりをしていた。
終わりは思ったよりも早く訪れた。
事の発端は、自分の就職祝いや友達へのプレゼント等でクレジットカードを使いすぎてしまったことだ。一括では払いきれないほどの借金が私の肩の荷にかかった。久しぶりのお金への不安から、その時だいぶメンタルを崩した。幸い、分割決済にすることで返済の目処は立ちそうだったが、その時からずるずるメンタルの調子が悪くなった。
仕事も忙しかった。塾は夏期講習で、人手不足なぶん、いつもより勤務時間が長い。連日のように労働時間は十時間を超えた。それなのにコロナにかかって欠勤する人も出てきた。穴を埋めるため、ますます仕事量は増えた。
くたくたになった帰り道。まともな夕飯を食べる気力はなかった。コンビニに寄っておつまみと缶チューハイを買った。帰るなり窓を開け放して、脚だけベランダに出して体育座りをする。ぬるい夏風に吹かれながら、缶チューハイを煽り、煙草を吸った。アルコールとニコチンでようやく疲労が誤魔化されていく感じがした。
働いている時は必死だったから、どうにかなっていた。どうにもならなくなったのは、夏期講習がようやく一段落ついて、お盆休みを迎えてからだった。
鬱のどん底が来ると同時に、三十八度の熱が出た。職場でコロナが流行っていたから、最初は私もそうなのだろうと思った。けれど、熱以外の症状は出ず、抗原検査をしても陰性で、コロナの疑いは低かった。数日休めば引くだろうと思っていた発熱は、一週間経っても、二週間経っても、下がらなかった。
すると、業を煮やした社長から連絡があった。
「熱以外の症状がないのなら、明日からは発熱していても出社してください」
その瞬間、あ、だめだな、と諦念が胸に満ちた。自分の身に何かあっても、この会社は私のことを守ってくれはしないのだろう、と。
少し調べて、鬱状態のときの症状に、自律神経症状からくる微熱があることを知った。このまま心身がぶっ壊れるまで働くか、無理やりにでも休むか。自分の身が可愛かった私は、後者を選んだ。ドクターストップがかかればスムーズに休めるはずと、主治医に診断書を書いて欲しいと頼んだ。「二カ月程度の自宅療養が必要である」という診断書は思いのほかあっさりと書いてもらえた。
それを会社に提出したところ、ひと悶着あった。社長の言い分はこうだった。入社してすぐ、試用期間の私には有給休暇はないし、二カ月の休職も認められない。譲歩して一カ月までなら休職してもいいことにするが、その間は無給(健康保険に入れていない以上傷病手当も貰えない)、一カ月経って改善しなければ自己都合の退職ということになる。正社員としてではなくアルバイトとして働くという選択肢もある。休んで困るのは君の方だよ?
「診断書とかはいいから、君はどうしたいの?」
問い詰めるように言われて、私は「わかりません」としか言えなかった。診断書作戦が失敗するとは思わなくて、正直途方に暮れていた。泣けばヤバい状態だって認めてもらえるかなと思ったら、泣けた。あ、私、泣けるんだなーというどこか乖離した感覚があった。涙をぼろぼろ流しながら、蚊の鳴くような声で「わかりません」だけを連呼する私に、社長は明らかに苛立っている様子だった。
その時母から、「そんな状態なら戻っておいで」とメッセージがあった。
こうして社会人生活は一カ月も経たずに破綻した。
「どんな仕事にもストレスや責任はつきものだけど、君の心身はそれに耐えられなかったということだね」
会社をやめて実家に帰ると告げた時、社長は言った。
「お前みたいなクズが社会に出てやっていけるわけがない」
父親の言葉がまた呪いのように蘇った。
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