百合に挟まる幸福は死ねばいい

狂フラフープ

百合に挟まる幸福は死ねばいい

 三人で旅をしている。

 車窓に広がる田園風景はすでに半分が闇に沈んで、ボックス席で肩を寄せ合う来栖悠華くるすはるか久瀬崎絵里くぜさきえりを列車が規則的に揺らしていた。

 向かいには、制服姿に似合わないふたりでひとつの大きな旅行鞄。中には死体だけが詰まっている。

 鳥飼尚輝は男で、故人で、つま先まで自意識と下心で出来た自惚れ屋で、けれど死体になって鞄に詰め込まれなければならないような極悪人ではなかった。

 少なくとも悠華はそう思う。

「――降りる?」

 列車が止まり、悠華が問うと、絵里は小さく首を振って、まだいいですよと答えた。乗客がひとりまたひとりと降りて、扉が閉まり、車掌のアナウンスが響く。

「そろそろかな」

 悠華の言葉に、絵里はもう一度、今度は大きく首を振る。

「まだ、大丈夫ですよ」


 *


 人気の少ない旧校舎裏には告白にうってつけの大楠が生えていて、学園の女生徒たちがこぞってそうするように、来栖悠華もそこで久瀬崎絵里に愛の言葉を口にした。

 女同士など少しも興味がなかった。

 戸惑ったようにこちらを見詰め、絵里はゆっくりと時間をかけて首を縦に振った。まともに話すのさえ初めてだった。

 いつでも誰かと一緒に居なければならない。生き馬の目を抜くような学園では、ひとりで過ごすことは自殺行為にだって等しい。内向的で大人しい下級生を選んだのは、彼女が嫉妬ややっかみ、権力闘争から無縁の人間だったからだ。

 告白は噂好きの級友たちの手でたちまち知れ渡ったけれど、悠華はふたりだけの秘密を物陰で大切に愛でる振りを続けた。


 *


 列車とホームの隙間にキャスターが嵌らないよう、ふたりがかりで鞄を持ち上げる。改札に警官が待ち構えているということもなく、寂れた駅前のベンチに腰掛けた。

 荷物をどうしようか。

 山か。海か。誰にも見つからないどこかに死体を捨てて、何食わぬ顔で日常に戻る。願望にすがるようなこれからの予定はひどく曖昧で、まるで夢想にふける子供の夏休みのようだと悠華は思う。

 長閑な場所だ。こじんまりしたロータリーに大衆食堂と交番とファーストフード店、土産物屋とコンビニを足して二で割ったような個人商店が詰め込まれ、向かいのショッピングモールがテントの下で何かの催し物をしている。親子連れが目の前を横切って、幼い子供が声を上げて笑う。どこからか夕飯の匂いがする。周囲は日常の気配に満ち溢れていて、その只中、頑丈なファスナーひとつ向こうに、人の死が詰まっている。

 この手で殺した男の死。

 鞄から死臭がかすかに漏れでたような気がして、悠華は首を振る。そんなはずはない。何重にも封をした鞄の中身が漏れるはずはない。

 これは自分の頭に染みついた妄想だと、悠華は自分に言い聞かせる。

 単に過ぎ去った光景が脳裏をよぎっているに過ぎない。

 そうだ。これはただのフラッシュバックだ。

 床を汚す流血、苦しげな呻き、血走った目。

 滲み溶けるような視界。

 叩かれた頬の痛み。

 怒声。

 強すぎる芳香剤の香り。

 つややかな薄いゴムと、ゴム越しの体温。吐き気を催すような。


「――先輩?」

 絵里の声に、悠華は我に返る。

「ごめん。ぼーっとしてた。なに?」

 差し出された菓子パンと紙パックの紅茶、少し取り繕ったような絵里の笑顔。今自分がどんな顔をしているかに想像が至って、悠華は慌てて笑おうと努める。

 どこかから手に入れてきた観光パンフを広げて、絵里はこの後どちらに行こうかと指差し尋ねてくる。

 町の成り立ち、寺社、行楽地。所狭しと行先を示す色とりどりのパンフレットにも、死体を埋めすべてを覆い隠せる場所はどこにも描いていない。

 大丈夫。平気だ。つまり書き込みの多い所が人通りの多い所で、この地図の何も描いていないどこかに逃げ場はきっとある。

 そう考えても、食事さえ容易くは喉を通らなかった。

 砂糖まみれの菓子パンの、口の中に残り続ける甘ったるさを呑み下すと、絵里に手を引かれて立ち上がる。

 遠目に店先を冷やかしながら先導する絵里を見て、こんなに明るい子だったろうかとぼんやりと思う。わかっている。自分を気遣ってのことだ。だがその気遣いの始まりがいつかとも疑問がよぎる。

 恋人になってしばらくすると、絵里はいつしか空気のような存在になって、無色透明な彼女といる時は、息苦しさを感じなかった。まるでひとりきりの時のように。

 けれどそれは、そんな彼女を悠華が望んでいたからなのではないか。


 ――先輩、逃げましょうか。

 思えば、部屋に踏み込み死体を見たあの瞬間から、ひと言口を開くまでの間に、絵里はどんな決意を下したのだろう。

 絵里がひとりで運ぶ旅行鞄の引手を一緒に握った。鉛のように重い大きな鞄を、石畳でガタガタと音を立てながら引き摺って、悠華は絵里に語り掛ける。

「海はあんまり遠いから、やっぱり山かな」

「わたし、山は好きです」

「じゃあ決まりね」

 舗装路でさえ難儀する重さの鞄を、果たして誰にも見つからないほどの山奥まで運べるか。考えればその無謀さに笑い出しそうになる疑問を頭から追い出して、悠華は絵里の言葉に相槌を打つ。

 額に汗する程歩き通しても、振り返れば遠くに駅舎が見えた。


 *


 その夜に、父は友人は選べと叱り、母はあなたには幸福になる義務があるのよと慰めた。純朴な子供時代は終わりを告げて、その日以降、悠華の人間関係には余りに多くのものが介在してきた。

 いつだって、誰かの望む自分で居て、何かを望んで誰かと居る。いつだって悠華と誰かの間には、そのどちらでもない別の誰かの思惑が差し挟まれている。

 それが何より嫌だった。あの日から、自分には無数の友人が居て、ただのひとりのともだちもいない。


 *


 目を覚ますと、朝日より先に絵里が目に入った。

 まだいまいち明けきらない朝の光が、絵里の髪の毛の端を白く染めている。じっと目の合う気恥ずかしさに目を逸らした。

「……もしかして、起きるまでずっと見てたの?」

「あの、いえ。ちゃんとわたしも寝ました。先輩より先に目が覚めただけで」

 手まで絡められている。昨日寝床に選んだ公園の東屋は、風通しが良すぎて朝方には少し寒い。公園の水道で顔を洗って、絵里の差し出したハンカチを借りて拭く。結局、あの後町をうろついても収穫はなく、疲れ果てたふたりがようやく見つけたのがこの場所だ。

「これからどうしようか」

 当たり前の話、土地というものは誰かが管理していて、山や森さえ誰かの財産だ。それを意識しなかったのは単に必要がなかったというだけの理由で、きっと自分は誰のものでもない場所になんて生まれてこの方立ち入ったことが無いのだろう。

「とりあえず、服を買いませんか?」

 絵里に言われて、自分たちの姿を見返した。

 仕立ての良い女子校の制服。

 これを着て歩くのは自分たちの身元を喧伝しているようなもので、そうでなくとも夜更けの町をうろつくには揃いの制服姿はあまりにも目立っていたことだろう。

「……着替えよっか」

 幸いにも近くに、地元の若者向けの古着屋があった。

 鞄一杯のブランド服でも売り飛ばしに来たとでも思われたのだろうか、古着屋の店員はこちらの顔を見るなり大げさに愛想を振りまいて飛んできて、どんな御用件かと猫撫で声を出す。

 余計なことを言えば商機を逃すとでも思っているのか、ともかくこちらの事情を詮索してこないのはありがたい。

 はしゃぐ絵里から大量の服と共に試着室に詰め込まれ、カーテンを開けるたび歓声を上げる絵里と店員にしばらくマネキンの真似事をさせられた。

「こんなに買っても邪魔になるだけでしょ……」

 金より着せ替えがよほど楽しいのか、店員は絵里ともども次に着せるつもりらしいワンピースを手に取って、あれこれ話し合っている。

 結局、一揃えずつ気に入ったものを選んで店を出た。

 すっかり上機嫌だった絵里は角を曲がった途端に人が変わったように無口になり、次の手筈に向けて気を回しているようだった。

「先輩、あれ見えますか」

 指差された看板には、毒々しい色の文字が見えた。五年以下の懲役。若しくは一千万円以下の罰金。不法投棄を戒める文言。

 管理も人の目も行き届かない山中は、都合の悪いものを人知れず処分するのに格好の場所だ。とはいえ――、

「これ、登るの?」

 のたうちながら上へ上へと続く細い道路は、路面さえひび割れ草木に覆われている。平地を引き摺っても重い死体の詰まった鞄を、どこまで運べばよいだろうか。

 悠華と死体をその場に残して、絵里は来た道を引き返した。やがてレジ袋に食べ物と飲み物を買い込んで戻り、絵里が差し出したのは小さな園芸用のスコップだった。

 覚悟を決める。

 絵里が引いて、自分が押す。息を合わせ山道の入り口に一歩を踏み出す。


 陽が昇り切る頃に旅行鞄のキャスターが壊れて、そこから先が果てしなく長い。生温いお茶を口に含んで、潰れたサンドイッチを無理やり詰め込み終わると、道路脇の小さな木陰は底なしの泥沼よりも抜け出し難く思える。どうすれば立ち上がりもう一度前に進めるのか、あまりの難問で途方に暮れた。

「先輩、見てください。あたりシールです」

 隣ではしゃぐ絵里の無邪気な声が信じられない。

「……ねえ、絵里」

「はい、先輩」

「血が出てる」

 どうして彼女が笑えるのか、自分には理解できない。

 絵里の足首は酷い靴擦れを起こしていて、けれどそんなことは気付きもしなかったと言うように、ほんとだ、と絵里はまた笑った。

「でも、先輩が唾つけてくれれば治りますよ」

「何言ってんの、馬鹿じゃないの」

 顔を合わせることも出来ずに、視線を地面に溢したまま絵里の足にすがる。声が頭上から降ってくる。

「どうして先輩が泣くんですか」

 いつだって逃げ出していいのに、放り出したって何の不都合もないのに、一体何がここまで絵里を縛り付け執着させるのか。

 さも平然と絆創膏を貼り付けて、絵里はまた立ち上がろうとする。

「こんなことして、何の得になるの」

 どんな打算が、計算が、偏見や義務感や規範が、信条が、好意が、私たちの間に私の知らないどんなものが挟まれば、彼女にこんな振舞いを選ばせるのだろう。

「何もないよ。私には何もない」

「わたしが居ます。先輩が大好きなので」

 好きという感情が、どうすればこんなにも人間をひたむきにするのか、それがわからなかった。こんなにもみじめな自分を、絵里は好きだと言ってくれる。こんなにも汚れてしまった自分を、絵里は愛してくれる。

 この期に及んだって、悠華は絵里を愛おしくなど思っていないのに。溺れる者がすがる藁のように、きっと自分は絵里でない誰にだってすがってしまう。自分に代わって、彼女がすべての罪をひとりきりで被ってはくれまいかと、頭のどこかで考えてさえいる。

「先輩が今何を考えているか当てましょうか」

「…………」

 ただ、捨てられるのが何より怖ろしい。自分がこんな人間であることを見透かされることが恐ろしい。

 涙の残る頬を絵里の両手が持ち上げる。口付けるような距離でじっと目を合わせ、絵里は言い聞かせるように言葉を紡ぐ。

「絵里がだいすき。絵里が居なきゃ生きていけない」

 絵里は歯を見せて笑う。悪戯っぽく目を細めながら、立ち上がって背中越しに続けた。

「べつに今からだって、もっとわたしを好きになってもいいんですよ」

 その言葉に、返事が出来ない。

 誰かを好きだという気持ちがどんなものかなど、とうの昔に忘れ去ってしまった。


 *


 その空き地には古い家電や用途もわからない工作機械が山のように打ち捨てられ、錆びて折り重なる鉄屑が怪物のような重苦しさで視界に圧し掛かっていた。

「先輩、埋めるのはもっと奥にしましょう」

 鞄を曳いて、絵里が穏やかに言った。硬い地面に小さなスコップを突き立てて、ほんの少しの土くれを掬う。陽はもう随分傾いて、木々が落とす影と地面の凹凸はまるで区別が付かない。

 スコップを突き立てる。暗がりの中で穴を掘る。人を埋める穴を。這いつくばって、死体を収めるための穴に、自分の半身を差し入れて、繰り返し、何度も何度も掬い上げる。土は掬う端から、絵里がどこか遠くへ持ち去ってしまう。陽の当たらない穴の底は、なにひとつ判別の付かない暗闇で、この先に、人をひとり、置き去りにするのだ。人だったものを。私が人で無くしたものを。

 不意に暗闇が自分の身体を這い進んでくるように思えて、悠華は怯えて身を起こした。違う。陽が沈みゆくだけだ。

 山の稜線に夕陽が接して、急激に辺りから光が失われつつあった。

 小さな灯りを絵里が頭上に吊るす。自らの影が、穴の底に闇を落としている。

「……先輩、代わりますか?」

 顔を上げずに、頭を振った。

「掘るよ。自分で掘る」

 人間ひとりが収まる穴は途方もなく大きくて、けれど、いつか終わりがくるはずだった。終わりがあるからこそ、続けられる。


 暗さに慣れた眼を、木々の合間から光が貫いた。ふたつだ。差し込まれたのはヘッドライトで、通り過ぎる車は一台や二台ではなかったけれど、停車する車はそれが初めてだった。

 その軽トラックは空き地に突っ込むように駐車して、開いたドアから大柄な人影が下りる。点けっぱなしのヘッドライトの逆光でこちらからは人相もわからないが、その足取りは明らかにこちらに向いていた。

 姿を見られたのだと、腹の底が抜けたような恐怖が口を開けて奈落に繋がる。震える手が取り落としたスコップが穴の奥へと消える。

「先輩」

 冷静な声が囁く。

「お願いします」

 絵里の手が肩を軽く触れて、迷いのない足取りが遠ざかる。

「――こんなところで何をしてんだい?」

 年配の女の声だった。怪訝を含んだ問い掛けが真っ直ぐ投げ掛けられて、けれど絵里の声が動じることはない。

「あの。実は、ちょっと道に迷っちゃって」

「あらまあ大変だったねえ。麓まで送っていこうか」

 身を晒した絵里に、女性の言葉から疑いの色は消えたように思えた。こんな山奥まで車にも乗らず、徒歩で何かを捨てに来る若い娘など居るとも思わないだろう。

「あの。もうひとりいるんです。わたし、足が痛くて、ここに居るようにって、周りを見に行って。見ませんでしたか?」


 しばらくのやりとりの後、女性は絵里を助手席に乗せ再びトラックを走らせた。

 テールランプが視界から消えるまで待って、作業を再開する。車が戻ってくるまでに、死体を隠し通さなければならない。

 旅行鞄をひっくり返し、死体を穴に放り込んだ。ゴミ袋とガムテープの封印越しに、虚ろな目がこちらを見詰めていた。

 死後硬直で穴につかえる手足を、必死に押し込んでいく。死体になって初めて、彼に彼の人生があったことを想像する。押し込む手足はぞっとするほど冷たくて、脳裏に焼け付いた彼の体温を忘れることが出来たような気がした。

 後には、自分自身の悍ましさだけが残る。

 死体に土を被せた。息を切らせ、腕が痺れて、汗がこめかみを流れ落ちても、自分の罪に目の前から消えて欲しかった。

 穴を埋め終えたとき、自分が人殺しになったのだという実感が湧いて、絵里を乗せた軽トラが戻ってくるまでの間、ただひたすらに泣き続けた。


 *


「――まあ、泥まみれじゃない。綺麗な顔が台無しだわ」

 その親切な女性は、絵里と悠華に温かなカップスープを淹れてくれた。

 お湯で湿らせたタオルで顔の汚れを拭われながら、悠華は女性の顔を見上げた。

「頑張ったのね」

 そのたったひとことに、言い知れない罪悪感で圧し潰されそうになる。

 頑張ったのだ。この世の誰にも顔向けできないような所業を、這いつくばって泥にまみれてまでやり遂げたのだ。罪深く残酷な仕打ちを、ただ我が身の可愛さ故に。

 トラックの荷台へ直に座って、ガタガタと路面からの揺れを感じる。

 カップスープの熱が指先から芯まで染み入るようで、熱と共に優しさが染み渡るように思えて、どうしてもそのスープに口を付けることが出来なかった。自分にその資格があるとは、どうしても思えない。

『――警察は事件現場に残された大量の血痕が現在行方不明となっている――』

 運転席の背板越しに、車載のラジオが身に覚えのあるニュースを読み上げるのを聞いた。色を失った顔を、絵里が不思議そうに覗き込む。

「どうかしましたか?」

『――連絡の取れない――――ふたりが事件に関連しているとして――』

 ノイズを挟んでチューニングは陽気な音楽に切り替わる。凍えた心臓が少しずつ温度を取り戻して、その安心と安堵に嫌悪を抱いた。

「……なんでもない」

「先輩は、これから行きたいところとかありますか?」

 絵里が無邪気に尋ねる。

「わたしは先輩と一緒ならどこでも嬉しいですけど、やっぱり一番可愛い先輩が見れるところが良いですね。水着とか浴衣とか、あとは温泉とか。キャンプやバーベキューも良くないですか? ああでも、先輩が笑ってくれるならわたし、やっぱりどこへでも行きます」

 車が山中を抜け、頭上に大きく星空が広がった。何かを見つけた絵里がこちらの肩を揺すって、空を見上げ指差して笑う。

「見てください先輩、月が綺麗ですよ」

 夜闇の中でも、その横顔だけは輝いて見えた。

 それでもまだ、どうしたって死にたくはなかった。


 *


 喉元に突き付けた刃が、震えないやり方を覚えてしまった。

 カウンターの店員を拘束した後、絵里が持てるだけの食べ物と飲み物、いくらかのお金をナップザックに詰め込む間、店員から借りたスマホで自分たちの記事を斜めに読み飛ばす。非難一色だった世間の声は、ネットにふたりの顔写真が出回ったころから同情的なものに傾いていた。

 名門の女子校。道ならぬ恋。鳥飼の素行、現場のいわゆるヤリ部屋。隠れて手を絡める顔も判別できない短く荒い動画。傾いた実家と、勢力を伸ばしつつあった鳥飼の家。悲劇的に脚色されたいくつもの断片的な情報は、概ね正しい。訂正するべきことがあるとしたら、せいぜいがふたつだ。

 ふたりの少女が愛し合っているという大前提。

 悠華が望んでその現場に踏み込んだということ。


 *


 車を盗めたのは幸運だった。誰かの不運を糧にして、続けられる限りの旅路を続ける。人の少ない方向へ。人目を避けるように。当てのない逃亡劇に意味はない。

「先輩。わたし、もうずっとシャワーも浴びてません」

 助手席の絵里が呟いた。

 だったらどうしろというのだろう。無免許運転に必死で手が離せない。窓から身を乗り出した絵里に意識の向いた一瞬で早くも走路が怪しくなって、悠華は慌ててハンドルに意識を戻した。

「向こう、綺麗な川があります」

 窓から放り出されそうな運転を気にも留めずに、絵里は指さした。

 言われるがままに川縁で車を停めると、絵里は駆けながら器用に靴も靴下も脱ぎ捨てて、膝下まで川に飛び込んだ。

 振り返って先輩もと誘う声に、首を横に振って返す。

「大丈夫ですよ。ほら、こんなに気持ちいい。もし先輩が溺れても、ちゃんと助けてあげますから」

 絵里が両手を広げ、水滴が跳ねる。両手で掬った水をこちらに向けて飛ばして来る。まるで絵に描いたような青春の一ページを恥ずかしげもなく演じる笑顔を、斜に構え切った目つきで見つめ返していた。

 絵里は、今この瞬間だけが何よりも幸せなふたりで居たがっている。その姿を、この先の知れ切った結末を思いながら冷めた目で見る。

 本当の自分を隠すこと。誰かが求める通りに生きること。人を殺すほどに嫌だったはずのこと。

 けれど今更、すがるものを失うよりはましだった。

 冷たい清水へ引きずり込まれる。ふたりで深みに足を取られて、頭の先まで水びたしになる。絵里の望む通りに。

 指を絡めてふたりで笑い合う。不安も軽蔑も呑み込んで、今この瞬間が世界のすべてという顔をする。

 この期に及んでもまだ、自分は何かの振りをしている。


 *


 川岸には誰かが立てた粗末な道具小屋があった。

 人が入らないよう扉をつっかえて、そこで服を乾かすことにした。

 隅に積み上げられたガラクタの中から一斗缶とライターを見つけて、けれど可燃物の類は小屋には見つからず、何か燃えるものを車から持ってくることにした。

 髪から水を滴らせながら、片っ端から車内の燃えそうなものを搔き集めた。リアガラスに吊るされたぬいぐるみに手を掛けて躊躇って、結局持って行くことにする。

 こうして並べてみると、車の持ち主がどんな人物だったのか、ありありと目に浮かぶようだった。きっと彼らは幸せで、車泥棒の不幸も乗り越えて、これからも幸せで居続けるのだろう。

 その幸せの青写真を順番に火に焚べた。

 少し古い結婚情報誌に、戸建ての分譲住宅の広告。式場のパンフレット。るるぶ。抱かれた小さな姉弟の写真。七五三。良血の犬。雪だるま。手料理。南国の海。お洒落な洋服。祭りの屋台。ぴかぴかの愛車。ふたりの新生活。

 燃え盛る炎はいつか手が届くかもしれなかった光景を貪欲に灰にして、ひとときの熱に変えてゆく。

――あなたには幸福になる義務があるの。

 母は口癖のように悠華にそう言い聞かせた。

 広い家。最新の家電。一揃いの家具。仕立ての良いスーツ。機械仕掛けの時計。両親が幸福と呼ぶ品々を見下しながら、どうしてその言葉だけは真に受けてしまったのだろう。

 父と母の幸福をなぞって、いつか同じものを手に入れるのだと、表向きは反発しながら、心の底では受け入れきっていた。

 今は絵里とやっている恋愛の真似事をいずれ別の男とこなして、いつかは幸福に浸されて生きていくのだ。大真面目にそう考えて、事実自分は鳥飼を誘惑してみせたのだ。

 抑えきれない吐き気と眩暈。

 肩の触れ合う濡れ髪の絵里が、瞳を輝かせて悠華を覗き込んでいた。

 だから、その柔らかな唇に、不意打つように口付けた。


 何故そんなことをしたのか、自分でも上手く理解が出来ない。けれどそうすべきだと思ったのだ。そうせずにはいられなかった。それが何よりも安易で楽な逃げ道であることを、打算に研がれた鼻が嗅ぎ付けたとき、悠華の身体はあまりにも容易く動いた。

 鳥飼には出来なかったことが、今の自分は、絵里になら出来る気がした。

 目を丸くして硬直した絵里を、押し倒して覆い被さる。裸体に巻いたふたり分のタオルがはだけて床にずり落ちた。

 細い手首を掴んで、まるで犯すように身体を差し出す。心臓は高鳴り顔は火照るのに、指先は痛いほどに冷え切って感覚さえ鈍い。

 絵里は、どこか勝ち誇るような目をしていた。

「……先輩は女の子になんて興味ないでしょう?」

 冷ややかな視線が、抑え付ける腕の下から悠華の目を貫いて、腹の底まで縫い留める。恐怖に震える悠華を絵里は秋波ひとつで指先まで縛り上げて見せた。 

――あなたがわたしを愛していないことくらい、わたしは初めからわかっている。

 ありありと顔に書かれた彼女の本音に、うろたえて、逃げ出したくなる。けれど竦んだ手足がそれを許さない。

 自分の浅はかさを呪う。身体をちらつかせれば、ひとたまりもなく食い付くとでも思っていたのか。自分を価値のない存在だと嘯いて、そのくせどんなに自分の身体を買い被っていただろうか。

「……でも、絵里はあるでしょう」

 震える声の、すがるような呟きを絵里は愉しそうに嗤った。

「ありませんよ」

 伸びてきた指が頬に添えられて、ゆっくりとせり上がってくる絵里の唇が、蒼褪めた悠華のそれに重ねられる。ひどく淡白な口付けの、その恐ろしさに涙さえ流した。

「さあ、先輩。良い子だから服を着ましょうね。風邪を引いたら大変ですから」

 肌着を着せる手に幼子のように従う悠華を、絵里は慈母のように抱き締めた。

 わたしは絵里に興味がない。

 絵里はわたしに興味がない。

 当たり前のことなのだ。卒業までの疑似恋愛だなんて、そんな下らないおままごとで、あの冷酷なカースト制に支配された陰惨極まる学園生活を潜り抜ける地位が贖えるのなら、誰だってそうする。自分だってそうした。

 絵里がそうでないと、どうして言えたのだろう。


 けれどそれでもわからない。

「だったら、どうして私を見捨てなかったの」

 悠華の知るどんな打算も、計算も、偏見も義務も規範も信条も、未来のない人殺しに肩入れする理由にはならないはずだった。それでも絵里はここにいる。彼女をこうして悠華と共に堕ち逝かせる何かがある。

 それが愛でないとしたら、それはいったいなんだというのだろう。

 薄暗がりで、絵里が優しく口を開く。

「一度だけ、先輩を助けると決めたからです。わたしはもう二度と、わたし自身を嫌いたくなかった」

「なんで」

「先輩が、わたしを助けてくれたから」

 そのとき初めて、服に隠れた絵里の素肌を見た。醜く爛れた火傷の跡。半身を覆うように一面に広がるそれに目を奪われた悠華を、絵里は可笑しくて堪らないというように目元を歪め、そしてこう言った。

「なんだ。知らなかったんですか?」

 彼女が肩を露出する服を着ているところを見たことがなかった。彼女に興味がなかったから、見たいとも思わなかった。

「だから皆、遠ざけてたんですよ? わたしのこと、嫌いになりましたか?」

 違う。そんなことはない。小さく、けれど必死に首を横に振る。そんなことで、絵里を嫌いになったりしない。

――だから絵里も、私を嫌いにならないで。

 怯える悠華の頭を、絵里の手が優しく撫でる。

「大丈夫。先輩のこと、大好きですよ。先輩が嘘吐きでも、わたしにこれっぽっちも興味が無くても、わたしを助けてくれたのは先輩だったんです」

 絵里の両手が悠華の手を取る。自分の傷跡に愛おしそうに悠華の指を這わせる。

「こんなわたしに手を差し伸べてくれたのは先輩だけだった。どんなに嬉しかったかわかりますか。ほんとうの意味でひとりになることが、どんなにつらいことか分かりますか。いいですか、わたしたちは、ぜったいに、ひとりになったりしないんです」

 絵里が抱き締め、耳元で囁く。

「わたしには先輩しかいないし、先輩にはわたししかいない。わたしたちには、わたしたちしかいないんです。だから、わたしたちはお互いにとって、この世で一番掛け替えのない相手なんです」

 本当の自分を隠すこと。

 誰かが求める通りに生きること。

 悠華が見たことのない絵里が、ひどく投げやりに笑った。

「べつに、それでいいじゃない。ねえ?」


 *


 山間に渡されたその高架道路は未だ未完成で、遥か下の谷底まで続く落下を阻むものは、薄っぺらい進入禁止の置き看板の群れしかない。

 その看板よりも多くのパトカーのサイレンがふたりを谷底へ続く終わりへと追いやっていた。

 車を捨てて、よっつのつま先を断崖からはみ出させて、手を繋いで身を寄せ合う。天国や地獄で一緒だとか、そんな馬鹿げたことを本気で信じてはいない。どうせ死ぬならふたり分の勇気の方がずっといい。それだけの話だ。

 ひとりで死ぬには勇気が足りないから、ふたりでいるのだ。

 欠落と窮乏、不足と不全だけが本当の意味で私たちを繋ぎとめる絆に成り得た。

 はじめから、あまりにも足りなかったから。

 それでもふたりいるなら。不必要なものすべてそぎ落として、必要なものさえふたりで一揃えだけ残して捨てて。幸福。未来。すべてと引き換えになら、ふたりで完璧になれるのかもしれない。

 一瞬だけ、隣に目を向ける。

 こちらを向くことのないその横顔を記憶に残して、また前を見る。それでいいのだ。互いを見詰め合うのではなく、同じ先を見たい。たとえそれが避けられない終わりだったとしても。今までばかみたいに指を絡めてきたくせに、こうして手を握るのははじめてのような気がした。

 もう何もいらない。

 けれどひとつだけ知りたい。

――私は、絵里とともだちになれただろうか。

 逃避行の末に手を取り合って心中する恋人にしてはひどく遠い関係だけれど、私にもまた、ともだちと呼んでいい人ができただろうか。

(私はね。何とかあなたと友達になれたと思ってる)

 口にするのは怖くてできないから、繋いだ手の感触で、そう信じることを許してほしい。願わくば、最後の瞬間だけでも同じ気持ちでいてほしい。

 ふたりだけの逃避行の終わり、言葉は要らない。その一歩を一緒に踏み出す。

 前だけを見る。

 走馬灯だって置き去りの速度で地面が近付く。

 手を握る。

 前だけを、



 *



 あなたが殺した。

 世界が輝いていた。

 あなたが男を殺した。

 世界は輝きを失ったから。

 決して許されないことがある。

 わたしを生贄にして逃げ延びるなら、それで良い。一生残る傷になれる。

 わたしに恋してなどいなくたって、それで良い。愛には沢山のかたちがある。

 あなたにはずいぶん純情なところがあるから、こうしてわたしを愛してくれることははじめからわかっていたのだ。

 だからあなたがいずれ、将来のために男を咥え込む前に。社会に毒され男を誘うその前に。不貞を気取る純情の内に、わたしたちの間に男を挟んだのだ。

 あなたが震えるその部屋に踏み込んだとき、世界のすべてはもう一度輝いた。

 さあ、ふたりで旅に出よう。

 愚かなあなたの王子様。もういらない。穢された過去など、何の意味があるだろう。わたしたちが本物になるための、たったひとつのやり方の前で。

 ふたりを阻むものは、すべて消えて無くなればよかった。

 わたしとあなたの間には、何もいらない。

 何ひとつ。幸福も。身も心も。過去も。未来も。今この瞬間さえ。

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