第10話 三つ巴の路地裏
路地の奥から、低い唸り声があがった。少女の背後――自販機の裏あたりである。
武彦はその声に、前に出る足を止めた。
自販機の裏から、一匹の白い犬がのっそりと姿を見せた。ただの犬ではなかった。小牛ほどの大きさがある巨大な犬だ。
少女は自分の隣に従うように立ったその犬の頭を、怖がる素振りを見せずに優しく撫であげる。
「な、な、なんだよ、その犬は……。お、お、脅かそうと思っても無駄だぜ――」
武彦は手にしたビール瓶を犬の方に向けた。だが、本人の意思とは逆に、腰が完全に引けていた。
「ねえ、ケンタ。二人が遊びたがってるみたいよ。いっぱい遊んであげたら」
少女の声に初めて感情が生まれた。まるで親しい友人に語りかけるような優しい口調である。
少女の言葉に、巨大な犬が反応した。武彦にゆっくりと近付いていく。低い唸り声が、さらに低く獰猛な響きを帯びる。
「た、た、たかが、犬ぐらい……どうってことないぜ……」
言葉とは裏腹に武彦は自分でも知らぬうちに後退りしていた。
巨大な犬が一声吠えあげた。人間に飼われている犬が出す声ではなかった。野性の獣だけが持っている野太い吠え声だった。
「ひひひぃぃぃっ!」
武彦はついに悲鳴をあげた。強がりが通じる相手ではなかったのだ。逃げ出したかったが、犬との距離は五メートルもない。背中を見せた瞬間に飛び掛かってこられそうで、逃げることはおろか、その場から動くことも出来なかった。
非好意的な目で武彦をにらみつけていた犬の体に、突然、凄まじい変化が起きた。白い毛並みがうっすらと蒼味がかっていき、数秒もしないうちに、体毛すべてが蒼白く光り出した。鋭利な目はさらに細長く尖っていき、唇の端が大きく裂けていく。そこから異様に長い牙が姿を見せた。変化というよりは、変身といってもいいぐらいの変わりようだった。
「な、な、なんだよ……。コ、コ、コイツ……バ、バ、バケモノじゃねえかよ……」
武彦は顔をこわばらせた。武彦の背後にいた伸吾は、白く変色するほど強く下唇を歯で噛み締めている。
バケモノと化した巨大な獣が動いた。なんの予備動作もなく、武彦に向かって飛び掛かろうとして――。
「お取り込み中のところ失礼するよ――」
緊迫した場面で、あまりにも不似合いな軽い声が横入りしてきた。真剣な芝居をしている舞台に、いきなり大根役者が闖入してきたかのようだった。
武彦に飛び掛かりかけた犬が、少女の隣に戻っていく。外見は一瞬の内に、元の犬の姿に戻っている。
「あれあれ。なんだかお邪魔みたいだったかな」
声とともに姿を見せたのは──成明だった。ごく自然な足取りで路地に入ってくると、少女と武彦との間に立つ。
「君たち二人に話を聞きたくて学校から尾行させてもらったら、まさかこんな特別な犬に出会えるなんて。最近、不幸の女神にまとわりつかれてまいっていたけど、今日は幸運の女神さまが微笑んでくれたみたいだ。これも日頃の行いが良いせいかな」
成明は武彦と伸吾の顔に目をやり、次に巨大な犬を興味深そうに見つめた。
成明の登場に、だが、三人は沈黙のままである。
「うーん、誰も話がないようなら、ぼくから話をさせてもらうよ。――君たち二人からは、ぜひとも土屋学くんの交通事故について話を聞かせてもらいたいんだけど、ダメかな?」
成明の言葉に、伸吾は露骨に顔をそむけた。
「――そんなの知らねえよ。だいたい死んじまった人間の話なんて、今さら聞いてもしょうがねえだろ」
「なんとも友人思いの言葉だね。では、もう一人のきみは――」
「おれだって……なにも知らねえよ……」
武彦もすぐに答えた。さきほど見たバケモノ犬の恐怖による呪縛がまだ抜け切らないため、顔はこわばったままである。
「昨日は土屋くんのお葬式があったから、君たちから話を聞けなかったけど、今日もダメみたいだね。もっとも、その間にお仲間が一人減って、話を聞く手間が省けたけどね」
成明はさらっと人の生死の話をした。
「…………」
「…………」
伸吾、武彦、ともに沈黙。
「どうやら、こちらの二人は口がかたいみたいだ。――それではきみから話を聞こうかな」
成明は次に少女の方に向き直った。
「その犬について教えてもらえるかな? 普通の犬とは大きく違うような気がするけど。ぼくが調査している幽霊犬に関係がありそうな――」
「――あなたに話すことはなにもないわ」
成明の言葉を最後まで聞くことなく、少女は表情のない声で言った。
「みんな話してもらえないというのでは困るな」
成明は困っている風には全然聞こえない口振りで言った。顔だけ見ていると、今の情況を楽しんでいるようでさえある。
「悪いけど、部外者はここから出ていってもらえるかしら」
「ぼくも仕事でここに来ている身なんでね。そう簡単に引くわけにはいかないんだよ。怖い年上のお姉さんにも報告をしないといけないし」
「そういうことなら勝手にしたら。でも巻き添えを食って、怪我をしても知らないわよ」
「それはどうかな。――こう見えても、実は案外と強いかもしれないよ、ぼくは」
成明はぞくりとするような笑みを口元に浮かべた。顔立ちが端正なだけに、凄味さえ感じられる微笑だった。
「――――!」
一瞬、少女の表情がかたまった。
「――誰だか知らないけれど、そういうつもりならば、こっちも容赦しないわよ」
成明と少女の間に、緊迫した空気が生まれつつあった。だが、両者の間の緊張がピークに達する寸前に、場に動きが生じた。
路地に立つ店のシャッターが、錆付いた音をあげながら開き始めたのだ。その場にいた全員の目がシャッターに向けられる。
次の瞬間――。
「タケヒコ、逃げるぞっ!」
伸吾は元来た道を走りだした。武彦も伸吾の後にすぐさま続く。
成明が二人に目を向けたときには、二人の姿はすでに路地から消え去っていた。視線を少女に戻すと、そこに少女の姿はなかった。巨大な犬の姿もない。
「やれやれ。どうやら『二兎を追う者』になっちゃったかな」
つぶやく成明の顔を、ちょうどシャッターの下から顔を出した、その店の従業員らしき若い女性が、とろんとした目で見つめていた。
「えーと、なにかあったの……?」
その目と同じ、とろんとした声で訊いてくる。
「いえ、ちょっと立ち話をしていただけなので、ご心配なく」
成明はジャケットの内ポケットから白い短冊状の紙切れを一枚取り出すと、それを伸吾と武彦の逃げた方に向かって投げた。
「
物理法則に従えば地面に落ちるはずの紙切れは、成明の詠唱を合図にして、空中であるひとつの形へと変化していった。それは紛れもない一羽の烏であった。烏は一声鳴き声をあげると、成明の視界の外へと飛んでいった。
成明は烏に変じた式神の行方を確認するようにうなずくと、路地から出ていこうとした。
「――ねえ、良かったら、お店で遊んでいかない?」
女性は成明のことをずっと見つめたままである。その目はまだとろんとしている。
「せっかくだけど、この後まだ仕事が残っているので――」
「だったら、仕事が終わってからでもいいから寄ってよ。お店はエッチなサービス禁止なんだけど、あなただったら特別サービスしちゃうから」
「なんとも魅惑的なお誘いだね」
「じゃあ、寄ってくれるでしょ?」
「そういうことなら、頑張ってすぐに仕事を終わらせてくるよ。でも、その前に寄り道をして、準備をしておかないと」
「それじゃあ、あたし、ずっと待ってるからね」
女性の目は最後までとろんとしっぱなしだった。
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