犬神編
第0話 迷子の子犬
いつもはいるはずの小さなトモダチがいなかった。てっきりひとりでどこかに遊びに行っているのかと思ったが、すぐにそんなはずはないと思い直した。
トモダチは脚を怪我しているのだ。右の後ろ脚だ。歩けないことはなかったが、片脚を引きずって歩く姿は見ていてとても痛々しかった。一週間前に初めてこの公園で会ったとき、すでに後ろ脚を引きずっていた。
はじめは怯えて体を震わせていたトモダチも、しだいになれてきて、今では学校帰りに美樹が姿を見せると、それを待っていたかのようにきゃんきゃんと可愛く鳴き声をあげて、しっぽをうれしそうに振りながら出迎えてくれるまでになった。
それが今日に限って、なぜ出迎えの姿を見せないのか?
美樹はこの四月に川崎市に引っ越してきたばかりだった。それまで暮らしていた土地との違いのせいか、あるいは引っ込み思案で人と話すのが苦手な性格のせいか、通っている中学にはまだ友達と呼べるような存在はいなかった。
そんな美樹にとって懐かしい故郷の匂いを感じさせてくれるあの小犬は、川崎に来てから初めて出来たトモダチだった。
昔から美樹はどういうわけか犬によく好かれる方だった。美樹が七歳のとき、近所で飼われていた土佐犬が突然激しく暴れだしたことがあった。飼い主でさえ手を付けられない興奮状態の土佐犬が、七歳の美樹が軽くすっと頭を撫でてやると途端に大人しくなった。 周りでその様子を見ていた大人たちは、この子は将来サーカスの猛獣使いになれるぞ、と冗談まじりで言った。
とにかく故郷にいたときは、いつもそばに犬がいた。それは飼い犬のときもあれば、どこからともなくひょっこりと姿を見せる野良犬のときもあった。美樹も犬が大好きだった。
そんなある日、美樹が家の庭で犬とじゃれあっていると、その様子を見ていた祖父がひどく恐い顔をして、美樹は犬のいない所で暮らした方が幸福になる、と突然言い出した。古い慣習が今も残る美樹の故郷では、家長である祖父の言葉は絶対である。美樹は祖父の言葉に従って、中学進学と同時に両親とともに川崎市に引っ越してきたのだった。
引っ越し先の家は公営マンションで、当然ペットを飼うのは禁止だった。そんな中、学校からの帰り道の公園で、脚に怪我をした子犬と偶然出会ったのである。
「ケンタ。ケンタ」
美樹は自分が名付けた子犬の名前を呼びながら公園のまわりを捜した。
「ケンタ。ケンタ。どこにいるの」
美樹の呼ぶ声に、近くの滑り台で遊んでいた三人の幼稚園児が近寄ってきた。
「おねえちゃん、あのこいぬのこと、さがしているの?」
先頭に立っていた六歳くらいの男の子が、舌足らずな声で聞いてきた。
「うん。そうなの。ぼく、もしかしてあの子犬のこと知っているの?」
美樹は男の子と視線が同じ高さになるようにしゃがみこんだ。
「うん。ぼく、しってるよ。あしをけがしているこいぬでしょ?」
「そう。その子犬よ!」
思わず美樹の声が大きくなった。
「あのこいぬ、かわいそうだよね。あしをひきずっていて、すごくいたそうだった」
一人だけいた女の子が小さな声で言った。
「うん。そうなの。車にはねられちゃったみたいなの」
美樹は女の子の方にも顔を向けた。
「それでね。お姉ちゃん心配で、あの子犬の世話をしているんだけど、いつもはダンボール箱の家にいるはずなのに、今日はどういうわけかいないの」
「おねえちゃんが、こいぬのせわをしているのしってるよ。あたし、なんどもみたことあるから」
「その子犬なんだけど、どこに行ったのか、みんなの中で知っている子はいないかな?」
美樹は三人の顔を順番に見つめた。三人の中で一人だけ美樹の視線から逃げるようにしてうつむいた子供がいた。今まで話に加わらないでいた男の子である。
「ぼく、ひょっとしてなにか知っているのかな?」
美樹はその男の子を恐がらせないように、努めて穏やかな口調で訊いた。
男の子は足元の地面をじっと見つめたまま、黙り込んでいる。
急かすのはいけないと思い、美樹もじっと待つことにした。口を開いたのは、最初に話し掛けてきた男の子だった。
「おい、サトル。おまえ、あのこいぬのことしってるんだろ」
黙ったままの男の子――サトルの肩を軽く押した。
「そうだよ。サトルくん、さっきしってるって、いってたじゃん」
女の子も加わった。サトルは黙ったままである。小さな両手の拳は、なにかに耐えるように固く握り締められていた。
「なあ、サトル――」
男の子が少し強い口調で言うと、サトルの足元に透明な雫がぽたりと落ちた。
「サトルくん――」
女の子がなにか言おうとするのより先に、美樹はサトルに話し掛けた。
「ねえ、サトルくん。あの子犬のことを知っているのなら、お姉ちゃんに教えてくれるかな。お姉ちゃんね、あの子犬のことが、すごく心配なの。ほら、あの子犬、脚を怪我してたでしょ。だから、一人じゃ、ごはんも探せないの。お姉ちゃんが世話してあげないとだめなの。きっと今頃、一人でさびしく震えていると思うから。だから、お願い。サトルくん、なにか知っているのならば、お話してくれるかな?」
「――だって、もう、いないんだもん……」
サトルがぽつりとつぶやいた。
「えっ……」
思いもかけない返答に、美樹の喉から声が突いて出た。
「つれていかれたんだ……。ユウタとさとみちゃんがこうえんにくるまえに……」
さらにサトルが続けた。
「なんだよ。サトルはそれをだまってみていたのかよ」
男の子――ユウタがトオルに詰め寄った。
「だって、だって……。ママがこうえんではいきものをかってはいけませんって、いってたから……。だから、ぼく……」
「いっしょにかおうって、やくそくしたでしょ」
女の子――さとみが怒った顔を見せた。
「ぼくだって、あのこいぬ、すきだったよ……。だけど……ママにおこられるから……」
サトルの足元に落ちる雫が、勢いを増していた。地面の上に、涙で出来た池が黒く広がっていく。
美樹はサトルの言葉を聞いた瞬間、子犬が保健所の職員に捕まったのではないかと考えた。捕まったとしたら、その先にあるのは安楽死――。
「ねえ、トオルくん。子犬を連れていったのは、どんな人たちだったの?」
美樹はトオルにせき込んで尋ねた。
「ぼく、ママがいったから……だから……だから……」
トオルは友達との約束を破ったことで、すっかり落ち込んでしまっていた。美樹の話を聞く余裕すらない。
でも美樹も誓ったのだ。あの怪我をした子犬を見たとき、この子はあたしの手で絶対に守ってみせると。
「大丈夫。トオルくんは悪くないよ。ママの言ったことは正しいんだから」
美樹はトオルの気持ちを思いやるように言った。
「……ほ、ほ、ほんとうに……? ぼく、わるく……ないの……?」
トオルは涙でぐちょぐちょの顔で美樹を見上げた。
「うん。悪くないよ。だからね、あの子犬がどんな人たちに連れていかれちゃったのか、お姉さんに教えてくれるかな」
「うん……分かった……。あのね、おにいちゃんたちが、よにんくらいいたかな……こいぬをつかまえて、つれていっちゃったの……」
「お兄ちゃん……?」
美樹はその場で凍り付いた。ここ一ヵ月、新聞を賑わしているある忌まわしい事件のことが脳裏に浮かんだのだ。もしも子犬を連れていったのが、あの事件を起こしている犯人だとしたら――。
「でも、そんな……」
美樹の膝ががくがくと震えだす。その震えはすぐに全身に行き渡り、立っているのもままならいほどだった。だが、ここで倒れるわけにはいかない。あの子犬をなんとしてでも見付けないと。
「トオルくん。そのお兄ちゃんたちは、どこに子犬を連れていったのかな?」
美樹はトオルの両肩に手を置いて瞳をじっと見つめた。
「……あのね……あっちの、ほうだよ……」
トオルは涙混じりの声で言うと、可愛らしい小さな指を、公園の隣にある神社の方に向けた。
「分かったわ。神社につれていかれたのね。――ありがとう。トオルくん」
「……おねえちゃん……あのこいぬ、だいじょうぶだよね……? ぜったいに……だいじょうぶ……だよね……?」
トオルが濡れた目で必死に訴えかけてくる。ユウタとさとみも、同じような表情で美樹の顔を見つめてくる。
「――大丈夫よ。お姉ちゃんが必ず子犬を取り戻してくるから」
美樹は三人を元気付けるように笑顔を見せた。
そう、大丈夫。ケンタは絶対に生きているはずだから!
――――――――――――――――
公園の隣には小さな神社が建立されていた。昔からこの土地にある古い神社で、その神社の敷地内に、市の緑地計画に従って、後から公園は造られたのだった。
美樹は公園から続く小道を通り抜けて、神社の境内に入った。普段から人の流れは明るい公園の方に集中しており、境内の方に人の姿はなかった。
美樹が無人の境内をざっと見回していると、本殿の脇から四人の高校生が姿を見せた。
あいつらだ。
美樹は瞬間的に確信した。
四人組は、三人がそろってくすんだ茶髪をしていて、残りの一人は黒髪だった。茶髪の三人はワイシャツの胸元を大きく開けており、紺色のブレザーの制服をどこかルーズに着こなしていた。いかにも今時の高校生といった風である。なにをするのか分からない恐さがあった。汚い言葉で突っ掛かってきそうでもあるし、無言のまま冷たくにらまれそうでもある。
人付き合いが苦手で今だに都会の空気に馴染めない美樹にとって、一番苦手なタイプの相手だった。しかし、ここで引き下がるわけにはいかない。子犬の命がかかっているのだ。
美樹はうつむいてしまいそうになる顔をなんとか前方に向けると、四人の高校生に向かって歩いていく。
四人はすぐに美樹の存在に気が付いたようだった。その場で足を止めて、美樹がやってくるのを待つ。
震える足をなんとか前に出してやっと四人の前まできた美樹だったが、緊張と恐怖で言葉が出ずにその場で固まってしまった。
「――なんか用かよ?」
無言でいる美樹に対して、右端にいた高校生が訊いてきた。美樹の暗い雰囲気が気に触ったのか、つっけんどんな口調には、一辺の優しさの欠けらも感じられない。
「用がねえなら、そこどけよ。前が通れねえだろ」
すでにケンカ腰である。これ以上、場の空気を悪化させると、なにをされるか分からないという恐怖が美樹の心に生まれた。
ダメ。ここで負けたら、ケンタが――。
ケンタの顔を頭に思い浮かべる。胸の奥に温かい元気が生まれてきた。その元気に背中を押された。
「――あの、あたし……子犬を捜しているんです! 後ろ脚を怪我している子犬なんです!」
自分でもびっくりするくらいの大きな声を上げていた。
美樹の思い詰めた声に反応があった。四人はそろって顔を歪めたのである。左端の黒髪の高校生は特にひどかった。暗い影が顔全体を覆っている。
「――そんな犬、知らねえよ。ほら、そこをどけって言ってんだろうが!」
真ん中にいたリーダー格らしい少年が怒鳴り声を上げた。
「でも、公園にいた子供たちが、あなたたちが子犬を連れていったって――」
美樹は震える体を意識しながらも、必死に食い下がった。
「うっせんだよ! そんなに犬を捜したかったら、神社の裏にでも行って、勝手に捜せばいいだろう!」
「神社の裏……? ひょっとして……」
力なくつぶやいた美樹の声に、少年の怒りが爆発した。
「おまえ、なに勝手なこと想像してんだよ! おれは親切で教えてやったんだぜ!」
少年が美樹の肩を力強く押した。小柄な美樹はそのまま玉砂利の上に転がった。
「けっ、なにが子犬だ。気持ちわりい女だぜ。こんな女、放っておいて行こうぜ」
少年は倒れた美樹をそのままにして歩いていく。すぐに他の三人もその少年の後を追っていく。黒髪の少年が一回申し訳なさそうな表情で美樹に視線を向けたが、結局そのまま仲間といっしょに神社の境内から出ていってしまった。
ひとり残された美樹は右足を手で押さえながら静かに立ち上がった。右の膝を擦り剥いてしまい、そこから赤い血が流れ落ちていく。その右足を引きずりながら歩き出す。まるであの脚を怪我した子犬になったような気分だった。
足の痛みに耐えながら本殿脇を通って、神社の裏のうっそうと木々が広がる空間に入っていく。
林と呼べるほど広くはない。それでも木々の間に入り込むと、空から降り注ぐ太陽の光は、縦横に伸びる枝と葉に邪魔されて半分も地面に届かず、辺りは薄暗かった。
奥まった木々の底で、美樹は捜していた子犬を見付けた。
息が詰まった。猛烈な寒気を帯びた恐怖が、背筋をはい上がってくる。
この近所で、野良犬の死体が最初に見つかったのは一ヵ月ほど前のことだった。バラバラに切断された野良犬の死体は、この神社の敷地内にこれ見よがしに捨てられていた。これまでに四匹の命が失われている。
そして今また、その暗い爪が一匹の子犬に襲いかかったのだ。
前脚と後ろ脚は、脚の付け根の部分から切断されていた。ぴょこんと丸まった可愛い耳も両方切断され、地面に捨てられている。しっぽも切られている。真っ白でつやつやとした毛並みは、土とほこりで汚れており、腹のあたりの毛は真っ赤に染まっていた。腹部をなにかでばっさりと大きく切り裂かれていたのだ。出血はすでに止まっており、乾いた血が赤黒く固まっていた。
美樹は呆然としたままその場に膝をつくと、子犬の亡骸をそっと両手で抱き上げた。胸元に抱いて、その顔に頬を近付ける。昨日までたしかに感じることが出来たはずの優しい温もりが、今はまったく感じられなかった。
死、死、死、死、死、死、死死死死死死死死死死死死死死――――――――。
圧倒的な死の波が、圧力をともなって、美樹の心を押し潰そうとする。
美樹は叫んだ。死の波を押し返すように、ありったけの声で叫んだ。
「いややややぁぁぁぁーーーーーーーっ!」
美樹の絶叫に重なるようにして、どこからともなく犬の遠吠えが聞こえてきた。
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