第6話 暗いたくらみ

 深夜の病棟に二つの人影があった。藤巻と佐千代である。二人は辺りを必要以上に警戒しながら廊下を歩いていくと、昏睡状態の雅也が眠る病室に入っていった。


 病室のベッドの上に横たわる雅也。その表情には、なんの感情も浮かんでいない。


「院長、本当にやるつもりですか。私はまだ……」


 踏ん切りがついてない口調で佐千代は言った。


「この期に及んで、いまさらなにを言ってるんだ。君は立派な共犯者なんだぞ! ここでやらないと、わたしたちには未来がなくなるんだ!」


 藤巻は声量こそ小さかったが、高圧的に言い返した。


「でも、これをやったら、完全な殺人になって……」


「くだらん。この状態なら、なにが起こっても怪しまれる心配はない。例え、突然息を引き取ったとしてもな。我々が堂々としていれば、後から、いくらでも説明はつけられる。――さあ、見回りの看護師が来る前に、やってしまうぞ!」


 藤巻は人工呼吸器のスイッチに手を伸ばした。このスイッチを切ってしまえば、ここ数週間藤巻を苦しめていた悪夢はすべて終わる。


「なにを怖じ気づいているんだ。さっさとマスクを外す準備をするんだ!」


「は、は、はい……」


 佐千代が震えの止まらない右手を、雅也の口元に運んだ。口元を覆う呼吸マスクを外すのが、佐千代に与えられた仕事だった。


「同時にやるぞ」


 藤巻は指示を出した。


「いくぞ。いち、に、さん――」

 

 人工呼吸器のスイッチが切れる音と、呼吸マスクを外す音が、ほぼ同時にあがった。雅也の薄い胸元が二度、三度小さく波打ったかと思うと、それっきりピクリとも動かなくなった。


 二人の荒い息遣いだけが狭い病室を支配する。

 

「よ、よし。これで終わりだ。突然呼吸困難におちいって、この少年は亡くなった。そういうことだ。さあ、誰かに見つかる前に戻るぞ」


 藤巻は茫然と立ち尽くしている佐千代の体を無理矢理、病室のドアの方に向かせた。


「ほら、さっさと早く歩くんだ」


 藤巻たち二人が病室を出ていこうとしたとき――。



 ばさっ。



 二人の背後で音があがった。布団をまくりあげる音。だが、ベッドの上にいるのは、物言わぬ少年のはず。決して体を動かすことは出来ない少年のはず。


「い、い、院長……今、布団の音が……」


 佐千代の声はすでに恐怖色に染まっていた。


「ば、ば、ばかな……。ただの空耳だ……。不安定な心が勝手に作り上げた幻聴だ!」


 最後は小さく叫ぶように言った藤巻だったが、その体は小刻みに震えていた。



 ぬちゃり。



 また、音があがった。リノリウムの床に素足が触れた音。まるでベッドから人が降りてきたときにあげるような音。


「ひゃ、ひゃ、ひゃ、ひゃあ……」


 佐千代が喉の奥から声を漏らす。ドアに向かって走りだそうとするが、すでに佐千代の下半身は恐怖からくる怯えのために力が抜けていた。その場で足を絡ませてしまい、ばたりと床に倒れこんでしまう。 


 佐千代の背後にいた藤巻も、転倒した佐千代に巻き込まれる形で、いっしょに転んでしまった。



 ぬちゃり、ぬちゃり、ぬちゃり。



 再び、足音が聞こえた。その音は確実に、間違いなく二人の背後から近づきつつあった。


 先に精神が振り切れてしまったのは佐千代の方だった。突然、土下座の姿勢になると、頭を床にこすり付け始めた。


「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい! わたしは、わたしは、わたしは、反対したんです! でも、でも、院長が絶対に平気だからって……。この手術が成功すれば、この病院も有名になるって言うから……。だから、だから……」


 佐千代が必死に誰かに許しを乞うように叫ぶ。


「なにを自分ばかり言い訳をしてるんだっ! きさまも協力しただろうがっ!」


 藤巻は土下座をしている佐千代の体を起こそうと両手で引っ張るが、佐千代の体は床にくっついてしまったかのようにぴくりとも動かなかった。

 

「わたしはわたしはわたしはわたしはなにもしてないんですなにもしてないんですなにもしてない悪くない悪くない悪くない悪くない悪くない――――――――」


 見えない誰かに向かって、何度も必死に頭を下げる佐千代。恐慌状態におちいってしまった佐千代の言動は、完全に常軌を逸していた。床にこすり付け過ぎたのか、額からは出血しており、そこに脂汗と涙と鼻水と唾液が混ざり合い、狂気じみた様相を呈している。



 ぬちゃり、ぬちゃり、ぬちゃり。



 足音がさらに近付いてきて、不意に止まった。二人のすぐ背後で。


 見てはいけない。絶対に見てはいけない。


 二人ともそれは分かっていた。にもかかわらず、二人の頭は見えない手でむりやり動かされるようにして、背後に向けられていく。


 二人の視線の先にいた。



 あの日、医療ミスで昏睡状態におちいり、さきほど、その医療ミスを隠蔽するために、事故に見せ掛けて殺したはずの少年が!



「――――!」


「――――!」


 恐怖が頂点に達して、硬直する二人。


 うつむいていた少年の顔が、徐々に持ち上がっていく。二人の前に、表情のない少年の顔があらわになった。表情が感じられないのは、目蓋が閉じられていたからである。その目蓋がぴくっと痙攣したかと思うと、ゆっくりと開いていった。


 その動きに呼応するかように、二人の瞳も大きく見開かれていく。二人の視界に写しだされたものは――。

 

 少年の瞳の位置には、どこまでも底が見えない、漆黒の闇をたたえた空洞がぽっかりと開いていた。


 そこまでが二人の限界だった。


「うぎゃあああああああーーーーーーっ!」


「いやひゃああああああーーーーーーっ!」


 病室に二人の絶叫が響きわたっていった。



 ――――――――――――――――



「どうやら、終わったみたいだね」


 誰にともなくつぶやいた成明は、病室のドアの下に出来た隙間から飛び出してきた、一枚の紙切れを拾い上げた。


 人型に切られた紙――それは成明が作りあげた式神だった。院長と佐千代が見たのは、成明が式神で作り出したニセモノの雅也の幽霊だったのだ。陰陽師である成明ならば、この程度の式神ぐらいは簡単に使役出来る。


「さて、報告をしに行こうか」


 

 ――――――――――――――――



 香奈は二階の病室にいた。今日の昼前に成明から、安全の為に雅也のベッドを夜の間だけ別の場所に移動させておいてほしいと頼まれた。そこで空いていた二階の病室に雅也をベッドごと移動させて、そこで成明が来るのを待っているところだった。


「――入るよ」


 成明が病室に入ってきた。昼間見たときと表情はたいして変わらない。


「終わったの?」


 香奈はこちらから質問をした。


「ああ、終わったよ。予想通りというか、あまりにもこちらの考えていた通りの行動を起こしたから、笑いがもれそうになったけどね」


「じゃあ、やっぱり――」


「ああ、二人とも姿をみせたよ。夕方話をしたときに、それとなく前フリをしておいたら、見事、そのエサに食い付いたというわけさ。警察にはさっき僕から連絡をしておいたよ。院長と看護師長の二人も、これで言い逃れは出来ないだろうね。まあ、少し驚かせすぎたから、取調べには時間がかかるかもしれないけど」


 成明はポケットから取り出した人型の紙切れをひらひらと振って見せた。


「この後、雅也くんはどうなるの? もう大丈夫なの? また幽霊騒動とか起こしたりしない?」


「その点は心配ないよ。今から、抜け出してしまった雅也くんの魂を体に戻す作業をするから」


「そんなことが出来るんだ!」 


「医療ミスの件を追及したかったから、院長にはあえて言わなかったけどね。あの夜、雅也くんの光球を初めて見たとき、暴力的な気は一切感じなかったから、その場で作業するのはよしたんだ。真相が判明するまで、そのままにしておいても影響はそれほどないと判断してね。――さて、それじゃ、魂を元に戻す作業を始めようか」


 ベッド脇に立った成明は、左右の指で複雑な印の形を作った。


「闇にさ迷いしこの身の魂ぞ、在るべきところに戻りたまえ。急急如律令きゅうきゅうにょりつりょう!」


 朗々とした声で詠唱した。


 急急如律令とは、『急々に律令のごとくに行え』という意味の言葉で、それを陰陽師が詠唱の結びの言葉として、使用するようになったものである。


「これでもう平気なの?」


「ああ、大丈夫だよ」


 ほどなくして、病室のドアをすり抜けて、白い光球がふわふわと室内の中に入ってきた。光球は横たわる雅也の体の上で、ゆらりゆらりとさ迷っていたかと思うと、ようやく還るべき場所を見付けたかのように、すぅーっと雅也の体に吸い込まれていった。


「『魂戻たまもどし』の法だよ。これで無事に魂は体に戻った。魂が外に漂流しないように整えたら終わりだよ。もう幽霊騒動が起きる心配はないはずだから。あとは雅也くんの体の回復を待つしかないけど、こればかりは本当に神頼みになるかな」


 蒼白かった少年の肌に、徐々に血の気が戻っていく。その様子を成明は優しげな瞳で見つめるのだった。

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