第3話 式神

 成明はあたりに探るような視線を向けた。その視線が廊下の先に固定される。


 そこにいた。香奈と藤巻が見た、白く光り輝く人影が!

 

 まさにあの夜の再現だった。香奈の体が恐怖で震える。でもあの夜とは異なり、今は傍に力強い味方がいる。そう思うと、ちょっとだけ勇気が湧いてきた。成明の背中からちらっと顔を出して、一緒に廊下の様子をうかがう。


 成明はまだ行動を起こすことなく、目の前の情況を静観したままである。


「ふんっ!」


 鋭い呼気とともに成明が前方を凝視したまま、体に力をみなぎらせた。背後にいた香奈には、不意に成明の背中が何倍も広く大きくなったように感じられた。成明は肉体的な力ではなく、精神的な力をみなぎらせたのである。その見えない成明の精神力に香奈の精神は感化され、成明の背中が一瞬大きくなったように見えたのだった。


 廊下の先からゆっくりと人影が歩いてくる。その足取りはまるで重さを感じさせない。背中をそよ風に押されるようにしてゆらりゆらりと近付いてくる。


「薄いなあ。まるで作り物みたいだね」


 成明は人影を見つめたまま、口元にひっそりと微笑みを浮かべた。


「薄いって、なんなの?」


 成明の背後に隠れて安心しているせいか、香奈は体は恐怖に震えたまま、声だけはいつもの調子で言い返した。


 成明は香奈の質問に答えることなく、大きく息を吸い込むと、次の瞬間、吸い込んだ空気をいっぺんに吐き出した。まっすぐ人影に向かって。


 二人の眼前で魔法のような光景が展開した。


 廊下に立つ人影が突風にあおられた落ち葉のように大きくゆらめいたかと思うと、二人の眼前から姿を消したのだ。


 何事もなかったかのように平然とした表情で成明は廊下を歩いていく。香奈は目の前で起こった光景に茫然としたまま、それでも全自動で動くおもちゃのようにヒョコヒョコと成明の後に続いた。


 北側の階段付近で足を止めた成明は、そこで廊下の床に目を向けた。


「……ちょ、ちょ、ちょっと。……な、な、なんなのよ、いったい……。なにがあったっていうの……」


 成明に付いてきた香奈は、なにが起こったのか皆目検討もつかずに、興奮と恐怖がない混ぜになった気持ちをぶつけるようにして成明に説明を求めた。


「説明するのはいいんだけど、その前に探すものがあるから。話すのはその後にでも――」


 成明は床の上に視線をやったままである。


「探し物って……。そんなことより、あたしは話を――」


 成明と同じように床に目をやっていた香奈の視界に、白い紙切れが目にはいった。背をかがめて、じっくりとその紙切れに目を向ける。


 それはよくよく見てみると、丁寧に『奴さん』の形に折られた折り紙だった。


「ひょっとして探しているものって、この折り紙のこと――?」


 香奈はその折り紙に手を伸ばしかけた。


「危ない!」


 成明が声を発したのは、まさに香奈がその折り紙に手を触れようとした瞬間だった。


 再び、二人の眼前で魔法のような光景が展開した。


 ただの奴さんの折り紙が不意に床の上にすくっと立ちあがると、その大きさが見る見るうちに人の背丈ほどになっていき、同時に、人間の形に変わっていく。内側からは白い輝きが生まれていくその姿は、さきほど廊下に現れた人影に他ならなかった。


 想像だにしない現象に驚いて、香奈はその場で腰を抜かしたように尻餅をついた。為す術もなく、目の前の白く光り輝く人影を見上げる。


 人影が香奈の方に右手を伸ばしてきた。


「…………!」


 香奈は硬直したまま、自らに近付いてくる人影の手を凝視するしかなかった。


 この情況で素早く動いたのは成明だった。


青龍せいりゅう白虎びゃっこ朱雀すざく玄武げんぶ勾陳こうちん帝公ていこう文王ぶんおう三台さんたい玉女ぎょくじょ! 我の前に強き結界よ、出でよ!」


 成明は右手の人差し指と中指をそろえて刀身の形をつくると、詠唱しながら目の前の空間に縦に四回、横に五回、直線を引き、升目状の図を描いていった。


 人影の手が香奈に触れようとした。


 バチッ!


 空間に静電気のようなスパークが起こり、蒼白い光が薄暗い廊下を一瞬照らし出した。


 成明がとっさに唱えた『九字くじ』の術が、香奈の身を守ったのである。


 九字の呪法は古くは中国の道教から生まれた護身の術である。それが時を経て日本に伝わり、成明のような陰陽師、密教僧、修験者の間に広まっていった。それぞれの宗教、あるいは流派によってやり方は異なる。修験道を極めた修験者たちは、『りんぴょうとうしゃかいじんれつざいぜん』という九つの文字から成る真言を唱えることで術を使う。もっとも、詠唱の中身こそ違えど、邪気や災いを祓う呪法であるということは一致している。指先を剣先のように揃えて詠唱するところから、『九字を切る』とも呼ばれている術である。


 白く光り輝く人影は、九字の呪法により出来た見えない結界に阻まれて、香奈に手を触れられなかったのだ。


「さあ、次はどう出るかな?」


 成明の表情に緊張感はまったく感じられない。むしろ、この事態を楽しんでいるかのようにも見える。


 人影が再び動いた。全身で九字の呪法で出来た壁に体当たりをしてくる。空間に連続で蒼白い電気の放電現象が起きる。人影がむりやりに九字の呪法を破ろうとしているのだ。


「きみの力がどれほどのものか知らないけれど、生半可の力ではこの術は破れないよ」


 成明の声が聞こえたのか、不意に人影の体の表面に動きが生じた。白い光りの輝きに隠れていた顔に、表情が浮き出てきたのだ。


 泣いたような困ったような少年の顔が一瞬浮かんだかと思うと、次の瞬間、その顔は怒り狂った化け物の顔に一変していた。 


 それはまさに『鬼』の顔に他ならなかった。


「いやああああっ!」

 

 香奈は喉の奥から甲高い悲鳴をあげた。


「やれやれ、ここまで根が深いとなると厄介だな。ここは早々にお引取り願おうか」


 成明は刀身に模した右手を頭上に振り上げた。そして、まるで刀で袈裟掛けに斬り付けるように、人影に向かって右手を勢い良く振り降ろした。


 シュッ。


 カッターナイフで紙を切ったときのような鋭い擦過音があがった。


 人影の体に異変が起きた。右の肩から左の脇にかけて黒い斜線が走ったかと思うと、その斜線に沿って体の上下が左右にずれ落ちていく。


「きゃああああっっっ!」


 再度、香奈は喉の奥から絶叫を振り絞った。


 上下に切断された人影は、しかし血飛沫を一切あげることなく、一瞬にして煙のようにかき消えた。かわりに床の上には、体を半分に切られた奴さんの折り紙がぽつんと落ちている。


 その奴さんの上に、拳大ほどの白い光球がふらふらと浮いていた。なにかを探すような、あるいはさ迷うような不安定な動きをしていた光球は、しばらくするとそのまま廊下の端にゆらりゆらりと流れていってしまった。


 光球を目で追っていた成明は、その輝きが視界から消えてなくなると、床の上に落ちていた二つに別れた奴さんの折り紙を拾い上げた。


「ふんっ、式神しきがみの仕業か……。まさか、こんな病院で出会うとはね――」


 式神――人型に切った紙に偽りの生命を与えて、使い魔として自分の好きなように使役する、陰陽道の呪術のひとつである。


「――さて、この折り紙はいったいどこからきたのかな? そしてあの光球の持ち主は誰なのか? 話を聞きたいのは山々だけど、この状態では聞けそうにはないか――」


 成明が視線を向けた先に香奈はいた。前夜に引き続いて、香奈はまたもや強制的な眠りである気絶を起こして、床にくずれ落ちていたのだった。

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