第2話 怪異、再び
その日の深夜、問題の藤巻病院の三階病棟に青年の姿があった。昼間と変わらない黒コート姿で、何事かを確認するかようにゆっくりと廊下を歩いていく。
「――特に異常な気の乱れは無いようだけど」
つぶやきながら、さらに歩を進めていく。
病院のように人の生死と隣り合わせの場所などでは、往々にして、見えない澱のようなものが空気と混ざり合って、息苦しさを感じることがある。死が間近に迫った患者が入院する病棟などでは、その患者が発する負の気が病室からあふれて、それがまた別の患者の負の気と混ざり合い、その病棟を大きな負の気で包み込んでしまうのだ。
むろん、その気に触れたからといって、すぐに悪い影響が出るわけではない。普通の感覚しか持たない人間ならば、そのよどんだ気に触れても、気味が悪いと思うぐらいである。
逆に感覚が鋭敏な人間ならば――例えば霊感がある人間ならば、その気に触れると急に息苦しくなったり、頭痛や体の変調を訴えたりすることがある。それとて、死にいたるということはまずない。そこまで強烈な気の乱れというのは、そう滅多なことでは現われないからだ。
藤巻病院の三階によどむ気も、特に大きな害があるものではないと青年は判断した。放っておいても平気なレベルである。一連の幽霊騒動の原因としては考えにくかった。
「もう少し詳しく調査をする必要がありそうか――」
そこで不意に青年は足を止めて、中央階段に目を向けた。
「入院患者への夜這いなら明日以降にしてもらえるかな。ぼくへの夜這いなら24時間受け付け中だけどね」
深夜の病棟で、人を食ったようなセリフを平然と口にする青年だった。
「――なんだ、バレちゃったのか。ていうか、夜這いなんかするわけないでしょ」
声と一緒に、一人の女性が階段を駆け上がってきた。白衣に身を包んだ女性――看護師の奈良原香奈である。あの夜、不幸にも藤巻と一緒に幽霊に遭遇し、さらに不幸にも藤巻に先に逃げられて、さらにさらに不幸にも一人気絶してしまった香奈は、あの後廊下に倒れていたところを同僚に発見され、すぐに空いていた病室のベッドに運ばれたのだった。
「夜這いじゃなかったら、なにか他の用事でもあるのかな?」
青年の声には緊張感はまるで感じられない。
「あなたの方こそ、こんな時間にこんな場所でなにしているのよ?」
香奈は青年の質問には答えずに、興味津々といった表情を隠すことなく、逆に聞き返した。
「ぼくはここで深夜の肝試しを楽しんでいるところだよ」
「ちょっとバカにしてるの。あのね、あたしはこの病院の看護師なのよ。あなたのような不審者は見過ごすわけにはいかないわ。しっかりと説明してもらわないと困るのよね」
香奈は腰に手をやり、強気の姿勢を崩すさない。
「――――」
対して青年は――無言。
「――ちょっとあなた、本当に何者なのよ?」
香奈は青年の顔がしっかりと見える位置まで歩み寄っていった。
「あっ……」
思わず香奈の口から声がもれた。離れて見ていたときには、廊下の常夜灯が暗いこともあり気が付かなかったのだが、こうして近くで見てみると、青年の容姿がずば抜けて端整であることにようやく気が付いたのだった。
「あっ、あの……あたし……その……」
さきほどの今にも食って掛かっていきそうな勢いから一転、急に照れてしまう香奈だった。薄暗い廊下でも、香奈の頬が赤く色付いているのが確認できる。
「――
青年は短くそう名乗った。
「えっ……」
恥ずかしくて目をそらすようにうつむいていた香奈は、青年の声に再び顔を上げた。
「安倍成明といいます」
青年――安倍成明はゆっくりと繰り返した。
「アベノセイメイ……。あの……あたしは、奈良原香奈……」
「そうですか。では、ぼくはやることがあるので、これでさようなら」
成明はくるりと背を向けようとした。
「――ちょっと待って」
声よりも先に、香奈の右手は成明の腕をつかんでいた。
「あっ、ごめんなさい」
自分でも思ってもみなかった行動に、慌てて手を放して香奈はあやまった。
「まだなにかあるのかな?」
「え、だから、その……。あっ、そうだ。あなた、霊能力者なんでしょ?」
言葉に詰まった香奈は、頭で考えるよりも先にそう言っていた。
「どうしてそう思うのかな?」
「――あたしも院長と一緒に『アレ』を見たの……。あたしはそれで気絶しちゃって、その後のことは知らないけれど……。清美――あ、同じ看護師の友達が、院長の様子がおかしいって言ってたから、詳しく話を聞いたら、なんだか見慣れない人が院長室に入っていくのを見たって聞いて……。すぐにピンときたの。霊能力者を呼んだんじゃないかって」
「それで、ここで待ち伏せをしていたというわけかな?」
「まあ、そうなんだけど……。院長からはあなたの話がなかったから、きっとこれは黙っているつもりだなと思って。だったら、こっそり会ってみようかと……」
「では、きみはもう帰った方がいい」
成明の返事はにべもない。
「――えっ? ちょっと待ってよ。今のあたしの話を聞いてなかったの? だから、あたしも『アレ』を見たのよ。当然あたしだって当事者として、ことの真相を知る権利があるわけでしょ」
香奈は自分の立場を説明した。あの夜の一件は確かに恐くもあったが、真実を知りたいという欲求のほうが勝っていたのだ。一人だったらそんな危ないことに首を突っ込んだりは絶対にしないが、霊能力者という強い味方がいれば大丈夫だと思ったのである。
「残念ながら、君がいたら邪魔になるだけだよ」
「ジャ、ジャマって……」
「じゃあ、きみは自分で自分の身を守れるのかな?」
「えっ、あなたが守ってくれるんじゃないの? だって霊能力者なんでしょ? 普通、映画や漫画ではそうじゃない。か弱い乙女を守るのだって霊能力者の仕事でしょ」
「ここは現実の世界だよ。映画でも漫画でもないから」
「それは……そうだけど……」
返す言葉もない香奈だった。それでもなんとかこの膠着状態を打開すべく、生まれて初めてというくらいに頭をフル稼働させる。しかし、香奈の頭上で電球が閃く前に、事態が動きだした。
「おしゃべりの時間は終わりだよ」
成明が香奈に背を向けた。
「えっ――」
「ぼくの後ろにいて。決して離れないように。そこが一番安全だから」
「――なに? 急にどうしたの?」
このときになってようやく香奈も、廊下に満ちる尋常ではない雰囲気を肌で感じた。霊感のまったくない香奈でも分かるくらい、廊下に重たい空気がいつのまにか満ちていたのだ。もはや言い合いしているときではない。言われた通り、成明の背後に隠れる。
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