式神編

第0話 深夜病棟の怪

 午前0時を過ぎた深夜の病棟は、静かなざわめきの底にあった。


 消灯時間を過ぎても、スマホを離さずにネット閲覧に没頭する十代の入院患者。こっそりと持ち込んだ缶ビールで、ちびちびと晩酌を楽しんでいるおじいさん。なかにはノートパソコンを広げて、仕事の続きを励んでいる者もいる。


 しかし――三階だけは、他の階と明らかに様子が異なっていた。確かに入院患者の声は聞こえる。だが、それは深夜巡回の看護師の目を盗んで、こっそりと自分だけの時間を楽しんでいる者の声ではなかった。


 呼吸器官に大きな障害をかかえた患者の苦しげな息遣い。体の節々に生じる痛みを、じっとこらえる押し殺したうめき声。ベッド上に横たわる人間に取り付けられた、24時間休みなく動き続ける人工呼吸器の機械の動作音。この階にいるのはすべて、生と死の狭間で必死に生きようとする重病の患者たちであった。 


 看護師になって二年目になる奈良原香奈ならはらかなは、今でもこの三階の深夜巡回だけは慣れることができなかった。この階に入院している患者のすべてが、先行きが暗いというわけではない。病気が完治し、無事に退院した患者もいる。しかし大半の者は自分の足で元気にベッドを下りることなく、徐々に病魔に体を蝕まれていき、やがて静かな永遠の眠りにつき、物言わぬ姿となって家族の手に引き取られていくのだった。


 病院に死はつきものである。香奈も看護師としてそれは十二分に理解しているが、心情的にそれを理解して受け入れるには、まだ経験が遠く及ばなかった。

 

 それ以外にも、香奈がこの三階の深夜巡回に慣れない理由がもうひとつあった。最近、同僚達がでるらしいと噂をしているのだ。


 病院には必ずその手の怪談話のひとつやふたつは付きものである。香奈も、ここ藤巻ふじまき病院に勤め始めた当初、先輩看護師達からさんざんとこの病院にまつわる背筋が凍る怪談話を聞かされた。恐い話が苦手な香奈は、すぐにこの仕事を辞めようかと本気で考えたが、後で話の確認をすると、その話は全て新人に対しての脅かしだと聞かされて、ほっと胸を撫で下ろしたのだった。


 だが、ここ最近――正確には三週間ほど前から、本物の幽霊を見たという話が看護師達の間で広まっていた。


 最初はまた『ダマシ』かなと軽く聞き流していた香奈も、同期で親友でもある北河清美きたがわきよみまでもが『見た』という話をするにいたって、無視せざるをえなくなった。


 話の内容はすべて同じで、曰く――深夜、白く光る人影が三階の廊下を歩きまわっている、というものだった。その白い人影が本当に幽霊なのか、それともただの目の錯覚なのか、それは分かっていない。その白い人影の正体を積極的に調べてみようという粋狂な物好きは一人もいないからだ。今はただ、噂だけが一人歩きしているといったところだった。 


 幸い、まだ香奈自身はその幽霊らしきモノに遭遇していないが、だからといって気持ちが安らぐということはなかった。


 今夜も恐怖と不安が半々に混じった気持ちを抱いたまま、三階の深夜巡回へとやってきたところだった。



 香奈は廊下の左右に並ぶ病室から聞こえてくる、患者の声と機械の音に細心の注意をはらいながら、廊下を気持ち少し早足になりつつ、反対側にある階段へと向かって歩いて行く。


 今のところ異常はない。この階の入院患者は全員重病である。幽霊のことがあるとはいえ、恐いからといって巡回をおろそかにするわけにはいかない。


 ちょうど廊下の中央付近に来たところで、香奈の足が止まった。各階には廊下の左右と中央に階段があるのだが、中央の階段から物音がしたのだ。


 香奈は中央の階段に足を向きかけたが、そこで最近の幽霊話の噂を思い出してしまった。


 もっとも、看護師としてこのままでいるわけにはいかない。勝手に病室を抜け出した患者が、階段で倒れている可能性だってないわけではない。

 

 大丈夫。大丈夫。大丈夫。

 

 心の中で三回、早口で呪文のようにとなえると、エイッとばかりに前へと足を踏み出した。


 始めの一歩が出ると、次の一歩はスムーズに出た。恐怖からくる呪縛を勢いで力任せに吹き飛ばして、物音のした階段付近まで足を運んで、辺りを目で確認する。


 常夜灯に照らし出された階段には、特にこれといった異常は見当らない。患者が倒れているということもなかった。


 香奈はふうーっと軽く安堵の息をつき、再び巡回に戻ろうとした。


「うぉっ!」


 突然、背後から低く太い声がして、右肩を強くつかまれた。


「――――!」


 声さえ出ないくらいに驚いた香奈は、右肩をつかまれたまま、勢い良く走りだそうとした。


「驚いた? 僕だよ僕」


 楽しげなその声を聞いて、体の動きをぴたっと止めた。そのまま後ろに振り返る。


「院長先生。もう、こんな真夜中に驚かせないでください!」

 

 香奈は聞いた瞬間に分かった、その声の主に向かって怒ったように言った。


「いやあ、ごめん、ごめん」


 藤巻病院の若き院長である藤巻俊幸ふじまきとしゆきは言葉とは裏腹に、いやらしいにやにや笑いを口元に浮かべたまま香奈を見つめる。


「本当に驚いたんですからね」


 そうは言いつつも、香奈とて二年も同じ病院に勤めていれば、藤巻のこうした性格は承知済みである。今までにも何度か同じ手で驚かされてきた。今夜は幽霊話の噂のことが頭にあったので、いつもより大きく驚いてしまったが。


「本当にごめんよ」


 藤巻は両手を合わせて軽く頭を下げる。


「もういいですよ。それよりも、院長先生はどうしてこんな時間にここにいるんですか?」


「うん。ちょっと、用事があってね」


「用事って――あっ、ひょっとして急変の患者さんが出たの――」


「そうじゃないよ」


 藤巻はにやにや笑いを深くした。そうするといっそういやらしく見えるのだが、どうやら本人は気付いていないらしい。


「それじゃ、どうしてこんな時間にこんなところに……」


 本当のところはある程度答えは予想していたのだが、香奈はそんなことはおくびも出さずに、不思議そうに尋ねた。


「それはもちろん――君に会うためにここで待っていたんだよ」

 

 藤巻は香奈が予想した通りの返答をした。


「えっ、そんな……」


 香奈はしおらしく少し照れたように体をもじもじさせる演技をしてみせた。


 この二年間で藤巻について知り得たことと言えば、『女好き』の一言に尽きる。

 

 看護師であろうと患者であろうと自分好みの女性であれば、誰かれかまわず口説いてまわるのだ。香奈も最初こそ心が少し動きかけたが、藤巻の女好きを知ってからは軽蔑こそすれ、惹かれるということはまったくなかった。


 そもそも藤巻のルックスが好きなタイプと大きくかけ離れていたし、二年間で香奈も大人になり、『病院長』という肩書きに迷わないだけの理性がついた。


 だからといって、香奈としては無下に藤巻をあしらって印象を悪くするわけにはいかなかった。なにせ相手は院長である。その一言で香奈など簡単にクビだ。


 この不景気なご時勢に失職するわけにはいかない。そうならないためにも、香奈はしかたなくちょっとだけ藤巻の話にのる素振りを見せたのである。


 そんな香奈の思いを知らない藤巻は、にやにや笑いをいやらしく香奈に向けてきた。今夜こそはモノにしてやる、とその笑みが言っている。


「――あの、院長先生。あたし、巡回がまだありますから……」


 香奈は藤巻から離れようとした。


「そんなつれないこと言わないでくれよ。君だって僕のこと――」


 藤巻の顔を見ると本気で香奈が自分のことを好きでいると思い込んでいるらしかった。『病院長』という肩書きになびかない女はいない、と確信している顔である。


 実際、その肩書きだけで何人も女を落としてきたのだろうが、世の中、常に自分を中心に回っているわけではない。例外も必ず存在する。


 クソ気持ち悪い!


 香奈は表情には出さずに、心の中で白衣の天使らしからぬ言葉で思いっきり毒づいた。


「だからさ、今すぐじゃなくてもいいから。今夜、君は夜勤だろう。それじゃ、夜勤明けに君の部屋にいってもいいかな?」


 すでに頭の中でイヤラしい妄想を思い浮かべているのか、藤巻の鼻息は発情期の馬よりも荒い。香奈の右手をガシッとつかむと、もう放さないぞ、とその目が言っている。いや、イッていると言ってよかった。


「ご、ご、ごめんなさい。あたし、あたし――」


 香奈としてもここまで事態が差し迫っては、のらりくらりと話をはぐらかすという手は使えない。


 こうなったら、今夜こそはっきり言ってやる。あんたみたいな女好きの最低クズ野郎は大嫌いだって。


 香奈は強引に藤巻の手を振りほどくと、一歩後ろに退いて藤巻と距離を置いた。


「あたし、あんたみたいな、女好――」


 

 言い掛けたそのとき――。



 廊下の先に、淡白い光の球がぼんやりと浮かび上がっているのが、香奈の視界に入った。


「あ、あ……あれって、えっ、なに……ひょ、ひょっとして……」


 香奈は光球を指差したまま、恐怖で硬直状態におちいってしまった。あきらかに人工的な光とは異なる輝きを放つ物体。言葉にださなくとも、それがなにであるのか香奈は頭の中で瞬時に分かってしまったのだ。


「お、おい、誰だ! こんな夜中にイタズラをしているのは?」


 先に動いたのは藤巻だった。恐れる素振りを見せることなく、光球に向かって一歩足を進める。


 まるでそれを待っていたかのように、光球がすぅーと二人に向かってきた。


 淡い光の玉は二人に近付くにつれて、徐々にあるひとつの形に姿を変えていく。光球から白い直線が伸びたかと思うと、腕が出来上がり、次に足が出来上がり、そして最後に丸い頭が出来上がっていく。そこに淡白い光りで輝く人影が生まれた。


「────!」


 藤巻がうっと喉の奥で一言もらして、その場に立ちすくむ。


「……いゃ……いゃ……いゃ……」


 香奈は口の中で小さく悲鳴をあげた。


 完全に人影へと姿を変えたモノが、二人の方にゆらゆらと近付いてくる。輪郭こそ人の形をしているが、顔があるはずの部分は光でぼやけており、表情はいっさい確認出来ない。 


 その人影の足がぴたっと止まった。だらりとたらしていた右手が、まっすぐに藤巻の顔に向けられていく。


「ひゃあぁぁぁっ―――!」


 女性のような甲高い悲鳴をあげたのは藤巻だった。たった今まで口説いていた女のことを放って、近くの階段に向かって一目散に走って逃げていく。


 一人その場に残された香奈は、藤巻の逃げ去っていく足音を遠くに聞きながら、意識がゆっくりと静かに暗い穴へと落ちていくのを感じた。目の前の恐怖から逃れるために、気絶という強制的な眠りについたのだった。

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