(帝への即位に光源氏と東宮の間でバチバチする)第25話

 


 その夏。


 桐壺帝は退位を宣言すると、伊勢国鈴鹿関、美濃国不破関、近江国逢坂関を閉鎖するために使者を使わせた。その三日後、慣例通りに譲位の儀式が執り行われた。


 式典当日──


 桐壺帝きりつぼていは、内裏から上皇としての住処すみかになる新院へ、大勢の随行員を従え輿こしに乗って移動した。行列が通過する沿道には、人々が地に額ずいて拝礼している。


 桐壺帝が新院に到着すると、間を入れずに大臣が譲位の宣命を告げる。


 官吏が参列者を率いて、新院の南門に待機している頃、私も尚侍ないしのかみとして、東宮とともに上皇の新院にいた。


 暑い日だった。

 儀式は未明からはじまったが、いつ終わるとも知れない。


「こっそり抜けてもいいかな」と、背後に控える筑紫の耳もとで囁いた。

「姫君、御自覚が足りないところは、いっこうに進歩なさらないようで」

「あのさ、大事な高校の入学式さえ、ばっくれたのよ」

「また、意味不明なことを」


 筑紫は皮肉な表情を浮かべているが、一方で頬をひくひくさせ、笑いをこらえている。

 その視線は柔らかい。

 以前と変わらない筑紫。ただ、あの日から生えた一房の白毛しらがが、それは違うと教えている。黒髪に混じる白いものを見ると胸が痛む。三十歳前なのに……。拷問を受け、恐れから一瞬にして白毛になったのだ。


 光源氏を脅した日の夜、筑紫は息も絶え絶えに戻ってきた。


 その姿は、あまりにも哀れであり、私は悲鳴をあげ、『筑紫……』と言っただけで次の言葉を失った。


 白い内衣は血だらけになっていた。

 筑紫は笑おうとして失敗、『姫君……、もう少し早めに助けだしてくだされても』と、皮肉を言いながら血へどを吐いた。


 あれから三ヶ月。

 すべては『源氏物語』の筋書き通りに進んでいる。東宮は次の帝として即位することが決まり、藤壺の皇子が東宮になったのだ。


「姫君、身体をイライラと揺らされず、気品をもっておいでください」

「だって、筑紫、こういう行事って待つ事ばかりで、もう限界よ」と言ったとき、ふいに何かが私の左手を握った。私の東宮が、そっと手を伸ばしたのだ。


「逃げてはいけませんよ。わたしの妃」

「東宮さま、どうかお手を離しください。周囲の者に笑われますから」

「おや、そんなことを気にされる方だったか」


 私を包み込む優しげな笑顔。


 私の胸を高鳴らせるのは東宮しかいない。幸せな気分にしてくれる魔法のような人。彼がほほ笑むと、周囲すべてが霞のなかに消え、彼しか見えなくなる。


 なる、なるはずが……。


 ズウウウウ〜〜ン。


 いや、例外がいた。

 明るい太陽のもとでも、光り輝く例外が。


 少し離れたところに光源氏が立っていた。

 私の視線を受け止めると、ニッと笑う。まったくあの男は、あれからも変わらず甘いふみを送ってよこすのだ。


『源氏物語』では、東宮が朱雀帝に即位した後、私は尚侍ないしのかみとして帝の隣りにいる時でも、密かに文のやり取りをして愛し合うと書かれている。


 ほんと、それだけは胸糞悪い。


「姫君、先ほどから好きと嫌いという表情を交互に作っておいでですが」

「筑紫、ふたりの男に、それぞれの思いを、はっきり明確に知らせるために忙しいの」

「でも、お忙し過ぎて、光源氏さまに好き顔をお見せしておいでですけれど」

「えっ! ま、まずい、失敗した」

「尚侍」と、東宮がほほ笑んだ。

「ご、ごめんなさい、東宮さま。あの……」


 弁解の声を途中で遮るように、大きく太鼓が鳴った。


 儀式がはじまった。先導者に導かれて列席者が入場、所定の位置に立つ。

 大臣が宣命を読み上げ、それが終わると東宮が立ち上がる。


 宣命使が譲位の宣命を読み上げた。


「おお」「おお」「おお」と、言葉の区切り事に列席者が応答し拝礼する。


 宣命が終わると、列席者全員で二度の拝礼をして左右に顔を向ける。同時にそでに手を添えて左右に振り、その場にひざまずいた。やはり左右を見てから拝礼して、立ち上がり、さらに拝礼する。

 これが、退位した上皇と新帝となった東宮に対する最高級の礼を尽くした所作だ。


 大臣以下、列席者全員が一糸乱れず執り行う、この『拝舞の礼』は、さながら舞いを見るように優雅だ。

 

 私の胸に熱い思いがわきあがった。苦手な儀式なのに、なぜか感動している自分に驚いた。


 ついに東宮が朱雀帝に即位なされたのだ。


 大臣たちの拝礼が終わると、私の帝は、堂々とした優雅な所作で階段を降りていく。桐壺院に向かって最高級の礼をつくすために、先ほどと同じ『拝舞の礼』を、今度はたったひとりで行う。


 すらりと背が高く堂々としたお姿。

 真っ白に輝く冕服べ んぷくから伸びた長く細い手足。たおやかに礼をして、ちらりとこちらを見た。


 目が合った。


「帝……」


 吐息のような声が漏れた。


 儀礼服に身を包んだ新帝は、どこまでも凛々しく美しく。

 夏の太陽のもと、ひとり立つ姿は神々しくさえあって、どこかはかなげだ。


 新帝が『拝舞の礼』を雅に行う。


 愛おしさに胸が熱くなっていく。



(つづく)

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