(紫宸殿での朝議に乗り込もうかと迷ったけど、かえって悪化しそうでやめた)第23話




 私は走った。


 それにしても、この身体は走ることに慣れていないようだ。足と手と胴体の連携が悪く、途中で何度も転びそうになるけど、必死に走った。


 こういうときは、いつも筑紫が背後から私を追い、皮肉で包んだ文句を言いながら付き添ってくれたものだ。


 彼女の不在は、思った以上にキツい。常に守ってくれる人がいる限り、人は勇気を持てるのかもしれない。

 それは、親だったり、恋人だったり、親友だったり、仲間だったり。

 筑紫はそんな空気のような存在ということを、アホな私はまったく気づいていなかった。


 今は、なにか不気味なものに絡め取られたような心細さを感じるばかりで……。

 思わず両手で、パンパンと身体を叩き、ひたすら走り、内裏の南側、表の世界へと飛び出した。奥向きで働く女官が表に出ることはないから、警護の武官には目立っただろう。


 ああ、筑紫……。

 いつものように、『姫君、あなたは馬鹿ですか』ってな顔でこの場にいてくれたら、どんなに心強いだろうか。筑紫、筑紫、クールだけど温かい筑紫に拷問なんて耐えられない。


 紫宸殿前の広場に到着した。

 そこはやたらに広く、警護の人間以外に人影はなく。見事なほど晴天の日で。

 走っているのは私ひとり。

 登壇する階段前までには、砂利が敷き詰められた広大な空間が広がっている。


 上空を、ピィーっという甲高い声をあげ、見知らぬ鳥が飛び去った。

 静かな空間。私が走る足もとで砂利音が異様に大きく響く。


 今、紫宸殿内では朝議が行われている。

 光源氏も頭の中将とうのちゅうじょうも、その場にいるだろう。


 紫宸殿を警護する武官たちが階段下で直立している。

 いきなり現れた女官に驚いたはずだが、表情を崩さない訓練をしているのか、私が透明人間かのように視線を合わせない。


「私は御匣殿みくしげどの別当べっとうです。右大臣の六の姫でもあります。ハアハア……。頼みがあるわ」

「何でございましょうか」

「ハアハアハア。そ、その前に、ちょっと聞くけど、朝議は終わった?」


 武官は、私を衣服からも高貴な身分だと判断したのだろう。目を合わせないために下を向き、「普段でしたら、終わる刻限ではありますが。長引いております」と、落ち着いた声で教えた。


 おそらく、右大臣側と左大臣側とで、皇子毒殺未遂の詮議で紛糾しているにちがいない。数の上では、こちらが優勢ではあるが。だからといって、味方がすべてこちら側になるとは限らない。

 彼らは機を見るに敏な者たちだ。

 いつ何時、裏切り、左大臣ひいては帝と光源氏の籠絡にのるかしれない。そうなったら、東宮は廃位、藤壺の皇子が即位することもありうる。

 皇子暗殺未遂が確定したら、東宮も廃位だけではすまないかもしれない。


 流罪……。


 次の帝の選定もからんで、揉める。


「頼みがあるわ。光源氏さまに朧月夜おぼろつきよが、武徳門ぶとくもんで待っていると伝えて欲しい」

「六の姫さまではなく、お、朧月夜さま」

「そうよ、覚えたわね」


 いきなりの奇妙な頼みことに、武官は戸惑った表情を浮かべ、階段の左側に立つ武官の様子を伺った。

 私は部屋から持ってきた光源氏の扇子を彼に渡した。


「これを光源氏の君に渡してちょうだい。そして、武徳門ぶとくもんで待っていると伝えなさい」と、声をひそめた。「ほら、これを、このヒスイの珠は値打ち品よ。うまくやってくれれば、これをあげるわ」


 他の武官たちから見えないように、こっそりと彼の手にヒスイの珠を握らせた。


「承知しました」

「繰り返して」

「朧月夜さまが武徳門でお待ちですと、お伝えする」

「いいわ」


 紫宸殿の扉は、まだ、閉まっている。

 朝議に乗り込もうかと発作的に思いもしたが、策もなく行っても意味はない。かえって事態を悪化させるだろう。だから、紫宸殿を見上げるだけに留めて、私はその場から去った。




 帝が生活する内裏だいりは外側を大内裏だいだいりが囲んでいる。

 大内裏には多くの貴族たちが住む屋敷があり、一角は現代の霞が関をイメージするような官僚が働く建物が並んでいる。 


 内裏だいり大内裏だいだいり間は内門で仕切られていた。


 武徳門ぶとくもんは、内裏と大内裏を結ぶ十二ある内門のひとつ。

 平安時代、身分によって使える門が違った。天皇のみが使える建礼門、皇后のための建春門など、門にも格式があるのだ。


 武徳門ぶとくもんは、陰明門おんめいもんの南にある通用門になる。

 人目を避けるためには、ちょうど良い。


 さて、どれくらい待っただろう。

 この瞬間にも、筑紫が厳しく尋問されていると思うと焦りが増す。いきなり拷問にはならないだろうし、筑紫が肝の据わった女だとは知っているが、それでも心細く不安にちがいない。


 日がかなり高くなった。


 その太陽の光にも関わらず、光る物体が、こちらに向かってくる。何度見ても、これは慣れない。


 門近く、造物所の影に隠れたいた私は、そっと外に出た。

 光源氏が余裕のある態度を崩さず、私を認めると近寄ってきた。


「ほんにつれない朧月夜の君。わたしのふみを無視し続けて、やっとお返事をいただけることになりましたか。わが恋しい方よ」

「あんた、ふざけてんじゃないわよ!」



(つづく)

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