(怒り狂う弘徽殿の女御に手を焼く)第21話
「姉君、入ります」
部屋に一歩踏み入ると、そこは恐ろしいありさまだった。あらゆる場所にモノが散乱し、割れた器が転がっている。
弘徽殿も
「姉君、まさか、ここでも女官が倒れてはおりませんよね」
「なんの話じゃ」
「
「おお、それは祝着」
な、なんて言葉を吐くの……。
考えるより先に身体が動き、女御の口を押さえた。
あまりに突飛な行動だったのか、女御は怒りを一瞬だけ忘れたようだ。忘れたというより、この理不尽な状況に感情がついていかない。
いったいどこの命知らずが、弘徽殿の女御の口を塞ぐなんて暴挙ができる。
いや、それは私。
私がしたのって絶望的に後悔したけど。
「アウワァ、な、なにを……」
「皆のもの、すぐに下がりなさい!」
凛とした態度で周囲の者に命じる。女官たちは目を丸くしながら、「アワアワ」と言うだけの弘徽殿の女御を見つめた。
「下がれ!」と、私は強く命じた。
実際のところ女官たちにとって、この命令は願ってもないものだろう。ほっとした表情を浮かべ、後退りしながら去っていく。あとには、無惨に散らかった部屋と、女御と、女御の口を押さえたまま我にかえった私が残った。
「姉君、藤壺の皇子を毒殺しようとした者がいたのです。冗談ではすまされません。まさか姉君の仕業ではありませんよね」
「その手をどけよ」
女御は驚きから、恐怖、怒り、そして、我に返るという一連の動作を一通り演じてから、落ち着いたのだろうか。声は思ったより穏やかだった。
「落ち着いてお聞きくださいますか」
「わかった。何事じゃ」
手を離すと、女御はストンとその場に尻もちをついた。
「藤壺の皇子を毒殺しようとした者がいるようですが、あまりに稚拙なやり方で、毒味の女官が倒れたようです。命を失ったかは、まだはっきりしませんが。おそらく、想像ですが女官は生きていると思います」
「なぜ、そう思う」
「姉君が指示したのなら別ですが。そうでなければ、茶番でしょうから」
「わたしは、そのような指示を出しておらぬ」
私は室内を見渡した。
「では、なぜ、このように部屋が荒れているのでしょうか」
「六の姫よ。何もできんから、荒れるしかなかろう。わが東宮を廃するなどという稟議が朝廷で出たというではないか」
「そのようでございます」
「ああ、
怒りの興奮は収まったが、今度は泣き崩れた。
「姉君……」
「わ、われが、我が何をした、帝よ。お恨み申す。あの優しい皇子に、なんという仕打ちを」
「泣いてる場合ではありません。泣いたり怒ったりで、物事が解決するのは幼い時だけです。今は冷静になってください。とくに毒殺などいう非常手段で攻撃されている今は、興奮すれば相手の思うツボです」
「どういう意味じゃ。いや、言わんでもよい。わたしが命じていなければ、他の勢力が、父上が、まさか右大臣が命じたとか」
「わかりませんが、そうでなければ、これは罠です。いえ、仮に右大臣の指示だとすれば、あまりに愚かなことをなさったとしか」
「どういう意味じゃ」
「朝廷での廃位に怒った意趣返しと思われる状況ですから。相手に利するだけです。東宮さまを廃位する口実を与えたようなものです」
部屋から出ていた筑紫が戻ってきた。
「姫君」
「調べたか」
「はい、毒味の女性は無事にございます。ただ、赤児が食すれば命に関わったというのが、御医の見立てだそうで。藤壺の女御さまは、その場で気を失われたとか」
「やるな、あの女。それで、帝は」
「ものすごくお怒りになっております。必ず犯人を見つけ処刑すると」
「それで毒を入れたのは、誰かわかったか」
「昨夜、宮中から、ひとりの下人が死体となって裏口から出されました。
「消されたのだろうか。その男の身もとはわかるのか」
「いえ、まったくわかっておりません」
「姉君」と、
「わたしの地位が役に立ちそうです。必ず、明らかにして収めますので、どうか
「いつの間に、そなた、そのような有能な者になったのだ。あの無邪気で明るい妹とは、まるで様変わりだ」
「東宮さまのおかげです。ですから、必ず、お守りします」
「頼むぞよ」という声は細かった。
弘徽殿から出て
振り返ると、月明かりに
毒を含んだ女官も、すでに担ぎ出されたのだろう。
「筑紫、医官はなんの毒だと言っている」
「まだ、わかっていないようにございます。粥を調べておりますから、早々に判明するとは」
「女官は痙攣して泡を吹いたか。ヒソを使っては強すぎるから、おそらく、植物のなにかだろうな」
「姫君」
「なに?」
「あまりにお見事なご対応、筑紫、惚れてしまいます」
筑紫を無視して歩いた。台盤所は清涼殿内にあり、弘徽殿からは渡殿を歩いた先にある。
(つづく)
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