(呆れるほどの優しさに包まれて、幸せな情事を過ごす)第18話




 予想外の展開に冷静さを失い、私は真剣に謎の男を呼んだ。時よ止まれと念じた。

 しかし、なんの反応もない。

 ええい、ほんと役立たない。ひとりで乗り切れということなのか。


 でも、ムリムリムリ。


「そなたたちは下がっておれ」と、東宮は梨壺の女官たちを下がらせている。


 彼女たちは無言で後退りする。


 ふたりだけになると、東宮が手を差し出した。そっと重ねた手を大きな手が力強く包み、そのぬくもりが伝わってくることに、胸がたまらなく高鳴る。


 東宮に導かれ、部屋の奥へと向かう。


 御簾みすを抜け几帳を避け、まるで迷路を抜けるように梨壺内にある奥の部屋へと速足で進む。

 私たちが通り過ぎると、風がわき、すだれにかかった何枚もの透ける絹の布が、ふんわりと舞っていく。


 一番奥の部屋で東宮は足を止めた。


 部屋は八畳くらいの広さで、中心に卓が置いてあり、その先に几帳が置かれていた。想像だが、おそらく奥に寝台を隠しているのだろう。


「すわりなさい」


 言われるまま腰を下ろすと、東宮は安心させるような笑みを浮かべ、脇にあった茶道具で自ら茶を入れはじめた。背筋が伸びた凛とした姿、茶を入れることに手慣れた所作で思わず魅入ってしまう。


 しめった空気を、ふくいくとした茶の香りが満たす静かな時間。


 緊張に口が乾き、差し出された茶を一気に飲み干してしまった。まろやかな味で、熱くもない。苦味だけが、わずかに残る。


 東宮は急がない。

「お茶はどうでしたか?」などという日常的な会話をポツリポツリと続けてから、彼は大きく息をついた。

「わたしは、自分のことを話すことが苦手で、だから、どう話していいのか困惑しています」

「何かお話があるのですか」

「そう……、あなたに提案があるのです。わたしの元で尚侍ないしのかみとして仕えませんか?」

尚侍ないしのかみ……」

「他に妻として、あなたを迎え入れる方策が思いつかない。桐壺帝の退位はすぐです。その後、次の帝が即位すれば、後宮は一新される。そのときに、あなたを後宮の尚侍ないしのかみとして迎えいれたい」


 尚侍ないしのかみという職は、帝の側近くに控え補佐する秘書的な役目だ。いわば、社長秘書室の筆頭だ。


「あなたは……。でも、新たな女御を迎えると聞き及びました」

「残念ながら、わたしの立場では自分の思うようにできることは少ない。嫌ですか?」

「わたしは、それを言える立場ではないと思います。……いえ、嫌です。すごく嫌なんです」

「わたしのことでは、あなたは全ての権利をもっている。だが、このことについては、申し訳ないと思う。今後もさまざまな女が女御として入内するでしょう。本来なら、わたしは帝になりたくはないが、しかし、あなたを得るためなら、たとえ母と祖父の傀儡かいらいであろうと帝になるつもりです。そして、堂々とあなたを尚侍ないしのかみとして迎えいれたい」


 頭のなかが真っ白になり、何も考えることができなくなった。


 茶碗に手を伸ばすと、そっと東宮の手が重なった。

 手首を引っ張られ、気づくと彼の胸に抱かれていた。


「嫌とは言わせません」

「東宮」

「あなたは理解していない。どれほど、わたしがあの噂で傷ついたか。遠くにいると、また愚かなことをして、私を傷つけそうだから、近くに置いておきたいのです」

「でも、何もなかったのです」


 彼の胸のなかで私は意味もなく「なにもなかった」と、繰り返した。返事の代わりに彼の唇で私の言葉を塞がれる。身体がガクガクする。正常にものを考える力が抜け落ちていく。


「本当かい?」

「誓って……」


 唇が離れ、身体の重心を失った私を、東宮の美しく繊細な指がささえる。それは、あのおぼろ月夜の未明、同じことをした荒々しい光源氏の激しい行動とは、まったく異なって、どこまでも優しい。


「わたしが怖いのですか?」

「なぜ」

「ほら、こんなに震えている」

「ええ、そう。たぶん、怖い」

「怖がる必要はありません」

「東宮……」

「わたしは、ここにいます。あなたの傍らに、ただ、あなたをこうして抱きたい男として」


 顔が熱かった。きっと耳まで真っ赤になっているだろう。


 それなのに、私の心をかき乱したまま彼が笑い出した。

 人が愛を確信するとき、それがどれほど素晴らしい瞬間かと伝えたいのに、私には言葉が足りなすぎた。

 雨の音、茶の香り、焚き染めた香の匂い、穏やかな風、そして、快楽の混乱、叫び出したい興奮、自分がここにいることの、信じられないほどの幸せ。


 すべてが終わったあとの気怠い空気のなかで、薄く汗をかいた東宮の腕のなかで……。幸福に酔いながら彼の声を聞くこと。


「あなたは、はじめてだったのか。いったい、あの日、何があったのです」

「知りたいのですか?」

「ああ、そうだね。知りたい」

「いいわ、教えてあげる。妬けるわよ」


 ふたたび、東宮がおおらかな声で笑った。


(つづく)

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