(それでも溺愛されていると知ることの恐怖と不安と喜びの)第17話
雨に煙る渡殿に東宮が佇んでいる。
しっとりとした大気に髪が乱れ、なんという大人の色気を発散しているのだろう。
そう、思い出した。
この人はこういう人だった。なにもかも自分のなかにのみ込み、深い眼差しで周囲を俯瞰している。
安心していると、いつのまにか心の奥まで覗き込まれそうで、ふと怖れを抱き足が震えるような、そんな人だ。
「東宮さま……」
「遅かったね。いつまで待たさせるのか、心配していたところです」
彼の声は低く深い。
気の利いた言葉を使うわけでもないが、その言葉ひとつひとつに真実味があり、包み込むような優しさに満ちている。
宮中で知らぬ者もいない、あの噂を聞いたであろう後で、なぜ、この人は、こんな優しい声で話すのだろう。
「また、美しくおなりになった、六の姫。何をしていたんですか?」
「わ、わたしは、あの」
私に何をしていたかと問うの?
いえ、何と言われた?
心配していたとか、確かに、そう聞こえた気がする。聞き間違いだろうか。それとも、その言葉は現実のものだろうか。
……心配していた。
……心配していた。
何度も何度も、頭のなかを同じ言葉がぐるぐる廻り、思考が停止した。息をするのも苦しい。
ねぇ、光源氏と私の噂を聞いてないの?
それとも、知ってらして、そう言うの?
羞恥心で胸が苦しくなる。そんなに優しくしないでほしい。いっそ怒鳴ってくれたら、どれほど楽だろう。
なにより自分が傷つくことが恐ろしい。なぜ、こんなに私は弱くなるのだろう。
「六の姫、わたしに弁解は必要ない」
「あの」
「聞く必要がないと言ったのです。ここで大事なことは一つしかありません。それに、わたしは怖がりですから。聞きたくないこともあるのです」
東宮が優雅に両袖をあげて、ほほ笑みを浮かべた。
それは、前に会ったときと寸分かわらぬ優しさに満ちた笑みで、私は言葉を失う。
もしかしたら、東宮は私が考えている以上に大人で、虚栄心のない男なのかもしれない。
「これまで、何度か御所をお歩きなる姿を遠くから見かけましたよ。いったい、わたしを避けて何をされているのだろうと思ったものです」
梨壺の板戸がギーっと開く音が聞こえる。仕事が終わったのだろう、筑紫を先頭に女官たちが外に出てきた。
女官たちは私と東宮の姿を認めて立ち止まり、その場で頭を下げて指示を待っている。
なにもかもが奇妙なことになった。
雨が降っていること。
女官たちが退出してきたこと。
梨の木の葉が雨の
この場にいること。
たぶん、私は青い顔をしているだろう。この人は、いつも私にそんな顔をさせる。
彼の目に愛を感じてしまうから……、そんなはずはない。
そんなはずがないと否定して……、
ここから逃げ出したい……、けれど。
私は何もできない不器用な自分に苛立ち、同時に淡い期待に胸を高鳴らせる。
東宮が私を見つめている。
雨音が激しくなった。
どうしようもなく自分が哀れだと思う。本来なら、東宮妃として彼の横に立っているはずなのに、その場を別の女が占めると聞いたばかりだ。
「待ってらしたの?」
「わたしはいつでも待っています。待つことや耐えることには慣れているのです」
東宮が手を差し出した。
「さあ、いらっしゃい」
その手を取るかどうか、少しだけ迷う自分がいる。
「そなたたち」と、東宮が
「先に戻りなさい。六の姫は、わたしと共にいる」
「承知いたしました」
女官たちに命じる彼の広い背中を見上げた。
『源氏物語』では光源氏の孤独ばかりが描かれている。
しかし、本当に孤独なのは、東宮ではないだろうか。
帝である父は光源氏の母である更衣を忘れられない。故に、父帝が、もっとも愛する息子は光輝く弟である。
母である
祖父である右大臣は権力志向がすさまじく、東宮は自分の夢を満たす道具だ。
それら全てを耐え、内に秘めて愚痴も言わない東宮の寂しさや孤独。
広く寂しい背中に、胸が締め付けられるような思いを抱くのはそのせいだ。
女官たちが去ると、東宮は私を振り返り、「おいで」と、言った。
梨壺に招くという意味だ。
このことは、すぐに宮中内で噂になるだろう。次の女御の入内が決まっているのに、六の姫を私室に招いたと。
「東宮さま。このようなことをしては、あなたも悪い噂の的になってしまいます」
「かまわないよ、六の姫」
「ごめんなさい」
「わたしに謝るようなことをしたのですか?」
東宮を見つめた。
「いいえ、けっして」
軽く安堵するような息が聞こえた。彼も疑ってはいたのだろうか。相手はあの光源氏だ。どんな女も彼に抵抗などできないと言われている。
「よかった」と、東宮は安心したような声でつぶやいた。
(つづく)
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