(東宮さまに会わなければならないと思い悩んだ結論が提示される)第16話




 あの方に会わなければならない。


 今の立場なら、会う方法は簡単なのだけど、私は先延ばしにしてきた。一日、先送りにすると、それはさらに難しく感じられ、二日、三日と過ぎていくうちに、いつしか月が変わっていた。


 屋根を打つ雨音がかすかに聞こえる。

 先ほどまで薄陽がさしていたが、雨が降り出したようだ。しとしとと降る雨は、このまま長雨になるだろう。


 御匣殿みくしげどのを見渡した。

 多くの下級官女たちが、針と糸を自分の身体の一部のように動かしている。

 私が上座にすわっているせいか、みな咳さえも遠慮がちに無言で働いている。


 シュッシュッと布をくりだす音。

 糸をひっぱり、針を扱う指。


 わたしは上座から降り、作業する女たちの間に入った。


「姫君、いかがなさいましたか?」と、筑紫が聞いている。

「今日、東宮さまに届ける衣装はどちらにある」

「こちらにございます」と、いかめしい顔つきの女官頭が告げた。


 東宮からの連絡はまるでなかったが、一方で、光源氏からのふみは届いている。


『花は散る、おぼろ月夜の……』なんてな歌をまめに送ってくる。


 桜は散ってしまったが、あなたのことを思い出しては寂しさがつのるといった、私の零落れいらくを、桜が散ったことにかけて送る文の厚かましさ。そもそも、おまえが原因を作っただろうがと思ってしまう。


 性格はどうあれ、マメな男ではある。


「姫君」と筑紫が注意を促した。

 

 先ほどから、女官頭が儀礼用の内衣を持って頭を下げている。


「そちらが、東宮さまの内衣なのね。わたくしが行くわ。ついてらっしゃい」

「お供いたします」

 

 東宮の召物を抱えた女官たちを引き連れ、私は渡殿わたどのを歩いていく。心を落ちつけようと思ったができなかった。


 あの日から、ほぼ三ヶ月が過ぎている。

 歩く足が、かすかに震えた。


 舎殿と舎殿を結ぶ通路の役目をする渡殿わたどのは、庭に面して開き雨が吹きつけてくる。


「東宮のお衣装を濡らさないように」


 振り返ると、筑紫が私を見る。






 雨粒がひとつひとつ、その場にとどまるように雫となって、時が止まった。

 目を閉じると、頭の中に懐かしい声が響いてきた。


 ──俺が必要ではないかと思ってな。


「あんた、ずっと現れなかったわね。どうしていたの」


 ──楽しそうにやっていただろう。必要を感じなかった。お前には自由な世界がよく似合う。


「呆れる。わたしを心配するなら。光源氏をこの世から消して、あの出来事はなかったことにしてちょうだい」


 ──それはできない。それに、お前は元気そうだ。


「そうでもない。もう、現代に戻してもいいんじゃない?」


 ──帰りたいのか?


 帰りたいのだろうか?

 気楽な高校生として、受験勉強をして普通の恋をする。今となって、そんなことが可能なのだろうか。


「帰れるの?」


 ──ミッションは、まだクリアしていないだろう。


「いいわ。では、教えて。この時間に東宮はどこにいるの?」


 ──あの真面目男に遂に会うのか。さすがお前だ、度胸がある。


「度胸があるわけないわ。でも、ミッションのためには会う必要がある。どこにいるの?」


 ──朝から、公務に励んではいたな。午前三時から起きていたよ。


 平安貴族の朝は早すぎる。


 午前三時頃に、判で押したように諸門開鼓(第一開門鼓)が打たれる。

 太鼓のトトトトトンという音を合図に、内裏に通じる小門が開く。それが貴族たちが起きる時間だ。


 午前六時頃には大門を開く第二開門鼓が鳴る。官僚たちが出仕する合図の音だ。

 出仕した後は朝議にはじまり、仕事は昼前まで続く。


 ──東宮の位置は、待て……。朝議が終わり、帝の政務を補助していたが、今は私室として使っている昭陽舎しょうようしゃ通称梨壺なしつぼにいる。


「そう、ありがとう」


 その言葉が終わらないうちに、空気の重さが変わった。

 とどまっていた雨粒が線状に変化して、時が流れはじめた。


「姫君さま。いかがなされましたか」


 筑紫が心配している。初対面の頃、筑紫は常に儀式張った態度だったが、今は変わった。親友のようでも、頼りになる姉のようでもある。


「梨壺へ行きましょう」


 梨壺は御匣殿みくしげどのより東側にある舎殿だ。数軒の舎殿を通り越して長い渡殿を歩いていく場所にある。

 私は、西に位置する弘徽殿に住んでいる。梨壺は反対側に位置して、これまで、東宮に出会うことがなかった。


 しかし、今日こそ、東宮に会おうと決心した。


 歩く道すがら、心臓の鼓動が不規則に鳴る。

 冷たく遇されたら、どうしたらいいのだろう。心が壊れそうなほど、恐ろしい。


 舎殿と舎殿の間で、わたしは立ち止まった。


 背後を振り向くと、皆、うつむいて待っている。誰もが知っているだろう。かつて東宮のもとへ入内するはずだった女が、今は女官に身をやつして彼のもとへ行くという事実を。


「姫君、いかがされたのですか」

「そなたたち、先に参れ」


 緊張に震えているのは、私だけではない。


「先に参れ」


 随行してきた女官たちが、一礼して歩いていく。私を通り過ぎて梨壺に向かう。


 私は渡殿わたどのの中ほどに立ち止まって庭を眺めた。

 新緑が瑞々しく、梨の木が雨に煙る姿は、なんとも情緒がある。


「東宮さまのお召し物をお持ちいたしました」という声が聞こえてきた。


 板戸を開ける音がする。


「お入りくださいませ」


 雨が降っていた。

 静かに時が過ぎていく。女官たちが衣装を届け、彼のために内衣を整理しているのだろう。そして、あらたに繕う必要のある衣装を受け取る。


 雨が降っていた。

 顔に雨粒がはねてくる。目を閉じると、雨音に囲まれているような気がする。私はひとりで、ただ、雨に濡れるまま、東宮に会う勇気が持てない自分を責めていた。


 しばらくして、板戸が開き床をする足音が聞こえてきた。


 衣装を届けた女官たちが戻ってきたのだろう。

 誰も声をかけてこない。筑紫がまだ戻ってないのか。無言で私の指示を待っている。


 背後から声が聞こえた。


「ここまで来るのに、ずいぶんと遅かったですね」


 ぞくっとした。

 落ちつきのある深く低い声。

 まぶたを開いたが背後を見る勇気はない。なぜ、こんなにも怯えてしまったのだろう。彼の声には怒りも驚きもない、ただ落ちついた声で、私に問うていた。


「わたくしは……」

「こんな場所に立っていては、雨に濡れてしまいます」


 ほんの数歩のところに、東宮がいる。どれほど彼に会いたかったのか、その時、はじめて実感した。


 身体の芯が震えた。


(つづく)

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