第2章 東宮との出会いと別れ

(裏技で後宮に潜り込んだら、東宮さまが、たぶん傷ついて連絡をくれない)第15話




「うおおおぃ、きっもちいい〜〜!」

「姫君、どうか、姫君。おいてかないでください」

筑紫つくし、遅いわよ」


 御所の庭を闊歩かっぽする私に、筑紫は息も絶え絶えだ。


 時は晩春。

 私は、宮中にある御匣殿みくしげどの別当べっとうとして出仕することになった。


 御匣殿みくしげどのとは、女官たちが裁縫の仕事をする場所。

 その別当とは長官という意味で、まあ、上司としてふんぞり返っていればいいのだが……。


 東宮への入内が取り止めになり、実家の目論見をダメにした私は、あばずれの烙印をおされた。

 現代では優等生として生きていたから、こんな経験ははじめてだ。

 まあ、すべての責めは私にあるわけで、こういうのを針のムシロって言うんだろうな。


 親族から下の者まで、ちくちく嫌味を言うわ、陰口が耳に入るわ。現代なら、間違いなくSNSでの炎上案件。


「あの姫は奔放すぎる」

「美貌を鼻にかけて、やりたい放題よ」


 こうした悪口は影で言って欲しいと切実に思う。知らなければ無いことも同然なのだ。


「まさか、このように零落されてしまい。ほんに悲しゅうございます」なんてなエンドレスな愚痴は、頼むから、どっかの壁に向かって叫んでて欲しい。


 その上、左大臣側の女房や女官たちは、いっそ清々しいほど、ほくそ笑みおとしめては喜んだ。


「だいたい生意気な小娘よ。光源氏さまと密会なさるなんて、うらやまし……。いえ、東宮さまのお顔に泥を塗る行いをなさるとは。そもそも軽はずみな小娘ね。あの弘徽殿の悪霊の妹ですから……」


 まあ、気持ちはわかる。

 狭い御所での生活。他人の不幸ほど、美味しいご馳走はないだろう。

 まして、相手は悪名高い弘徽殿の女御こきでんのにょうごの妹だ。姉の逆鱗に触れて、いやな思いをした女官は多い。


 右大臣の六の姫、その名誉は地の底に落ちた。


 だが、しかし、But。


 いや、こんなお気楽な立場はないって、誰もわかっていない。皆が罰だと思う境遇が、私にとっては天国だ。


 これまで深層の姫君として、ただただ部屋のなかに閉じ込められてきた。

 外部に出られるのは行事のときだけ。それも、几帳きちょうに囲まれ、顔を扇子で隠したりと不自由このうえない。

 身分の高い女は、家族以外に顔を見られてはならないという不文律。その堅苦しいこと。退屈すぎて心が病む。


 しかし、仕事を持つ女官の立場は違う。

 自由に御所内を歩き回れ、顔を隠す必要もなく行動できる。だからこそ、宮中で働く女たちは、はしたない等と噂され、婚期が遠のくらしい。


 現代から来た私からすれば、バカみたいだ。


 私の立場は美味しい。

 律令制度の整った摂関政治の時代に、最高権力者である右大臣を父に持ち、姉は次の帝の母后。

 こんな素晴らしい状況があるだろうか。


 ほら、今も、御所の警備に立っている護衛官でさえ、実際の私を見て感嘆している。


「美しい」と呟いてる。


 この顔を隠すなんて、それこそ罪にちがいない。


「姫君」

「なに、筑紫」

「上の者から下の者まで、男を魅了するためだけに御所を歩き回る趣味ですか」

「あら、これは運動よ。この身体、なまりすぎてるわ。あと、最後にスクワットしたらやめる」

「ひ、姫君〜〜。す、スクなんとか。あれだけは、どうぞおやめくださいませ」


 私は、弘徽殿に住み、貞観殿じょうがんでんに通う毎日。


 後宮での、こまごまとした事務と衣装を司る場所が貞観殿じょうがんでんで、その中にある御匣殿みくしげどのは、御所の北に位置しており、弘徽殿には渡殿わたどの(ろうか)でつながっている。


「ねぇ、本当の賢い人って、どういう人か知っている? 光源氏のような漢詩がうまく読めるとか、舞いがうまいとか、学問も優秀とか。そういう人だと思う?」

「姫君、声を落としてくださいませ。光源氏さまを呼び捨てになさるなんて、かの方に捨てられ逆恨みしてると、さらに悪評の上に悪評乗せでございます」

「論点はそこじゃないわよ。天才的に抜きん出た才能をもつ、光源氏は優秀な男よね」

「その通りにございます」

「でも、賢いとは思えないわ」

「何を仰ってるのでしょうか」

「つまりね、こう言いたいのよ。どんなに優秀でも、本当の意味で賢いんじゃないのよ」

「何か、姫君、達観されましたか。筑紫、それが恐ろしい事のように思えます」

「この世界で、いろんな人を見たわ。学生では見えなかったものがね。それで、わかったのよ。光源氏って、優秀だけど不幸なのよ。孤独に母親を追い求めるマザコンだし。それこそ、わたしの姉君だって、そう。自分の満たされない思いが何かを知らない。父の右大臣は権力にすがりつくことに必死で。そう、みんな、みんな、愚かに見えるわ。それは、本当の賢さとは違う」

「そのお答えを、なぜか知りたくないのですが」

「賢さとはね、どんな状況でも、生きることを楽しめる能力よ」


 筑紫は首を振って、「聞くんじゃなかった」と、ボソボソ呟きながら、私の後をついてくる。


「それで、東宮さまの状況は?」

「ご政務に励んでらっしゃるようで、それに、あの言いにくいことがございます」

「どうせ黙ってはいないでしょう」

「新たに女御さまをお召しになったとか」

「誰?」

「麗景殿にお入りなる女御さまで、姫君の兄上さまにあたる藤大納言さまの御息女にございます」


 心臓の奥がドクンと高鳴り、足が止まった。

 急に息が苦しくなる。

 あの方が、あたらしい妻をめとる。

 それは、わたしではない。

 なぜなら、光源氏と浮き名を流し一夜を共にした、ふしだらな女が次の帝の正妻になどなれない。

 それでも、もし可能なら、あの方にだけは知られたくなかった。


 彼の静謐せいひつな横顔が思い浮かぶ。

 すっと伸びた鼻筋、幾分、神経質そうにこけた頬。文机に向かう横顔を想像するだけで、胸が痛む。


「桐壺帝が譲位なさると、もっぱらの噂にございます。それゆえに不穏な動きが活発になっております」

「どのような?」

「左大臣を後ろ盾に、光源氏さまは藤壺の宮さまの皇子を東宮を飛び越して、次の帝に即位させようと策をめぐらせている。それが、右大臣さまが新しい妃を進める理由と存じます。東宮さまには、まだ正妻がいらっしゃいません」

「藤壺の皇子は、まだ二歳にもならないけど……、ありうるわね。桐壺帝が譲位して、右大臣の力が増せば、左大臣側は権力の中枢から追いやられるでしょうし。桐壺帝の寵愛を独り占めして、ここまで誰も手をつけられなかった光源氏ですもの。東宮さまが即位なさると、まずい状況よね」

「ご明察にございます」


 梅雨入り前の、いっときの快晴の日。私は空を見上げた。南に黒い雲が出ている。


「うっとおしい梅雨がはじまるわね」


(つづく)

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