(宮中で噂のまとになってしまった。それも光源氏とって、ありえない状況の)第13話


 


 実家に戻った翌々日。筑紫が珍しく、とまどった表情で声をかけてきた。


「姫君さま、申し上げてもよいのか迷っておりますが。宮中で妙な噂が立ってございます」

「迷うという割には、すぐに言ったわね」

「申し上げることもはばかられますが……」

「言いなさい」

「姫さまと、光源氏さまのことにございます。『花の宴』のち、おふたりが渡殿わたどので、その……、たいそう仲睦なかむつましくしていらしたとか」

「東宮さまではなくて?」

「さように」


 渡殿でのことで、光源氏と噂になっている?


「東宮さまのことは? 筑紫、その場所には東宮さまがいらした」

「東宮さまでございますか……。いいえ、お噂はおふたりのことだけにございます。赤い扇子を光源氏さまがお持ちで、あれはどなたのものと、もっぱらの噂で、このままでは大変なことになりましょう」

「不思議なことね。あの時は三人で一緒だったわ」


 意図的に東宮を外したということは、誰が流した噂かわかりやすい。


「左大臣側がうごめいているようね」

「ご明察でございます。これは、東宮さまに入内することへの妨害策でしょう」

「間違いないわね」

「そんな呑気な顔をされている場合ではございません。もし、右大臣さまのお耳にはいったらと思いますと、筑紫は生きてる心地が致しません」


 その後、筑紫の心配はすぐに的中した。


 渡殿わたどの(ろうか)の先から、ドカドカと激しい足音が聞こえたからだ。噂を知って、父である右大臣が宮中から急ぎ戻ったのだろう。


 足音が御簾みすの前で止まると、引きちぎらんばかりに乱暴に開かれた。


 怒りが形相をつくるとしたら、まさに怒りそのものという顔で、右大臣が仁王立ちしている。興奮したまま、「お、おまえ、おまえは!」と、声がうわずった。


「おまえは、いったい、お、おまえという娘は。な、なんちゅうことをしでかした!」

「父上さま。いかがなされたのです」


 短気な上、激昂げっこうしやすくもあるようだ。

 顔を真っ赤に噴まんやる方ない姿は、突進するイノシシに似ている。几帳きちょうを押し倒したのも気づいてないようだ。激しい音をたて几帳が倒れると、私の姿が外部にあからさまになった。


 筑紫は床に額をつけたまま、ガタガタと全身を震わせていた。身分が高いだけに度し難い愚か者だと、冷えた心で思ってしまうのは仕方ないことだ。


 私は脇息きょうそくに肘をついたまま、口を半開きにして動かなかった。


 右大臣の怒りは収まらず、手に持った扇子を叩きつける。

 避けきれずに、顔を守った手の甲にピシッとあたった。するどい痛みが走る。皮膚が切れ、ツーっと血が流れていく。


「姫君さま」

 

 筑紫が驚いて、私を守るように立ちはだかった。


「どけ!」

「ど、どうか、お許しくださいませ」


 筑紫の言葉は、右大臣の怒りに火を注ぐだけで、なんの役にも立たない。


 次の帝の后にと、右大臣は私を入内させる心積こころづもりだった。それが、光源氏との噂が立ちついえそうなのだ。

 それほど、桐壺帝が支配する宮中での光源氏の立場は強い。


 右大臣の怒りはこれだけが原因ではない。さらに重要な問題があった。


 昨年の夏、右大臣の長女である弘徽殿の女御こきでんのにょうごを差し置いて、藤壺の宮が中宮になっている。


 これは桐壺帝が正妻として彼女を選んだことを意味する。


 過去の皇族史でも、東宮の母である妻が立后しないなど例がない。道理に合わないとさすがに官僚たちも陰で頭を振っている。


 だからこそ、次の帝の正妻は私と策を巡らせていたのだ。

 そのすべての計画を無にしてしまったようだ。


 あるいはと、私はちょっと考えてしまう。

 光源氏は右大臣家の権力を削ぐために、わざと、したのかもしれないと。生馬の目を抜く宮中。あながち違うとも言い切れない。


 才覚もあり、桐壺帝の最愛の皇子である光源氏は岐路に立っている。

 桐壺帝の退位後、右大臣側の東宮の即位により彼の権力は弱まるだろう。これまで築き上げた全てを失う可能性もある。


 私の入内は右大臣側の一手であったが、この事件により消えようとしていた。

 父の怒りは収まらない。


「女という女が、どいつもこいつも、光の君とか、光源氏とかもて囃しおって。あの男をいい気にさせよる!」


 桐壺帝は藤壺の宮の立后と、その皇子を次の次の東宮にすると意思表示した。


 その意味は……。


 今の東宮が即位しても、それは次の帝の中継ぎにすぎないということだ。

 外戚である右大臣としてはハラワタが煮えくりかえる思いだろう。内裏の出来事は、そのまま外戚の権勢に直結する。そこへもって、私の軽はずみな行動。


 右大臣は爆発するしかない。


 光源氏との色恋沙汰は、政治的な意味合いが強くなる。

 弘徽殿の女御と、その皇子を擁した右大臣側と、光源氏を後ろ盾にした左大臣側の藤壺の宮と皇子。


 朝廷での、二大勢力の権力争いである。


「『花の宴』のあと、よりにもよって弘徽殿の渡殿で、あの源氏とふたりでいたのか。こ、これは事実なのか! すずしい顔で、ワシを愚か者とあざ笑っておるのか!」

「も、申し訳ございません」と、筑紫が叩頭する。


 私は怒鳴り声が苦手だ。うぶ毛の一本一本が立ちあがるほどの嫌悪感を覚える。


「事実なのか」と、父はもう一度言ったが、その声は外に沈んでいた。


 興奮が冷めた頃合いを見計らって、私は筑紫に離れるように命じた。


「光源氏さまとは、そのような事実はございません」

「違うのか」

「ただ、東宮さまと光の君と一緒にはいました」

「それが愚かな行為なのだ。愚かすぎる!」


 右大臣は、その場にどかりと腰を落とすと、両手で顔をおおった。


 六の姫が光源氏と情を通じるなど、あってはならない。しかし、早晩、光源氏が私の部屋で夜を過ごしたという致命的な噂が出てくるだろう。


 あの優しい東宮が聞くと思うと胸が痛い。きっと苦しまれるにちがいない。


「噂が立つことが問題だ。人は信じたいことを信じるものだ。そなたは東宮妃として来月に入内する予定だった。それを知らぬ者はおらん。わかるか? こんな噂が立てば女御としての入内はむずかしくなる」

「根も葉もない噂ですが、それを実証する、なにかが他にあるのでしょうか」

「源氏の奴は、女ものの扇子を持っていた。ひらひらと赤い扇子を仰ぎながら、ゆるゆると歩いておったそうだ。誰という問いに、さあて、あの方は朧月夜に美しく立たれていた、とかなんとか抜かしおって、女官のひとりが、そなたの扇子だと言うたと」


 光源氏、やるな!

 さすが、私のモト推し。


(つづく)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る