(なんとか光源氏との一夜を過ごしたあと、気分が悪くて吐きそうな)第12話



 朝の光が御簾みす越しに淡い光を投げている。

 人びとが起き上がり、朝餉あさげの準備をはじめる刻限だ。


「起きてください、光源氏さま」


 彼は眩しげに目を細める。

 光ってはいても夜ほど気にならない。

 この世界の人間も光源氏が光っていることを認め、いつしか、それが普通になったのだろうか。


「起きてください」

「ああ、……朝なのか」

「人の来る前に逃げて」

「かわいい人よ。一夜の夢のような思い出に、あなたの名前を教えてほしい」


 かわいいと言われるたびに鳥肌が立つ。

 自分のしたことに悪びれもなく、罪悪感もない。犯罪を犯しても、警察に捕まったことを怒り、自分の罪を自覚しない典型的な奴なんだろう。


 それに昨夜のことを予想通りに誤解したようだ。女性に対して、うぬぼれと自信しかない。


「人が参ります。困るのは、あなたのほうよ」

「昨夜は、ああ……、頭が痛む。ねぇ、薬はない? え? 着替えるの。残念だな。もう帰らなきゃならないのか」


 わたしは強引に狩衣を整え、光源氏を追い立てた。


「お名前を教えてほしい。このままでは、あなたも心残りでしょう」

「それは、また、次の機会に」

「次か。では、その時に」


 あるか!

 そんなもん、絶対にないわ!


 光源氏は戸口に向かい、板戸を開ける。

 ざわめきはじめた弘徽殿では、女官たちは暗黙の了解のように彼を見てみないフリをするだろう。弘徽殿の女御こきでんのにょうごや右大臣に見つからない限り、逃げるのは容易い。そういう身分の男なのだ。


「姫さま、お目覚めでしょうか……」


 御簾みす越しに筑紫の声がしたと思うと、中途半端に消えていく。

 また、時が止まったようだ。正体不明のあの男があらわれたのだろう。


 ──さすが、オレの女。あの段階で、よく逃げたな。


「わかっていたら、助けに来い!」


 ──それは無理だ。しかし、うまくやった。幻覚を見る睡眠導入剤を用意しておいたのは用意周到だった。


「予防措置よ」


 ──それで、推しだった男に失望したか。


「失望したわ。残念だけど。でも、奇妙ね。そもそも『源氏物語』の筋書き通りなら、須磨に送るなど既定の事実でしょう」


 ──既定事実などない。


「つまり、未来は全くの白紙ってことなの」


 ──そういうことだ。おまえが好きに物語を書くんだ。


「そんな……、適当すぎる。いったいどういうこと」


 ──知りたがるのは、俺に興味があるからだろうな。


「興味という問題にすり替えないで」


 ──ハハハ……。


 空気が軽くなると同時に男は消えた。なんとか、あの正体をつかまねば、いったい何者なのだろうか……。


 執拗に私への愛を告白するのも、理由がつかない。同級生と言っていたが、クラスメイトの顔を順番に思い浮かべても、それに該当する男がいない。

 そうだろうか?

 見逃していることはないだろうか。




「六の姫さま」と、筑紫が声がする。

「筑紫、湯を用意してちょうだい」


 筑紫は御帳台みちょうだいの前にはべり、驚いた表情を浮かべた。


「湯ですか? このような朝から」

「そうよ、湯よ。掃司かもりづかさの誰かに用意させなさい」

「姫君、お身体をお拭きいたします」

「湯よ。湯じゃないと、この気持ち悪さは抜けないわ」

「また、わがままを。弘徽殿の皆さまから悪評をお受けになる覚悟でございますか」

「筑紫。ここの主人は誰だか忘れた? 弘徽殿の女御こきでんのにょうごに比べれば、わたしなんて、かわいいものよ」

「比べるお相手をお間違いではございます」


 光源氏のすべてを、肌から完璧に消し去りたかった。


「午後には御所を退出の予定でございます。あまり時間もございません」

「風呂!」


 その日の午後、弘徽殿の女御への挨拶などをすませ、実家に帰るため牛車に乗った。

 この時、物語では光源氏が従者の惟光に私が誰か探らせているはずだ。


 用意された牛車に乗る寸前、筑紫の耳もとで囁いた。


「筑紫、誰にも悟られずに、光源氏の従者、たしか名前は惟光これみつ。惟光がこの牛車を見ていたかどうか調べて」

「承りました」


 すまし顔でほほ笑み、筑紫は女官に伝え、その女官が行列からすっと消えた。


「ねぇ、筑紫」

「なんでございましょうか、姫君」

「あなた、只者じゃないわよね。これは確信だけど、間者すぱい組織でも管理しているの?」

「姫君、どうしてお分かりになられましたか」

「あなたが、わたしの女官についたのは、東宮さまとの話がはじまってからでしょう。違う?」

「ご明察でございます」

「他の妹たちに、あなたのような有能な女官はいないもの」

「わたくしの実家は、そういう家にございます。ですから、右大臣さまから姫君の側近にと」


 つい吹き出してしまう。残念なことに、光源氏という虫がついてしまったけど。どうするだろうか、この事実を。


「昨夜だけど。どうするつもりだった?」

「一応、飛び出す準備はしてございました。しかし、姫君がうまく対処なさいましたので」

「光源氏相手に、どう飛び出せるのかしら?」

「右大臣さまを呼びにでございます」

「自分では来ないつもりだった?」

「わたくしめが失敗致しましたら、責任を取ることもできませんゆえ」

「笑える。『源氏物語』に書いてない箇所って、ほんと自由ね。ご都合主義はいなめないけど」


 その後に聞いた筑紫からの報告では、惟光にも光源氏にも動きはなかったという。


「間違いないのね」

「姫君、あなたさまは東宮妃としての入内がお決まりにございます。そのようなことに、お心を煩わせては」

「筑紫、これは、あなたが考えている以上に大事なことなの」


 しばらく無言で、牛舎に揺られていると、筑紫が神妙な顔つきで私に言った。


「姫さま。姫君、先ほどから、ずっと、眉間に皺が寄せて黙っておいでですけれども。なにかお困りのことがあるのでしょうか? 筑紫は不安でございます」

「ねえ、筑紫。とても好きな人がいて、その方と仲良くしたいのだけど、でも、他の男と付き合う必要があって、こういう場合、どうしたらいいの?」

「それは、どの殿方についてでしょうか。最初の方と後の方のご身分やお名前にもよります」

「現実的なのね」

「恐れ入ります」



(つづく)

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