(光源氏に東宮、人生初の逆ハーレムは意外と薔薇色ばかりではなかった)第9話




 東宮が扇子で私の顔を隠したとき、薄暗がりから声をかける男が誰か確信をもてなかった。が、予想はできた。


 夜のしじまに、ぼうっと光っているからだ。


「散歩でもしているのか、源氏よ」

「兄君も珍しいことをなさっておられる」


 この場所で光源氏に出会うことは予想外で。いや、予想外ではない。そもそも、彼は藤壺の宮に会えず、落胆しながら弘徽殿こきでんへとそぞろ歩いてきたはずだ。


 これは、どうしたらいいのだろうか。


「そちらの姫君は? たいそう美しい髪と色白の長い指がたおやかなお方ですが……。さて、この月夜に、わたしは無粋な真似をしているでしょうか、兄君」と、光源氏はまったく悪びれもせずに言う。


 源氏の声はさえざえとしてよく通る美しい声だ。

 扇子の横からちらりと顔を盗み見た。


 その顔は──

 両性具有のような中性的な容貌で、化粧をすれば、さぞかし耽美な美女に化けるだろう。一方で、冷たさを称えた切れ長の目は傲慢さをたたえる。その飢えに渇いた野良犬のような淋しげな目付き。


 典雅な美しさを裏切るするどい目とのギャップ。これは魅力的すぎる。どんな非道なことをしても女は許すかもしれない。いや、彼は許されてきたのだ。全身から光を発しているけれど。


「無粋と知っているのであろう。戻りなさい、弟よ」

「そちらはどなたですか」


 他人の密会場面に、それも異母兄ではあるものの、東宮という高い身分の者に対して、おくする風も見せない。無粋な真似といいながら、去る気配もなさそうだ。

 自信にあふれた態度は『花の宴』でもそうだった。


 この場面、実際の『源氏物語』で東宮はいない。ほろ酔い加減の光源氏と六の姫が出合い、部屋に忍んできた彼と一夜を過ごしてしまう。


 六の姫は相手が光源氏と知ってよろめく。

 私が朧月夜おぼろつきよの君と呼ばれるのは、口ずさんだ短歌から光源氏が名付けた名前だ。


 本歌は、当時の歌人大江千里おおえのちさとによる『照りもせず曇りも果てぬ春の夜の朧月夜に似るものぞなき』で、その下句を呟きながら源氏に出会った所以からである。


「春の夜の朧月夜に似るものぞなき」


 この時、なぜ、東宮の胸に隠れながら、わたしは呟いてしまったのだろうか。なにか取り返しのつかないことをした気がする。


「月の使いのような姫に出会えるとは」


 すかさず源氏が答える。この打てば響く当意即妙な態度。これがもてはやされる理由なのだろう。

 私はあえて何も答えず、東宮を見た。

 透明なやわらかい視線に出会う。その目が、何がしたいのだと問うている。清らかで、穏やかな、彼こそ、何をしたいのだろう。


「東宮さま」

「なんだね、六……」と、私の名前と告げそうな唇を人差し指で抑えた。

「何もおっしゃらないで」

「兄君、お二人を邪魔しているようだ。では、これで、秘密は守りましょう」


 源氏は去っていく様子を見せている。


 どうしたらいい。


 この夜、光源氏と扇子を交換したはずだ。物語同様に扇子だけでも渡しておいたほうが良いのだろうか。あの不思議な男のミッションを遂行するなら、それは必要かもしれない。


 私は袴の腰にさした扇子を取り出して、うっかり取り落とした風を装った。


 カラン、カン、カン。


 緋色の扇子が、欄干らんかんにあたり、音を建て、スローモーションを見るように、ゆっくりと放物線を描き落ちていく。


「あっ」と、声を出した。


 光源氏が白い袂から美しい腕を伸ばし、宙でそれを捉える。

 彼は扇子をつかむと、するりと腰にさし、自分の扇子をこちらへ手渡した。暗がりのなか、東宮は彼が何をしたか見えないだろう。


「拾っていただき、ありがとうございます」


 嘘を告げる自分の声に震えた。


「照りもせず曇りも果てぬ春の夜の……」


 光源氏は歌いながら去った。


「何をしても絵になる男だ」

「東宮さまは、弟君をお嫌いなのですか?」

「なぜ、嫌うことがある。きわめて稀な人物だ。誰もが惹きつけられ愛さずにはおれぬであろう」

「私は好きではありません」

「今宵、はじめて会ったばかりで、なぜ、そのように思うのだ」

「姉君から聞いております。源氏さまのことをお嫌いなようですから」

「母君は、わたしを心配しているからだ。いや、恐れているという言葉が適切だろう。あの優れた弟は、わたしの地位を脅かしかねない」

「東宮さまは、すべてを自分のなかに飲み込んで黙っているような、そういう方なのですね」


 東宮は驚いた表情で私を見つめ、それから、声をあげて軽やかに笑った。


「面白い姫だね。ますます、あなたを知りたくなります。しかし、夜もふけました。名残り惜しいが、姫の名誉を守るためにも、今日は戻ろう。すぐにわたしの元においでなさい、六の姫よ。一日一日をいつもあなたを思いながら待っています」


 わたしは軽く微笑み、その場から立ち去ろうとした。別れがたくて振り返ると、まだ、東宮は渡殿わたどのの同じ場所に立っている。

 薄暗がりに軽く笑みを浮かべ、右手を優雅に上げて行くようにと揺らす。


 困った……。

 私は帰りたくなかった。あの暖かい胸に、もう一度抱かれたい。


 未練を残し振り返りながら、開戸に手をかける。



 ああ、光源氏と不倫するなんて、あの東宮を裏切ることなんて絶対にできない。私は……、間違いなく、東宮に恋してしまった。


(つづく)

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