(月夜に他の女を想ってそぞろ歩く光源氏と密会する予定だったはずの)第8話
『花の宴』が終わり、昼間の喧騒が嘘のように消えていた。どことなく寂しさの増した気怠い夜……。空気が冷えたせいで、軽く
ぼうっとした月が中天にかかっていた。
ほろ酔い気分に身を任せながら、光源氏は藤壺の宮への焼けるような思慕に心が乱れる。
もしかしたら、あるいは……、ひと目でも会えるかもと淡い期待を抱き、かの人が住む藤壺に向かう。しかし、宮の住む舎殿に入る折戸は、彼の訪れを拒否するように鍵がかかっていた。かつて手引きしてくれた女官も出てこない。
ほてった身体を持て余し、酒の酔いもあり、感情の高まった光源氏は
弘徽殿では三番目の折戸が開いている。忍び込んだ先で……、
「朧月夜に似るものもなし」
光源氏は孤独な心を抱いたまま名前も知らぬ女を口説き、危ういひと夜を過ごす。
*************
これが私の記憶する『源氏物語』での朧月夜について書かれた章。
恋焦がれる人に会えないからと、その空虚な気持ちを他の女で満たす。美しく憂いを秘めた顔は罪であり、ひと言でいえば危険で悪い男だ。
……で、私。その未来予定に気が重い。
『好きな女に会えない寂しさを別の女で満たす、そんな男だ』
この言葉は授業中に隣の人が言っていた。彼は引きこもりとかの噂で、すぐ学校からいなくなったが、その言葉だけは覚えている。
『源氏物語』はあくまでも光源氏に焦点が当たり、彼の態度を批判していない。むしろ孤独な寂しい男として描かれている。
でも、もしかして……、本質はその通りかもしれない。
光源氏には相手への思いやりが決定的に欠けている。それを
しかし、ミッションを完結するためには、この危険な光源氏と出会わなければならない。
東宮と一緒にいる場合じゃないんだけど……。
自分で歩いたほうがいいと強く思うが、この心地よさを失いたくなかった。
静かだった。
ときどき、フクロウだろうか。ホーホーという鳴き声が聞こえる。
御所は静寂のなかに沈み、ただ薄い夜霧のなかを抱き抱えられて進む。
紫宸殿から弘徽殿に至る場所で、「もう歩けます」と、東宮に囁いた。
「遠慮はいらない」
「ど、どうか、おろしてください」
「……」
足の
「東宮さま」
「その呼び方もいやだな」
「でも」
「わたしは東宮ではあるが、そなたの夫となる身でもある」
「降ろしてください」
「冷たい方だ」
東宮の首に回していた手を肩まで下げると、彼はまるで宝物を扱うように、優しい仕草で私を下ろした。床でトントンと足を叩いてみたが、なんともない。
それでもまだ、東宮は私の肘を支えている。なお悪いことに、私も離してほしくなかった。
「ありがとうございます」
「いいや、楽しい時でした」
わたしはそのまま立っていた。東宮も動かない。殿舎である梨壺に戻ろうとしない。お互いに何か言わなければと思うが、言葉が見つからない。
「六の姫……」
行燈の油脂が燃えるジージーという音が聞こえる。それほどの緊張に満ちた静けさに、心臓が不器用に高鳴る。
戸惑い、ただ立っているだけで、なんと間の抜けた姿だろう。ここは男女が気のきいた言葉を交わして、恋の
わたしたちは、無言で、次にどうして良いのか、ぎこちなく迷っている。
東宮が背後にある赤い柱に右手をつき、その影に私を誘った。
「東宮さま」
強引に引き寄せられるかと思ったがちがった。
「この夏に、帝は譲位なさるおつもりでしょう」
「では、東宮さまが即位されるのですね」
「これから夏にかけて、さまざまな政務や儀式が増えることでしょう。その時に……」
東宮は言葉を選ぶかのように黙った。慎重な人なのだ。
「わたしは、昔から弟である源氏が帝に立ってもよいと考えていました。王宮の誰もがわたしよりも源氏がすぐれていると知っています」
「ご負担なのですか?」
「静かに暮らしたいと思っているだけです。できれば、それは……、そなたと」
東宮との結婚は既成事実だ。あえて言う必要もないのに、この人は本当に誠実だ。この深い思いも知らず、朧月夜は光源氏との秘密の恋愛にのめり込む。
帝への入内が決まった姫との関係は、不道徳というより、危険な情事だ。帝の女に手をつけるなど死罪になっても不思議はない。
藤壺の宮のことといい。光源氏にとって許されない恋ほど、燃えるものはないのかもしれない。
この夜、彼は朧月夜の部屋に強引に入り強引に関係を結ぶ。彼にあこがれていた朧月夜は、そのまま流されるように関係を持ってしまう。
さて、どうしたらいい。
困っていると、きざはしの下から深い声が聞こえた。
「そんな場所で、宴の酔いを覚まされているのですか」
パサっと開く扇子の音がした。東宮が私の顔を隠すために扇子を開いた。
(つづく)
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