(光源氏が寝室に忍び込んできて、修羅場になりそうな)第10話



 きっと、たぶん、かなり原作とは違う道筋に向かってしまった。


 これで良かったのだろうか?

 こうした場合、答えは常に決まっている。

 良いわけがない。


『源氏物語』の筋書きが変化して、東宮、光源氏、私の三人が鉢合わせした展開。

 私は、しかし、ふと疑いを持った。もしかしたら、これは原本の展開だったかもしれない、と。


 というのも、今に伝わる『源氏物語』は写本で、紫式部の書いた原本は消失している。原本どころか、当時、書き写された写本さえ残ってない。現存するもっとも古い『源氏物語』は、二百年後に書かれた藤原定家の写本だ。


 本来のオリジナル。光源氏が須磨に左遷されたのは、朧月夜が原因ではなかった可能性も捨てきれない。


 平安時代は手書きで、多くの者は写本を読んだ。

 紫式部が生きていた当時でさえ、原文を写した第二、第三の作者が源氏物語の内容を変更することが可能なのだ。






 弘徽殿こきでんの戸口で東宮と別れた後、部屋に戻ると、筑紫が待っていた。疲れた顔を見せないが、あきらかに眠そうだ。


「お帰りなさいませ、姫君。女官たちに、夜着のお着替えをお手伝いさせます。今宵はお疲れでしたでしょう」

「まって、筑紫」


 私は文机から、薬の製法を書いた懐紙かいしを取り出した。


筑紫つくし、ここに書いた製法通りに芥子けしを使った薬草を煎じて、それを酒と混ぜて持ってきて」

「今からでございましょうか?」

「今からよ」

「このような夜に、典薬寮てんやくりょうの者に嫌われましょう」

「今まで、好かれていたの?」

「そのご見識、さすがでございます。以前の姫君とは、どこか一味ちがわれたようで、筑紫、感服するところがございます」

「違いがわかる女になったの、筑紫。今宵は、まだ終わっていない気がする。一応の備えよ。いそいで」

「お待ちくださいませ」


 筑紫が去り、女官たちの手伝いで十二単を脱ぐと、やっと息をつけた。

 身体が軽い。

 夜気は冷たく肌寒いが、それでもこの開放感を味わえるなら天国だ。

 女官たちは十二単を片付けると、叩頭こうとうした。


「ほかに御用はございますでしょうか」

「そこに控えていなさい。筑紫が戻ってくるまでね」


 もしかすると、これは無用かもしれないが、ひとりになりたくなかった。しばらくして、筑紫が戻ってきた。


「姫君さま。ご用意いたしました、こちらの酒瓶はいかがいたしましょうや」

御帳台みちょうだいの上に置いて、寝ていてもすぐ取れるところに、ええ、そこに。じゃあ、みな下がっていいわ」


 薄物の夜着のまま、御帳台みちょうだいに横になると、気の利く筑紫が火鉢を近くに置き、蝋燭の火を消した。


「お休みなさいませ、姫君」


 慣れない宴には、身体の芯から疲れた。その上、東宮とのこと、かたわらにいる時は、ドキドキして疲れを感じなかったが、彼が去ったあと疲労が増した。


 筑紫が御簾みすの奥に消えると、眠気に襲われ欠伸あくびがでる。


 薄物の夜着では肌寒いが、すぐ寝入ってしまった。今宵は、あまりに多くのことがありすぎた。


「東宮さま……」


 彼を呼んだ声までは自覚していたが……。


 夢うつつ、東宮のぬくもりを感じて身体がほてる。

 素肌に男の指が這う感覚。その心地よさに、水面に浮かんでいくような欲情に満たされる。


「美しい。白くきめ細かい肌は、しっとりとまるで吸い付くようだ」


 耳もとに聞こえるつぶやき。

 はっとした。

 これは夢ではない。


「だ、だれ?」


 声が掠れる。

 独立した生き物のような手が、私の乳房を揉みしだいている。すでに夜着ははだけ、あられもない姿を男にさらしていた。

 微妙な、触れているような触れていないような、その手の感触で身体がかってに反応している。


 香を焚き染めた強烈な匂い。

 この匂いは!

 暗闇に光る男の姿。


 とっさに悲鳴をあげようとしたが、片手で口を塞がれた。


「姫、どうか、お静かに。このような淫らな姿を、他の者に知られたくはないでしょう。ほら、こんなに身体は喜んでいる」


 耳もとで男が、ゾクっとするほど色っぽい掠れ声でささやく。

 光に浮かぶ、彼。あの光源氏の、美しくも妖艶な顔がまぢかにある。その目は冷たく、右唇が上がり笑みさえ浮かべている。


 下半身に押し付けられた右足から離れようと、必死でもがくと、両手を頭の上で押さえつけられた。両腕の自由を奪われ、さらに夜着が乱れていく。


「美しい姫、そんなふうに暴れないでください。それに、人をお召しになってはだめですよ。わたしは何をしても許される身なのです。静かになさい。……わたしに扇子を渡したのは、こういう意味なのでしょう。悪い姫だ」


 な、なんてやつ。なんて男だ。

 そうだ、光源氏は数日前に幼い紫の上を強姦にちかい形で妻にしている。こいつは、そういう男だ。


「誰か!」と、叫ぼうとすると、再び口をふさがれた。


 その手は容赦ない。


 抵抗を試みたが体格差も大きい。

 朧月夜は肉付きのよい小柄な身体で、背の高い源氏に全身を押さえられると逃げることもできない。


「ここで人を呼んでも恥をかくのは、あなたです。それでも、人をお呼びになりたいのか。あなたは、美しく、そして、どこまでも男好きがする身体を持っているのに」



(つづく)

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