(ヒステリックな弘徽殿の女御と対峙するしかない)第四話



 平安の世は、藤原一族による摂関政治の時代であった。

『源氏物語』は、この世相を色濃く反映して、帝が絶対権力者ではない。


 弘徽殿の女御こきでんのにょうごが産んだ皇子が、皇位継承者として東宮の地位についている現在。

 朝廷では右大臣の意見が政治を左右し、帝には忸怩じくじたる思いがあったろう。


 長年連れ添ってきた弘徽殿の女御こきでんのにょうごに当てつけるかのように、藤壺の宮を溺愛し、皇子を産むと、その功績を称え中宮の位を与えた。いわば、愛人が正妻の座にすわり、古女房を愛人の地位に落としたのだ。


 弘徽殿の女御のプライドをズタズタにする、この決定に帝の裏の思いが現れている。





 というわけで──

 プライドズタズタの姉、弘徽殿の女御こきでんのにょうごの部屋に入ろうなんて、私は勇者か。


 きっと殺伐としているんじゃないかと思ったが、その通りに女のヒステリィックな叫び声が聞こえた。

 キィキィした、その声。


 できる女官、筑紫が私を意味ありげに見つめる。ここは静かにしたほうがいいと、無言で訴えかけている。


「この器はなんじゃ!」


 激怒した甲高い声が、さらに聞こえる。


「お、お許しくださいませ。ど、どうぞ、わ、わたくしに罰をお下しくださいませ」

「その者、二度とわらわの前に出すな!」


 バタバタっと音がして、若い女官が飛び出してきた。両手で押さえている頬から、血が流れている。


 筑紫の耳もとで囁いた。


「帰るか」

「いえ、ここは、そのまま。お戻りになられては、さらなる怒りがこちらにも」

「巻き添えは困るな」

「ご明察でございます」


 筑紫が唇さえ動かさず囁いたとき、朝餉あさげに出されただろう器を持って、さらに女官が部屋から飛び出してきた。


 弘徽殿の女御こきでんのにょうごはホルモンバランスの崩れはじめる四十一歳。


 興奮した怒りの声は、さらに増している。


「なんと申した。もう一度、申せ!」

「花の宴でございますが、お席は、その……」

「われは次の帝の母后ぞ。国母である。帝よぉおお! われに大后の称号を与えたろうがぁあああ!」


 想像するに、明日に開かれる『花の宴』の席次だろう。

 藤壺の宮の席次が上と知って、弘徽殿の女御こきでんのにょうごが怒り狂ったのだ。


 藤壺の宮は皇族出身であるが、朝廷に後ろ盾がない。帝以外の皇族は政治に関われない慣例があり、両親や叔父叔母に権力者がいない。藤壺の宮がいかに帝の寵愛をひとり占めしたとしても、政治的には脆弱ぜいじゃくだ。


「やはり、帰るか、筑紫」

「あとで死をたまわりそうでございます」

「待とう」


 ガチャンとモノが割れる音がして、再び、女官が飛び出してきた。今度は額から血を流している。


 しばらく、声が聞こえたが、その声も徐々に低くなった。体力の限界がきたのかもしれない。


「声をかけよ。筑紫」

「戦場にでございますが」

「おう。とっとと済ませよう」

「お覚悟を、姫君さま」


 筑紫はうなづくと、例のすました顔のまま、よく通る声で伝えた。


「六の姫さまが、朝のご挨拶に参りました」


 しばらく返事はなかった。


 渡殿でそのまま控えていると、中から女官が出てきた。着衣が乱れている。相当な修羅場だったのだろう。


「お入りくださいませ」


 筑紫に支えられ、室内に入って平伏する。


 正面の御簾みすがするすると上がり、薄暗がりに蹴落けおとされそうなオーラを放つ女性が座している。この人が悪名高い弘徽殿の女御こきでんのにょうごだろう。


 脇息に身体をあずけるでもなく、ピンと背筋を伸ばしている。

 先ほどまで感情に任せて怒鳴っていたなどつゆほども感じさせない。


 静かに端座するさまは、感情のないマネキンのようにも、同時に何かを必死で耐える苦行僧にも見えた。


 おそらく、私が敗残兵の痛々しさを感じるのは、ライバルである藤壺の中宮は二十五歳。最初の子どもを産んだばかりの女として最高に美しい年齢で、それに対する更年期直前の四十一歳だからだろうか。


「待ちわびたぞ。六の姫」

「姉君さま、ご挨拶を申し上げます」


 弘徽殿の女御は返事をしない。


 しかたなく、周囲を観察した。

 数人の女官が控え、フスマ障子にはあでやかな色使いで「列女伝」の絵が描かれている。


『列女伝』とは模範的な妻の姿を教える絵だ。源氏物語といえば、寝取られ、とっかえひっかえの不倫社会だから、これは皮肉でしかない。


 それにしても……。


 静かだ。

 静かすぎる。


 対峙したまま、時だけがジリジリと流れていく。


 苦痛なほど長く緊張する時が過ぎた。


 なんとなくだが、弘徽殿の女御こきでんのにょうごの姿が、私の母と重なった。母の年齢は、同じ四十一歳。平安時代なら普通のことでも、現代では若すぎた。


 甘やかされて育った母は我慢を知らない。弘徽殿の女御こきでんのにょうごは感情が表情に直結する母と同じ匂いがする。


 東宮が、繊細で優しい男に育ったのもわかる気がする。

 母を気使い心配をかけないようにした私と、もしかしたら、東宮は似ているかもしれない。


 私は、この東宮に入内することが決まっている。甥っ子との婚姻だ。

 弘徽殿の女御こきでんのにょうごとは、親子ほど年齢が違う。私は十六歳で、東宮は二十三歳で年上になる。


 ややこしいけど年下の叔母にあたるのが私。


 なんてことを考えながらも、ダンマリで過ごすのに耐えられなくなって、「姉君さま」と、言ってみた。


「六の姫、弘徽殿はいかがじゃ」

「もの珍しくて」

「東宮さまとは和歌など交換しておろうな」


 来てるのかどうかって、そんなこと知らない。筑紫の顔を見ると、目を不自然にパチパチしている。


 してるのか?

 筑紫が唇を動かし、「はい」と無音で形造ったようにも見えるが定かではない。曖昧に言葉を濁してみた。


「東宮さまには、とても優しくしていただいております」

「そうであるか」

「桜がきれいでございますね。……明日は桜の宴ですが。姉君さまは行かれるのですか?」


 フンっと、鼻で息をして、女御が左を向いた。斜め左に控えていた女房が、うつむく。視線を合わせたくないのだろう。


「さあな」と、怒りが溢れるような声だ。


 ああ、言ってみたい。

 ここで、私は今世紀最大のスクープを発表したい。


 実は、藤壺の宮が産んだ皇子は帝の子じゃない。光源氏との不倫で生まれた子なのだ。


 藤壺の宮は、その宴で針のむしろだろうし、光源氏は最愛の母に似た彼女を恋焦がれている。

 いろんな意味で興味深い宴なのだ。


 さらに恐ろしいのは、たぶん帝は、この事実を知りながらも、宮を愛していることだ。


 こんな衝撃スクープを教えたら、弘徽殿の女御こきでんのにょうごは、さぞ喜ぶだろう。右大臣にとっては、光源氏と中宮を追い落と最高の切り札でもある。


 しかし、光源氏を傷つけるなんて、私にはできない。


 黙ったままでいると、やっと女御が話しはじめた。


「幼い頃は、よくふたりでこの弘徽殿で遊んだであろう……。そうそう、六の姫や。そこの衣紋掛えもんかけにある衣装じゃが、あざやかなあかね色に染めておいた。われには派手であろうか」


 え? その派手な若造りの衣装は、私に下賜するんじゃなくって、自分が着るつもりなのか。これは、あきらかに「派手ではない」という返答待ち。


「姉君さまに、よくお似合いと思います」

「そうか。華やかな宴になろうな」


 女御は満足気にうなずき、筑紫はほっとした表情を浮かべた。


(つづく)

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