(ヒステリックな弘徽殿の女御と対峙するしかない)第四話
平安の世は、藤原一族による摂関政治の時代であった。
『源氏物語』は、この世相を色濃く反映して、帝が絶対権力者ではない。
朝廷では右大臣の意見が政治を左右し、帝には
長年連れ添ってきた
弘徽殿の女御のプライドをズタズタにする、この決定に帝の裏の思いが現れている。
というわけで──
プライドズタズタの姉、
きっと殺伐としているんじゃないかと思ったが、その通りに女のヒステリィックな叫び声が聞こえた。
キィキィした、その声。
できる女官、筑紫が私を意味ありげに見つめる。ここは静かにしたほうがいいと、無言で訴えかけている。
「この器はなんじゃ!」
激怒した甲高い声が、さらに聞こえる。
「お、お許しくださいませ。ど、どうぞ、わ、わたくしに罰をお下しくださいませ」
「その者、二度とわらわの前に出すな!」
バタバタっと音がして、若い女官が飛び出してきた。両手で押さえている頬から、血が流れている。
筑紫の耳もとで囁いた。
「帰るか」
「いえ、ここは、そのまま。お戻りになられては、さらなる怒りがこちらにも」
「巻き添えは困るな」
「ご明察でございます」
筑紫が唇さえ動かさず囁いたとき、
興奮した怒りの声は、さらに増している。
「なんと申した。もう一度、申せ!」
「花の宴でございますが、お席は、その……」
「われは次の帝の母后ぞ。国母である。帝よぉおお! われに大后の称号を与えたろうがぁあああ!」
想像するに、明日に開かれる『花の宴』の席次だろう。
藤壺の宮の席次が上と知って、
藤壺の宮は皇族出身であるが、朝廷に後ろ盾がない。帝以外の皇族は政治に関われない慣例があり、両親や叔父叔母に権力者がいない。藤壺の宮がいかに帝の寵愛をひとり占めしたとしても、政治的には
「やはり、帰るか、筑紫」
「あとで死を
「待とう」
ガチャンとモノが割れる音がして、再び、女官が飛び出してきた。今度は額から血を流している。
しばらく、声が聞こえたが、その声も徐々に低くなった。体力の限界がきたのかもしれない。
「声をかけよ。筑紫」
「戦場にでございますが」
「おう。とっとと済ませよう」
「お覚悟を、姫君さま」
筑紫はうなづくと、例のすました顔のまま、よく通る声で伝えた。
「六の姫さまが、朝のご挨拶に参りました」
しばらく返事はなかった。
渡殿でそのまま控えていると、中から女官が出てきた。着衣が乱れている。相当な修羅場だったのだろう。
「お入りくださいませ」
筑紫に支えられ、室内に入って平伏する。
正面の
脇息に身体をあずけるでもなく、ピンと背筋を伸ばしている。
先ほどまで感情に任せて怒鳴っていたなど
静かに端座するさまは、感情のないマネキンのようにも、同時に何かを必死で耐える苦行僧にも見えた。
おそらく、私が敗残兵の痛々しさを感じるのは、ライバルである藤壺の中宮は二十五歳。最初の子どもを産んだばかりの女として最高に美しい年齢で、それに対する更年期直前の四十一歳だからだろうか。
「待ちわびたぞ。六の姫」
「姉君さま、ご挨拶を申し上げます」
弘徽殿の女御は返事をしない。
しかたなく、周囲を観察した。
数人の女官が控え、フスマ障子にはあでやかな色使いで「列女伝」の絵が描かれている。
『列女伝』とは模範的な妻の姿を教える絵だ。源氏物語といえば、寝取られ、とっかえひっかえの不倫社会だから、これは皮肉でしかない。
それにしても……。
静かだ。
静かすぎる。
対峙したまま、時だけがジリジリと流れていく。
苦痛なほど長く緊張する時が過ぎた。
なんとなくだが、
甘やかされて育った母は我慢を知らない。
東宮が、繊細で優しい男に育ったのもわかる気がする。
母を気使い心配をかけないようにした私と、もしかしたら、東宮は似ているかもしれない。
私は、この東宮に入内することが決まっている。甥っ子との婚姻だ。
ややこしいけど年下の叔母にあたるのが私。
なんてことを考えながらも、ダンマリで過ごすのに耐えられなくなって、「姉君さま」と、言ってみた。
「六の姫、弘徽殿はいかがじゃ」
「もの珍しくて」
「東宮さまとは和歌など交換しておろうな」
来てるのかどうかって、そんなこと知らない。筑紫の顔を見ると、目を不自然にパチパチしている。
してるのか?
筑紫が唇を動かし、「はい」と無音で形造ったようにも見えるが定かではない。曖昧に言葉を濁してみた。
「東宮さまには、とても優しくしていただいております」
「そうであるか」
「桜がきれいでございますね。……明日は桜の宴ですが。姉君さまは行かれるのですか?」
フンっと、鼻で息をして、女御が左を向いた。斜め左に控えていた女房が、うつむく。視線を合わせたくないのだろう。
「さあな」と、怒りが溢れるような声だ。
ああ、言ってみたい。
ここで、私は今世紀最大のスクープを発表したい。
実は、藤壺の宮が産んだ皇子は帝の子じゃない。光源氏との不倫で生まれた子なのだ。
藤壺の宮は、その宴で針のむしろだろうし、光源氏は最愛の母に似た彼女を恋焦がれている。
いろんな意味で興味深い宴なのだ。
さらに恐ろしいのは、たぶん帝は、この事実を知りながらも、宮を愛していることだ。
こんな衝撃スクープを教えたら、
しかし、光源氏を傷つけるなんて、私にはできない。
黙ったままでいると、やっと女御が話しはじめた。
「幼い頃は、よくふたりでこの弘徽殿で遊んだであろう……。そうそう、六の姫や。そこの
え? その派手な若造りの衣装は、私に下賜するんじゃなくって、自分が着るつもりなのか。これは、あきらかに「派手ではない」という返答待ち。
「姉君さまに、よくお似合いと思います」
「そうか。華やかな宴になろうな」
女御は満足気にうなずき、筑紫はほっとした表情を浮かべた。
(つづく)
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