(お姫様としての作法は一切わからないけど有能な部下に恵まれたのでなんとかなりそうな)第3話




 室内に戻り、「泣くな、筑紫」と、なぐさめたけど。本当に泣きたいのはこっちだ。


「ところで、姉君がわたしを呼ぶ理由はなに?」

「わたくしのような者に、そのようなことをお訊ねになっても」


 筑紫は、すました顔で言っているが、これは嘘だ。目が微妙に泳いでいる。

 わたしは彼女の前にしゃがみこみ、顔をのぞきこんだ。筑紫が動揺して顔を伏せる。


「姫さま、はしたのうございます」

筑紫つくし、理由は説明できないが、わたしは、わたしがわからない。本当の名前も思い出せない。母親が誰かも知らない。父親は右大臣で、姉は弘徽殿の女御こきでんのにょうごで、十六歳ってくらいしか知らない。だから、困っているんだ」

「えええっ?」


 すまし顔だった筑紫が、あきらかに慌てた。それから、女官としての訓練からか、再び能面のような顔つきに、見事なくらいきっちりと戻した。

 仕事のできる有能な女なんだろう。


「頭のほうは大丈夫だ」

「と、とても、そのようには」

「いいか、このような事が表沙汰になれば、わたしは次期帝に入内できなくなるぞ。それは、すなわち、筑紫。失態をしたのは誰になる。責任を取るなら、最初は筑紫だろう」


 ごくりと彼女の喉ぼとけが上下した。


「し、知っていることと申しますと」

藤壺ふじつぼの宮は中宮になったのか?」

「宮さまは、昨年の夏に中宮におなりあそばされました」


『源氏物語』は、四代に渡る帝の治世、七十年余の世界が描かれる大長編。

 

 その長い時間軸のなかで、藤壺ふじつぼの宮が中宮になったのが昨夏なら、源氏物語で朧月夜が初登場する時期だ。光源氏が二十歳である、その時間にわたしは転移している。


 弘徽殿の女御こきでんのにょうごが帝と結婚して二十数年、藤壺ふじつぼの宮が入内するまで、姉は後宮で最高位の存在だった。はじめて彼女の地位を脅かしたのが、若い藤壺の宮だ。


 当然、弘徽殿に仕える女官たちは、藤壺に住む人びとに、いい思いを抱いていない。弘徽殿派と藤壺派にわかれ、使用人たちも対立していることだろう。

 自分たちの利益にかかわるからだ。

 これは単純に夫を寝取られただけでは済まされない。大人の事情がある。東宮(皇太子)の地位をおびやす存在が、藤壺の中宮とその皇子である。


 鶯が鳴いている。

 季節は春。自分のいる時期と場所はわかった。


「行くわよ」

「どちらへ参られるのですか」

「姉君のところよ。案内なさい」

「かしこまりましてございます。まずは、ご装束を。これ、あずさ。こちらに」


 それからのことは、言葉では表せない苦痛だった。若い女官たちによって、正装の着替えがはじまったのだ。


 緋袴ひばかまをはき、ひとえ(肌着)をつけると、その上に、うちきを着付ける。それが五枚もあって、いちいち紐で結んでいくから、きついことこの上ない。


「きつい。息ができない」

「も、申し訳ございません」と、女官が平伏する。


 少し震えている。彼女にとって、私は殿上人てんじょうびとであり、気にいられなければ職を失う。職を失えば、生きていくことも困難だろう。


「つづけなさい」


 また着付けがはじまった。最後に唐衣からぎぬをつけると十二単が完成する。


 重い、衣装が重すぎる。こんなで歩けるとは思えない。


「ご案内もうしあげます」


 部屋の周囲をめぐる板張りの渡殿わたどの(廊下)を歩いて、姉に会いに行くだけで一大事だ。


 なんとかがんばって渡殿わたどのには出たが、これがもう、しずしずとしか歩けない。おまけに扇子で顔を隠せなど、転ばないのが不思議なくらいだ……、そう思った瞬間、気が緩んで、つんのめった。


「あ、ああ〜」

「ひ、姫君」

「おささえせよ!」


 言葉より先に、「おささえせよ」と叫んだ筑紫つくしが、板張りの床と私のあいだにスライディングして、自らの身体をさし入れる。


 グッジョブ! 筑紫。

 できる女だ。


 彼女の背中で自分の身体を支え、体勢を整え、なんとか起き上がった。


 これは、もう仕方ない。

 私は緋袴の裾をたくし上げ、両手で、むんずと十二単を抱えた。


「ひ、姫君、ひぃ〜〜。その、そのような」

「黙れ、筑紫。転んで怪我するよりましだ」

「そ、それだけは。は、はしたのうございます。姫君」


 ここは物語の世界だ。

 その分際で、なにが、はしたないだ。

 ドカドカドカと渡殿わたどのを歩いて、「こっちか」と、聞いた。


 ふっと気になって座敷のほうを見ると、女官たちが目を丸くしている。


「平伏せよ、六の姫さまですぞ!」と、筑紫がするどい声で命じた。


 姫のあられもない姿を隠そうと必死だ。


 あわててその場に頭を下げ、平伏する者たち。


 筑紫、とっさの判断で、この場を収めようと思ったようだ。

 いや、この女、やはりできる。


 渡殿わたどのの途中で、庭に出る数段の階段があった。室内に入るための開き戸もある。筑紫が耳打ちした。


「姫君さま、こちらに女御さまが」

「どうすればよい」

「どうか、お膝をおつきになって」

「わかった」


 その時、部屋の奥から、ヒステリックな怒鳴り声が聞こえた。ついで食器の割れる音が重なる。


 思わず、筑紫と顔を見合わせていた。


(つづく)

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