(朧月夜に納得がいかないけど、憧れの光源氏さまに会えるならやる気しかない)第2話




 女の姿が見える。

 このまま寝たふりをして、もう少し様子を見るか。それとも起きあがろうか。

 

 女は髪を後ろに軽くゆわえ、唐衣からぎぬからなる女房装束をつけている。平安時代の貴族の館に勤める女官の典型的な姿だ。


 年齢的にはおばさん?

 まっ白に顔を塗りたくっているが、白粉がヒビ割れてて、ちょっと怖い。疲れているのか、軽くあくびをして袖で隠した。


 相手の出方を伺っていると、女の動きが、ふいに止まった。


 空気がぐっと重くなる。


 几帳きちょうにかけられた生絹すずしが、風に揺られ膨らんだまま、ありえない状態で停止した。


 まるで、時が止まったかのようだ。


『源氏物語』には時が止まる場面はなかったはずだが、生き霊や怨念が人を殺す世界でもある。


 息を殺していると、またあの声が脳内に響いてきた。


 ──驚くな。俺だ。おまえを愛する同級生。


 声の男に気づいて力が抜ける。また変なことを言っているが、いちいちつっこんでいたら効率が悪そうだ。


「すぐ戻ったのね」


 ──寂しくさせたくなかった。それに、調べてきたんだ。朧月夜おぼろつきよは光源氏と恋仲となり、彼を左遷する原因をつくったんだな。右大臣家の六の姫。おまえに似あう高貴な身分だ。


「なんなら源氏を振って、次の帝の妃になる女性よ」


 ──おまえなら知っていると思っていた。


 とてつもない能力を有する、面倒な奴に好かれたということか。

 でも、信じられない。

 自分で言うのも悲しいけど。私を愛するなんて、そもそも嘘っぽい。女としては、なんの魅力もないはずだ。そう思うと心臓がズキッと痛む。


 ──時間がない。もう一分しか話せない。なにが知りたい。


 え? 後付け情報が多いよ。

 物事に取り組むには、まず状況をすべて洗い出して「条件の確認」を行い、次に具体的事象をすべて抽象・概念化、そこから「目標設定」を行なったのち、「優先順位」を設定して計画を立てる。

 これは基本中の基本。この男はたぶんそれができてない。

 ということは、この状況は男の単なる思いつきかもしれない。


「一分って、どういうことよ」


 ──接触できる時間は短い。残り五十秒だ。知りたいことは。


「ここから私は、帰れるの?」


 ──ああ、俺が満足し……。いや、こうしよう。ミッションをクリアしろ。そうしたら、帰れる。


「ミッション?」


 やはり間違いない。このミッションも彼の思いつきにちがいない。


 しかし、侮ってはいけない。この世界に私を送り出した張本人だ。ということは、簡単に私を消せるだろう。


 ふうう、ため息しかない。やはり、とんでもなく厄介だ。


 ──あんたは朧月夜おぼろつきよだ。だから、光源氏を地方に左遷させんして追い落とせば、ミッション完了。どうだ?


 どうだって聞かれても、須磨への左遷は源氏物語では既定コース。順調に物語を進めさえすれば達成できる条件を、なぜ、あえて。やはり、この条件も適当に作ったにちがいない。


 だけど……。

 そんなのダメだ。私の光源氏を追い落としたくない。最愛の推しなんだから。だから、でも、どうしたらいいだろう。


 この男の真意はわからない。彼に直接反抗する姿勢を見せるのは、今のところ愚策だ。とりあえず、間接的に抗議してみよう。


「そんなことしている時間はないわ。だって、受験もあるのよ」


 ──大丈夫だ。ここの時間は現実世界と別に流れる。ミッションを完了すれば、もとの時間軸に戻れる。残り、十秒。


「残り時間なんて、融通が効かないったら」


 ──あと三秒。


「あなたは誰?」


 返事はなかった……。


 几帳きちょうにかけられた生絹 《すずし》が、ふわりと揺れてもとに戻る。空気が軽くなり流れていく。


 目の前にいる女房の口が開いた。


「お目覚めくださいませ、姫君。弘徽殿の女御こきでんのにょうごさまが、お呼びにございます。お支度を整えさせていただきとうございます」


 とりあえず、この場所がどこなのか確認しよう。この女官を恐れる必要はない。


 一瞬のふいをついて寝台から飛び出してみた。


 板張りのフロアに置かれた几帳を倒して、先にある御簾みすをくぐると渡殿わたどの(ろうか)で、その先には庭園が広がっている。


 うぐいすの鳴き声が聞こえた。


 空を見上げると、薄赤いところと、白々しらじらしたところがあって、夜明けなのだろう。庭方面から明るさが増している。

 ということは、この部屋は東に面しているのだ。庭の先には別の舎殿しゃでんが見える。


「ひ、ひっ、姫君さま」


 背後から声がする。


「名前は?」

「はい?」

「あなたの名前を聞いているの。名前は?」

筑紫つくしでございます、姫君さま。なぜ、わたくしの名前をお聞きあそばすのですか」


 筑紫つくし……。

 私は右大臣の六の姫君だから、お付きの女官も、それなりの身分だろう。


 声の男が言っていた通り、朧月夜おぼろつきよの身分は高い。


 父親は右大臣という最高権力者のひとり。姉が現帝の女御であり、東宮(皇太子)の実母だ。


 この姉が、かなり厄介でクセモノのはず。


 光源氏の敵で悪役として名高い弘徽殿の女御こきでんのにょうご


 で、ここはどこだろう。

 内裏(帝の住まい)なのだろうか? だとしたら、おそらく、姉が住む弘徽殿こきでんの舎殿内だろう。


 権力者の娘が後宮に入ったとき住居するなかでも、もっとも格式が高い場所が弘徽殿こきでんで、この建物の名前から、姉は弘徽殿の女御こきでんのにょうごと呼ばれている。弘徽殿に住むいちばん偉い女ってことだ。


「イタッ」


 裸足のまま庭に降りたので、石が足裏を傷つけた。


「姫君さま、どうぞ中にお入りくださいませ」

「筑紫」

「はい」

「姉君に、ちょっと待っててと伝えて」


 筑紫は言葉を失っている。

 見るまに顔が青ざめていく。そうだった。姉は悪辣あくらつでヒステリックな女として有名だ。

 命令に逆らえば、どんな難がくるかわからない。そんな顔つきをしている。


「どうか、お許しくださいませ。ど、どうか、この場で、わたくしめを殺してくださいませ」

「それほど、姉が怖いか」

「め、めっそうもございません」

「怖いんだな」


 筑紫つくしは這いつくばるように、その場に身を伏せていた。


 なるほど、これは立ち回りを考えなければいけないようだ。


(つづく)

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