九. 転機

 それまで順調だった慶広の人生も、後半に入り、徐々にかげりを見せ始める。

 彼は、時流に乗るのは得意だったが、反面、「家族」には恵まれなかった。

 天は人に必ずしも幸福だけを授けるわけではない。


労咳ろうがいだと。誠か」

 ある時、慶広が信頼し、嫡男の盛広につけていた、厚谷あつや貞政さだまさという家来が、彼に悲愴な表情で告げてきた。


「はっ。誠にご無念にございますが、若君はもはや……」

 長くはない。その言葉の先を聞かずとも、もちろん慶広はわかっていた。


 労咳。つまり肺結核であり、近代医療が整う以前においては、これは「死の病」と言われていた。一度罹ると完治は難しく、体はどんどん痩せ衰えていき、咳が止まらず、血を吐く「死の病」。


 慶広は、最も信頼し、跡継ぎに指名し、ましてやすでに家督すら譲っていた盛広を失うという事実に、衝撃を受け、同時にかつての「天才丸」と呼ばれた頭脳を回転させる。


(血筋から言えば、嫡男の竹松丸だが、まだ十歳にも満たぬ。かと言って、弟に継がせるのも厄介なことになる上に、早々に決めて、世継ぎの名をご公儀に提出せねば、松前家は取り潰しになるやもしれん)

 彼には、弟に吉広よしひろ守広もりひろがいたが、吉広はすでに老齢に近く、一方守広は、別家を立てて、そこの当主になっているため、世継ぎには相応しくない。


 かと言って、未だに十歳にも満たない盛広の男子を跡継ぎとして届け出るのも問題となる。

 苦悩の末、彼は幼い竹松丸を無理矢理元服させて、公広きんひろと名づけ、自分の邸宅に住まわせて、傅役もりやくをつけて、世子せいし、つまり「跡継ぎ候補」として英才教育を施し、幕府には、


「世子・公広が幼少の為、成人するまで、それがしが後見する所存」


 と書いて提出する羽目になった。


 慶長十三年(1608年)。将来を嘱望されながらも、盛広は労咳により、亡くなる。享年38歳。二代続けて蠣崎(松前)氏の長男が夭折したことになる。


 労咳により、著しく痩せ衰えた我が子の亡骸を見るに忍びず、通夜は近親者だけで済ませ、法憧ほうとう寺でひっそりと行われ、雪の降りしきる中で葬儀が行われた。


 実は慶広は、以前にも次広つぐひろという男子を疱瘡ほうそうが原因で、わずか12歳の若さで亡くしており、二度に渡る身内の不幸に見舞われるのだった。


 そんな折。

 徳川家康から使者が来た。


 はるばる江戸から出向いてきた、幕府の使いは、疲れを見せる顔も見せずに、淡々と、まるで隠密のように事実だけをしたためた文を、彼に手渡した。


 中には、家康からの直筆で、

花山院かさんのいん様の嫡男、忠長様が蝦夷ヶ島に配流になった故、面倒を見るように」

 と記載してあった。


「花山院様とは、お公家様の?」

 一応、廻船を通じて、今も若狭の敦賀経由で、京都からの情報を仕入れている慶広はすぐに思い当たる節があったが、使者は家康から説明を受けているのか、一通り、説明はしてくれたのだった。


 花山院忠長。

 れっきとした公家である。

 慶長十四年(1609年)。複数の朝廷の高官が絡んだ醜聞事件が起こる。これを「猪熊いのくま事件」と呼んだが、そのうち忠長は左大臣・花山院定熙さだひろの長男でありながら、後陽成ごようぜい天皇の女官・広橋局ひろはしのつぼねと密通した罪により、蝦夷地への配流が決定した。


 つまり、早い話が「金持ちのボンボンの女遊び」であり、それも対象が天皇の女官だから、尚更性質たちが悪い。


 当初、それを聞いて慶広は、

(厄介な荷物を頼まれた)

 と乗り気ではなかった。


 ただでさえ、嫡男が亡くなり、急ぎ後継者を育てなければならない折に、金持ちの公家の相手などしていられない。


 だが、それが徳川家康の命令となれば別になる。


 渋々ながらも、やがて花沢館に入った花山院忠長を、慶広は自ら出迎え、その後、松前城下の萬福寺に逗留させることにした。


 その萬福寺で慶広が謁見すると、相手はまるで絵に描いたような「ボンボン」だった。

 綺麗に着飾った、鮮やかな緑色の狩衣かりぎぬを着て、烏帽子を乗せ、お歯黒を塗った、見るからに公家姿の若輩者で、それこそ慶広とは親子どころか、祖父と孫くらいの年齢差がある。この時、忠長は23歳。


 それが、

「伊豆守」

「はっ」

 当時、慶広の官位は伊豆守。それを偉そうに上から告げた後、平伏する彼に対し、


「大儀である。蝦夷ヶ島に流されたからには、せいぜい楽しませてもらう。麿まろを満足させよ」

「ははっ」

 傲慢な態度で命令を下した。


 正直、最初の印象としては、最悪の部類に映った、公家の若者。


 ところが、人の第一印象と、その後の交流での変化とは不思議なものである。

 時が経ち、賓客のようにもてなすうちに、花山院忠長は機嫌を良くし、歌を詠むようになった。


 それに対し、慶広もまた、京都からの交易船から運ばれて来る本による知識があったため、歌を持って返す(返歌)うちに、両者はすっかり打ち解けてしまっていた。


 まるで祖父と孫ほども年が離れた二人は、十年来の友人のように、酒を交わし、踊り、歌を唄い、交流をしていた。


 最初こそ高慢な態度が気に入らなかった慶広だったが、接してみると、彼は気のいい若者であることがわかり、彼から京都の情報や、公家文化を学ぶきっかけにもなった。


 実際、慶長十七年(1612年)4月には、梅見の宴が松前城下で行われ、その席上、二人は歌を詠み合っている。


 忠長が、

「都にて かたらば人の いつはりと いわん卯月の 梅のさかりを」


「いつはりと ゑそやいはまし 卯月にも 梅のにほひを 風のをくらば」

 と歌ったことに、慶広が、


「わきて今日 大宮人の ながれは 梅の匂ひの 猶ふかきかな」

 と返歌している。


 慶長十九年(1614年)5月28日には、配所が松前から津軽へと変更となり、忠長は津軽に移動するが、それまでの間に彼が持ち込んだ「京文化」が松前に京文化が伝わるきっかけになったという。

 また、京都の公家によしみを得たことで、松前家には以後累代に渡って公家との婚姻が続き、松前家の格を高めると共に、松前に京都の公家文化をもたらしたとも言われている。

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