八. 松前氏誕生

 文禄四年(1595年)。慶広の父の季広が亡くなる。享年89歳と伝わるが、平均寿命が50歳前後と言われる戦国時代においては、驚異的な長寿を全うした。


(父上。蠣崎と蝦夷地は私が守ります)

 父と同じように、すでに幾人もの子をもうけていた慶広は、巧みに時代の「流れ」を見極める。


 秀吉の朝鮮出兵は失敗し、その秀吉が慶長三年(1598年)、失意のうちに亡くなる。

 その瞬間、慶広はもう動いていた。


 密かに江戸の徳川家康に使者を送り、是非会いたいという旨を伝える。

 多忙な家康であるため、会見は延期されたが、翌慶長四年(1599年)、ついに会見が実現する。


 秀吉の時と同じように、相手の本拠地である、今度は江戸まで出向いた慶広は。

 今度もまた、「作戦」を考えていた。


 蠣崎慶広、この時、52歳。すでに老境に入っている。

「蠣崎殿。遠路ご苦労」

 派手好き、明るい性格の秀吉とは打って変わって、物静かで落ち着いた老人といった印象を、慶広は彼に抱く。この時、家康は58歳。戦国時代で50代はすでに老人だった。太ったタヌキのような風貌を見せる、家康に対した彼が告げる。


「はっ。こたびの会見、恐悦至極に存じます。つきましては、こちらを内府ないふ殿に献上致します」

 内府、とはこの頃の徳川家康が、内大臣だった為の尊称である。

 まだ幕府を開く前の徳川家康。しかしながら、関ヶ原の戦いを目前に控え、ある意味では非常に神経質でピリピリしている時期でもあった。


 その家康に差し出したのは、地図だった。

 蝦夷地の全体を示す地図で、後の江戸時代ほど測量を行っていないため、もちろん、現代では考えられないくらいの「粗い」地図ではあるが。


 それを見た家康は、殊の外喜んだという。

「ほう。これは珍しいな。蝦夷地の図か」


「はい。お気に召しましたか」

 これもまた、相手の「関心」を買うための、彼の戦術であった。


「うむ。そなたの気持ちは、しかと受け取った」

 その言葉を聞いて、安堵すると同時に、辞去しようと思っていた慶広に意外な声がかかる。


「待たれよ」

「はい」


「そなたが暮らしておる、確か大館じゃったか」

 地図を見ながら、家康は目を細めて、指で示したため、慶広は家康に近づいて、同じく指で示す。


「こちらにございます」

「うむ。この辺りは、そなたらが住む、アイヌの言葉で何と申すのか?」

 徳川家康という男は、秀吉ほどではないが「珍しい物が好き」だったと伝わっており、南蛮渡来の舶来品を複数所持していたり、南蛮から大砲も取り寄せている。

 その辺りが、彼の琴線に触れたのだろう。


「アイヌ語では、『マトマエ』と申します」

 アイヌ語はしゃべれずとも、アイヌ語の地名くらいは、蝦夷地に住む者なら誰でも知っていたから、彼は何気なくそう告げたのだが。


「マトマエか。そうか。であれば、この際に、名を改めてはどうじゃ」

「名を、でございますか」


「左様。松前まつまえと」

「ははっ」


 蠣崎氏から松前氏へと続く、その瞬間だった。一説には、松前の由来は、前田利家の「前」と松平(徳川の旧姓)家康の「松」から取ったと言われるが、それは俗説である。


 早速、蝦夷地に戻った慶広は、城を移すことを決意する。

 それまでの大館から、現在の松前城がある福山へと居城を移す。


 やがて、中央では関ヶ原の戦いが始まるが、慶広は最初から徳川家康が勝つと思っていたから、何の感慨も抱かずに、領地経営に邁進していた。


 福山城をさらに拡大し、6年もの時間をかけて、城を建築。

 松前城が完成する。


 慶長五年(1600年)、家督を嫡男の盛広もりひろに譲り、盛広も従五位下・若狭守わかさのかみを賜ったが、その後も慶広が政務を司った。これは彼の父・季広が取ったような政策に似ている。


 慶長八年(1603年)には、江戸に幕府を開いた家康のために、江戸に参勤して百人扶持を得た。


 慶長九年(1604年)、家康より黒印制書を得てアイヌ交易の独占権を公認され、さらに従五位下伊豆守いずのかみに叙位・任官された。これらをもって、松前氏を大名格とみなし、慶広を松前藩の初代藩主とするのが定説になっている。


 蠣崎慶広、いや松前慶広は、ついに一介の国人領主であり、被官でもある立場から、一大名となっていた。


 だが、天才丸の順調だった人生にも、徐々に狂いが生じ始める。

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