七. 朱印状の威光

 九戸政実の乱が終わった後。


 豊臣秀吉は、朝鮮出兵というものを始める。これは晩年の秀吉の失策の一つとして、挙げられるが、中央より遠い蝦夷地にいる慶広は、その成否自体には興味はなかった。


 ただ、これを「利用する」機会が巡ってきたと思っただけだった。


 文禄二年(1593年)1月。

 蝦夷地からは、まるで異国のように遠い、肥前ひぜん国(現在の佐賀県、長崎県)名護屋なごや城。


 この時、秀吉は全国各地の大名にもちろん「朝鮮出兵」を命じていた。

 ただし、蠣崎氏は遠方という理由で、出兵対象からは外されていた。


 にも関わらず、彼は家臣の反対を押し切って、わざわざ兵を率いて、名護屋に参陣したのだった。


 もちろん、それなりの「意図」を携えて。慶広は、前回、秀吉と会った時と同じように、色鮮やかなアットゥシを着て、参陣。


 突如、やって来た、異国の兵士のような異相に、たまたま軍議の為に、陣幕に参集していた並み居る武将たちが驚愕する中、陣幕の中央にいた秀吉は、大袈裟なくらいの感情を示したのだった。


「これは、蠣崎殿ではないか! よう来てくれた!」

「ははっ」


 さすがに前回と同じでは芸がないことを知っている慶広は、アットゥシこそ献上はしなかったが、別の策を考えていた。


「呼んでもおらんのに、わざわざ蝦夷地から来られるとはのう。何とも縁起がよい。これは朝鮮征伐成功の兆しじゃのう!」

「おめでとうございます、殿下」

 かいがいしく、機嫌を取るようにおべっかを使う、石田三成がそう告げる。


 そして、気分が良くなった秀吉は、陣幕に参じた慶広にこう告げたのだった。

「そなたを従四位下じゅしいのげ右近衛うこんえ権少将ごんのしょうしょうに任じる」


 誰もが蠣崎慶広は、「戦に出ずに恩賞をもらえるとは羨ましい」と思い、彼に羨望の眼差しを向けていた。


 ところが。

「お断り致します」

 きっぱりと、そして鋭い眼光で告げた慶広。


「なにっ。わしの気持ちを受け取らんと申すか」

 途端に、天下人、秀吉は気分を害して、鬼のような形相に代わっており、石田三成が咄嗟に、


「これ、蠣崎殿」

 と諫めるように駆け寄ってくるが、慶広は、まったく意に介さないまま、諸将が驚くべきことを堂々と言ってのけるのだった。


「勘違いしないでいただきたいのですが。殿下のお気持ちは無論、嬉しく思います。されど、蝦夷地は自然厳しい土地。官位をいただいても、ご奉公の助けにはならぬのでございます」


「では、何が望みじゃ」


「朱印状をいただきたく存じます」

 諸将は、呆れたような表情になり、秀吉もまた鳩が豆鉄砲を食らったような、拍子抜けしたような顔を作る。


「朱印状じゃと」

「はい。我が蠣崎家が、蝦夷地で徴税が出来るようになる朱印状にございます。さすれば様々な蝦夷地の珍品、名物を殿下にお届けすることも可能にございます」

 餌を与えて、釣る。

 たとえそれが天下人であっても。


 慶広の腹の中は、こうした「策謀」に溢れていた。


 秀吉の大きな笑い声が轟いていた。

「いいだろう! ついでにそなたを志摩守しまのかみに任じる」

「ははっ」


 まんまと、作戦通りに朱印状を手に入れて、蝦夷地に帰った慶広は、早速領民と共にアイヌを集めろ、と家臣に命じた。

 同時に、もう一つ、


「この文をアイヌ語に翻訳しろ」

 とも。


 やがて、集まった領民たちに「朱印状」を示し、蠣崎家が蝦夷地を治める権利を得たことを示す慶広。

 領民たちは、素直に従ったが、アイヌたちは、翻訳された物を見て、納得がいかない様子で、口々にアイヌ語で不満を言った。


「わしら、アイヌは納得できん」

「ここは我らの土地でもある」


 訳するとそのような意味の反論でもあったが、もちろん慶広は、それすらも予想していた。


 そして、家臣の中で、アイヌ語が出来る者に、こう告げて、翻訳させた。

「わしの命令は、関白殿下の命令じゃ。もし、背くと十万の兵が攻めてくるぞ」

 と。


 まるで子供にでも伝えるかのように、大袈裟に伝えた慶広。

 もちろん、たとえ蝦夷地に反乱が起きても、秀吉がわざわざ十万の兵を率いてくるとは考えられないし、慶広もそれはないとわかっている。

 これはただの「脅し文句」に過ぎない。


 ただ、アイヌは、素直なところがあるので、それを聞くとみんな押し黙ってしまい、結局、「十万」という恐怖も手伝って、渋々ながらも承知するのだった。

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